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28話
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石造りの食堂には、塩気の強いベーコンが焼ける香ばしい匂いと、ハーブを煮出した蒸気が満ちている。
ヴァンは椅子に深く腰掛け、卓上の木皿を睨みつけるように見つめていた。差し込む朝陽が木目を白く浮き彫りにし、埃が光の粒となって宙に舞う。
「……、……あのアホは、どこへ行った」
低く掠れたヴァンの声に、大鍋をかき回していたメイが肩を竦めて振り返った。
「あのアホ、ってリナートのこと? 彼は今、ログに付いて地下の貯蔵庫よ。昨日の騒ぎで減った林檎を補充しなきゃって、張り切ってたわよ」
「怪我人が大人しくしてりゃいいものを」
ヴァンは右肩に巻かれた包帯の感触を確かめるように、僅かに肩を回した。昨夜、リナートが施した処置は不格好だが、驚くほど丁寧に痛みを抑えている。
思い出されるのは、暖炉の火に照らされたリナートの横顔だ。
ヴァンの左胸を打つ鼓動は、一晩明けてもなお、逃走時の全速力に近い速度を保ったままだった。
その時、重い木扉が勢いよく開き、銀色の光が食堂へ飛び込んできた。
「ヴァン! 見てください、こんなに立派な林檎がありました。まるで、昨夜の月を蜜で固めたみたいに真っ赤です!」
リナートが両手に溢れんばかりの果実を抱え、ヴァンの元へ駆け寄る。
乱れた銀髪が陽光を浴びて煌めき、翡翠色の瞳が喜びに満ちて細められた。彼はヴァンの隣に座るなり、林檎の一つを袖で丁寧に磨き始める。
「ほら、ヴァン。一番甘そうなところを、あなたに」
差し出された林檎は、リナートの指先の温度を帯びているようだった。ヴァンは黙ってそれを受け取り、乱暴に齧り付く。
溢れ出した果汁が口内に広がり、爽やかな酸味が喉を潤した。
「……、……甘いな」
「良かったです。ヴァンの顔色が少し良くなった気がします。やっぱり、赤いものは元気の印ですね」
リナートは満足そうに微笑み、ヴァンの怪我をした方の腕に、自らの細い腕をそっと絡めた。
ヴァンの全身を、電気のような熱が駆け抜けた。
「おい、お前、っ、人前でくっつくなと言ってるだろ!」
「だって、ヴァン。私はあなたの所有物になったのでしょう? なら、離れないのが正しい振る舞いだと思います」
リナートは首を少しだけ傾け、大真面目な顔でヴァンの顔を覗き込んできた。
長い睫毛がヴァンの視界を掠める。至近距離から漂う、彼自身の清潔な香りと、先ほどの林檎の甘い匂い。
ヴァンの喉仏が大きく上下し、顔面が沸騰したかのように熱を帯びた。
向かいの席でエールを煽っていたログが、盛大に噴き出す。
「げほっ、ごほ! おい頭領、お前の所有物ってのは、ずいぶんと積極的なんだな。見てるこっちが焼け死にそうだぜ」
「揶揄するなら外でやれ、ログ!」
ヴァンは怒鳴り散らすが、リナートを突き放す手には少しの力も入らない。
メイが皿に盛った厚切りの肉とパンを、二人の前に置いた。
「ほら、リナート。ヴァンは右手が使いにくそうだから、あなたが手伝ってあげなさいよ」
「あ、そうですね! お任せください、メイさん」
リナートは瞳を輝かせ、ヴァンのフォークを奪い取った。
「ヴァン、あー、です。お肉は小さく切りましたから」
「俺は子供か! 左手でも食える!」
「ダメです。ヴァンの心臓、さっきから凄くお祭りの太鼓みたいになっています。きっと、体力が足りていない証拠です」
リナートの言葉が、食堂全体に響き渡った。
一瞬の静寂の後、団員たちの野太い笑い声が屋根を揺らす。
ヴァンの理性は、ついに限界を超えて真っ白に燃え尽きた。
彼はリナートの手首を掴み、椅子から立ち上がった。
「行くぞ、リナート」
「えっ? 朝食はまだ終わっていませんよ、ヴァン」
「仕事の打ち合わせだ。二人きりで、な」
ヴァンはリナートを引きずるようにして、自分の執務室へと足早に向かった。
背後でメイとログが「あーあ、頭領の我慢も限界ね」と囁き合う声が聞こえたが、今の彼にはそれを黙らせる余裕すら残されていない。
執務室の重い扉を閉め、鍵を掛ける。
リナートは不思議そうに、だが一点の疑いもない瞳でヴァンを見上げていた。
「ヴァン、打ち合わせとは何でしょうか。新しいお菓子の調達ですか?」
「……、……そんなもんじゃねえ」
ヴァンはリナートを壁に押しやるようにして、その両脇に手を突いた。
逃げ場のない空間。
リナートの翡翠色の瞳に、ヴァンの焦燥に満ちた顔が映る。
二人の心臓の音が、厚い石壁に反響し、重なり合って一つの激しいリズムを刻み始めた。
ヴァンは椅子に深く腰掛け、卓上の木皿を睨みつけるように見つめていた。差し込む朝陽が木目を白く浮き彫りにし、埃が光の粒となって宙に舞う。
「……、……あのアホは、どこへ行った」
低く掠れたヴァンの声に、大鍋をかき回していたメイが肩を竦めて振り返った。
「あのアホ、ってリナートのこと? 彼は今、ログに付いて地下の貯蔵庫よ。昨日の騒ぎで減った林檎を補充しなきゃって、張り切ってたわよ」
「怪我人が大人しくしてりゃいいものを」
ヴァンは右肩に巻かれた包帯の感触を確かめるように、僅かに肩を回した。昨夜、リナートが施した処置は不格好だが、驚くほど丁寧に痛みを抑えている。
思い出されるのは、暖炉の火に照らされたリナートの横顔だ。
ヴァンの左胸を打つ鼓動は、一晩明けてもなお、逃走時の全速力に近い速度を保ったままだった。
その時、重い木扉が勢いよく開き、銀色の光が食堂へ飛び込んできた。
「ヴァン! 見てください、こんなに立派な林檎がありました。まるで、昨夜の月を蜜で固めたみたいに真っ赤です!」
リナートが両手に溢れんばかりの果実を抱え、ヴァンの元へ駆け寄る。
乱れた銀髪が陽光を浴びて煌めき、翡翠色の瞳が喜びに満ちて細められた。彼はヴァンの隣に座るなり、林檎の一つを袖で丁寧に磨き始める。
「ほら、ヴァン。一番甘そうなところを、あなたに」
差し出された林檎は、リナートの指先の温度を帯びているようだった。ヴァンは黙ってそれを受け取り、乱暴に齧り付く。
溢れ出した果汁が口内に広がり、爽やかな酸味が喉を潤した。
「……、……甘いな」
「良かったです。ヴァンの顔色が少し良くなった気がします。やっぱり、赤いものは元気の印ですね」
リナートは満足そうに微笑み、ヴァンの怪我をした方の腕に、自らの細い腕をそっと絡めた。
ヴァンの全身を、電気のような熱が駆け抜けた。
「おい、お前、っ、人前でくっつくなと言ってるだろ!」
「だって、ヴァン。私はあなたの所有物になったのでしょう? なら、離れないのが正しい振る舞いだと思います」
リナートは首を少しだけ傾け、大真面目な顔でヴァンの顔を覗き込んできた。
長い睫毛がヴァンの視界を掠める。至近距