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23話
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石造りの作業場に、研ぎ石と刃が擦れる鋭い音が規則的に響く。
ヴァンは一言も発さず、愛用の短剣を研いでいた。ランプの火に照らされた刃先が、鏡のように滑らかな光を跳ね返す。指先で刃の掛かりを確かめるその動作は、かつてないほど精密で、淀みがない。
「……準備は、どうだ」
低く、抑えの効いた声が静寂を切り裂く。
「へいへい。こっちはいつでも行けるぜ。王宮の搬入口に潜り込むための偽装馬車も、衛兵の制服も揃えた。あとはあんたの号令待ちだ」
ログが重い革の袋をテーブルに置いた。中からは金属同士が触れ合う、ジャラリとした音が漏れる。
「メイ、お前の方は」
「王宮内の地図は頭に入れたわ。リナートが幽閉されている離宮の守り、結構えげつないわよ。例の『鉄の公爵』ボリスが連れてきた私兵も混じってるみたい。あいつ、よっぽど自分の獲物を逃がしたくないみたいね」
メイが広げた羊皮紙には、複雑な回廊の構造が細かく書き込まれていた。
ヴァンの眉間に、深い皺が刻まれる。
公爵、ボリス。
冷酷な野心家として知られるその男が、あの無防備で世間知らずな銀髪をその手中に収めている。それを想像しただけで、ヴァンの心臓が焼けるような痛みと共に激しく脈打った。
「……、……あのアホが、大人しく座って待ってるとは思えねえ」
「違いないな。今頃、お菓子が出てこないって泣いてるか、窓から逃げようとしてドレスを破いてるかのどっちかだろうぜ」
ログの言葉に、作業場に微かな、それでいて確かな熱が戻る。
ヴァンは立ち上がり、壁に掛けていた黒い外套を羽織った。
背中には黄金の牙の紋章。
これまではただの居場所を守るための旗印だった。だが、今は違う。自分から手を離してしまった、あの唯一無二の光を奪い返すための旗印だ。
「行くぞ。今回の狙いは、国宝でも金貨でもねえ。……俺たちの、大切な拾い物だ」
ヴァンの号令と共に、団員たちが一斉に動き出す。
夜の帳が王都を包み、冷たい月が天頂に昇る。
ヴァンたちは闇に紛れ、王宮へと続く秘密の地下道へと足を踏み入れた。
一歩、また一歩と進むたびに、湿った土の匂いと古びた石の香りが鼻を突く。
ヴァンの頭の中には、去り際のリナートの顔がこびりついて離れない。
悲しげに揺れていた翡翠色の瞳。
あの時、自分の言葉が彼をどれほど傷つけたのか。それを考えるだけで、足元が崩れ落ちるような感覚に襲われる。
(……待ってろ。今度は、絶対に俺から離さねえ)
掌を強く握りしめる。
その中にはもう、リナートの柔らかい熱はない。だが、空っぽになったその場所が、今は何よりも強くヴァンを突き動かしていた。
「ヴァン。正面の第三門を抜けたわ。ここからは二手に分かれるわよ」
メイの合図で、ヴァンは頷いた。
彼は一人、離宮へと続く回廊を駆け抜ける。
警備の目は、ログたちが起こした陽動作戦によって手薄になっていた。
壁を蹴り、彫像の影に潜み、風のように移動する。
ヴァンの身体能力は、かつてないほど研ぎ澄まされていた。
肺が痛むほど冷たい空気を吸い込み、跳躍する。
辿り着いた離宮の最上階。
そこには、一際豪華な装飾が施された、重厚な扉があった。
中からは、人の気配がしない。
ヴァンは扉の鍵穴に針を差し込み、手際よく解錠した。
音もなく開いた扉の先、窓辺に腰を下ろして月を見上げている影があった。
絹のように滑らかな銀髪。
月の光を吸い込んで発光しているかのような、細い肩。
その姿を見つけた瞬間、ヴァンの思考は真っ白に染まった。
「……、……リナート」
掠れた声でその名を呼ぶ。
影がびくりと震え、ゆっくりと振り返った。
翡翠色の瞳に、ヴァンの姿が映る。
次の瞬間、その瞳にみるみるうちに涙が溜まり、溢れ出した。
「……ヴァン? 夢、ですか? 私の鑑定眼が、壊れてしまったのでしょうか」
リナートの声は、消え入りそうなほど細かった。
彼はふらふらと立ち上がり、覚束ない足取りでヴァンに歩み寄る。
ヴァンは堪らず駆け寄り、その細い体を力一杯抱き寄せた。
「……夢じゃねえよ。迎えに来た、バカ野郎」
腕の中に収まる、待ち焦がれた熱。
リナートの体からは、王宮の上品な香水の匂いではなく、どこか懐かしい、拠点の暖炉の匂いがした。
リナートはヴァンの胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくった。
「ひどいです……。勝手にいなくなれなんて言って……。私、お野菜の味がしなくて、とてもお腹が空いたんです」
「……ああ、分かってる。帰ったら、ログに特大のスープを作らせてやる」
ヴァンはリナートの背中を、大きな掌で何度も撫でた。
壊れ物を扱うような、それでいて二度と手放さないという執念がこもった手つき。
リナートの涙がヴァンのシャツを濡らし、そこから熱が直接心臓へと伝わってくる。
「ヴァン。私のこと、もう、いらないなんて言わないでください」
「……言わねえよ。お前がいない拠点は、ただの寒い洞窟だった。……俺には、お前が必要なんだ」
ヴァンの口から溢れた本音。
リナートは潤んだ瞳でヴァンを見上げ、ふわりと、あの出会った日のような無垢な微笑みを浮かべた。
「嬉しいです。私も、ヴァンがいない世界は、真っ暗で何も見えませんでしたから」
その時。
廊下の向こうから、複数の足音と、金属が擦れる不快な音が近づいてきた。
「……鼠が迷い込んだようだな。殿下の部屋で何をしている」
扉の隙間から、低く冷酷な声が響く。
現れたのは、豪奢な衣装を纏いながらも、その瞳には凍てつくような残虐さを秘めた男。
リナートの婚約者候補、ボリス公爵だった。
ヴァンの腕の中で、リナートが怯えたように身を竦める。
ヴァンはリナートを自分の背後に隠し、腰のナイフを抜き払った。
「……、……。誰が鼠だ。俺は、俺の探し物を取り返しに来ただけだ」
「探し物? 殿下が貴様のような下賤な男の物だとでも言うつもりか」
ボリスが嘲笑うように手を挙げる。
背後に控えていた私兵たちが、一斉に剣を抜いた。
奪還作戦は、まだ始まったばかりだ。
ヴァンの胸の鼓動は、戦いの高揚ではなく、背後にいる銀髪の青年の体温を感じて、さらに激しく打ち鳴らされていた。
この豪華な牢獄を突破し、真の自由を手にするために、最後の一線を越えようとしていた。
ヴァンは一言も発さず、愛用の短剣を研いでいた。ランプの火に照らされた刃先が、鏡のように滑らかな光を跳ね返す。指先で刃の掛かりを確かめるその動作は、かつてないほど精密で、淀みがない。
「……準備は、どうだ」
低く、抑えの効いた声が静寂を切り裂く。
「へいへい。こっちはいつでも行けるぜ。王宮の搬入口に潜り込むための偽装馬車も、衛兵の制服も揃えた。あとはあんたの号令待ちだ」
ログが重い革の袋をテーブルに置いた。中からは金属同士が触れ合う、ジャラリとした音が漏れる。
「メイ、お前の方は」
「王宮内の地図は頭に入れたわ。リナートが幽閉されている離宮の守り、結構えげつないわよ。例の『鉄の公爵』ボリスが連れてきた私兵も混じってるみたい。あいつ、よっぽど自分の獲物を逃がしたくないみたいね」
メイが広げた羊皮紙には、複雑な回廊の構造が細かく書き込まれていた。
ヴァンの眉間に、深い皺が刻まれる。
公爵、ボリス。
冷酷な野心家として知られるその男が、あの無防備で世間知らずな銀髪をその手中に収めている。それを想像しただけで、ヴァンの心臓が焼けるような痛みと共に激しく脈打った。
「……、……あのアホが、大人しく座って待ってるとは思えねえ」
「違いないな。今頃、お菓子が出てこないって泣いてるか、窓から逃げようとしてドレスを破いてるかのどっちかだろうぜ」
ログの言葉に、作業場に微かな、それでいて確かな熱が戻る。
ヴァンは立ち上がり、壁に掛けていた黒い外套を羽織った。
背中には黄金の牙の紋章。
これまではただの居場所を守るための旗印だった。だが、今は違う。自分から手を離してしまった、あの唯一無二の光を奪い返すための旗印だ。
「行くぞ。今回の狙いは、国宝でも金貨でもねえ。……俺たちの、大切な拾い物だ」
ヴァンの号令と共に、団員たちが一斉に動き出す。
夜の帳が王都を包み、冷たい月が天頂に昇る。
ヴァンたちは闇に紛れ、王宮へと続く秘密の地下道へと足を踏み入れた。
一歩、また一歩と進むたびに、湿った土の匂いと古びた石の香りが鼻を突く。
ヴァンの頭の中には、去り際のリナートの顔がこびりついて離れない。
悲しげに揺れていた翡翠色の瞳。
あの時、自分の言葉が彼をどれほど傷つけたのか。それを考えるだけで、足元が崩れ落ちるような感覚に襲われる。
(……待ってろ。今度は、絶対に俺から離さねえ)
掌を強く握りしめる。
その中にはもう、リナートの柔らかい熱はない。だが、空っぽになったその場所が、今は何よりも強くヴァンを突き動かしていた。
「ヴァン。正面の第三門を抜けたわ。ここからは二手に分かれるわよ」
メイの合図で、ヴァンは頷いた。
彼は一人、離宮へと続く回廊を駆け抜ける。
警備の目は、ログたちが起こした陽動作戦によって手薄になっていた。
壁を蹴り、彫像の影に潜み、風のように移動する。
ヴァンの身体能力は、かつてないほど研ぎ澄まされていた。
肺が痛むほど冷たい空気を吸い込み、跳躍する。
辿り着いた離宮の最上階。
そこには、一際豪華な装飾が施された、重厚な扉があった。
中からは、人の気配がしない。
ヴァンは扉の鍵穴に針を差し込み、手際よく解錠した。
音もなく開いた扉の先、窓辺に腰を下ろして月を見上げている影があった。
絹のように滑らかな銀髪。
月の光を吸い込んで発光しているかのような、細い肩。
その姿を見つけた瞬間、ヴァンの思考は真っ白に染まった。
「……、……リナート」
掠れた声でその名を呼ぶ。
影がびくりと震え、ゆっくりと振り返った。
翡翠色の瞳に、ヴァンの姿が映る。
次の瞬間、その瞳にみるみるうちに涙が溜まり、溢れ出した。
「……ヴァン? 夢、ですか? 私の鑑定眼が、壊れてしまったのでしょうか」
リナートの声は、消え入りそうなほど細かった。
彼はふらふらと立ち上がり、覚束ない足取りでヴァンに歩み寄る。
ヴァンは堪らず駆け寄り、その細い体を力一杯抱き寄せた。
「……夢じゃねえよ。迎えに来た、バカ野郎」
腕の中に収まる、待ち焦がれた熱。
リナートの体からは、王宮の上品な香水の匂いではなく、どこか懐かしい、拠点の暖炉の匂いがした。
リナートはヴァンの胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくった。
「ひどいです……。勝手にいなくなれなんて言って……。私、お野菜の味がしなくて、とてもお腹が空いたんです」
「……ああ、分かってる。帰ったら、ログに特大のスープを作らせてやる」
ヴァンはリナートの背中を、大きな掌で何度も撫でた。
壊れ物を扱うような、それでいて二度と手放さないという執念がこもった手つき。
リナートの涙がヴァンのシャツを濡らし、そこから熱が直接心臓へと伝わってくる。
「ヴァン。私のこと、もう、いらないなんて言わないでください」
「……言わねえよ。お前がいない拠点は、ただの寒い洞窟だった。……俺には、お前が必要なんだ」
ヴァンの口から溢れた本音。
リナートは潤んだ瞳でヴァンを見上げ、ふわりと、あの出会った日のような無垢な微笑みを浮かべた。
「嬉しいです。私も、ヴァンがいない世界は、真っ暗で何も見えませんでしたから」
その時。
廊下の向こうから、複数の足音と、金属が擦れる不快な音が近づいてきた。
「……鼠が迷い込んだようだな。殿下の部屋で何をしている」
扉の隙間から、低く冷酷な声が響く。
現れたのは、豪奢な衣装を纏いながらも、その瞳には凍てつくような残虐さを秘めた男。
リナートの婚約者候補、ボリス公爵だった。
ヴァンの腕の中で、リナートが怯えたように身を竦める。
ヴァンはリナートを自分の背後に隠し、腰のナイフを抜き払った。
「……、……。誰が鼠だ。俺は、俺の探し物を取り返しに来ただけだ」
「探し物? 殿下が貴様のような下賤な男の物だとでも言うつもりか」
ボリスが嘲笑うように手を挙げる。
背後に控えていた私兵たちが、一斉に剣を抜いた。
奪還作戦は、まだ始まったばかりだ。
ヴァンの胸の鼓動は、戦いの高揚ではなく、背後にいる銀髪の青年の体温を感じて、さらに激しく打ち鳴らされていた。
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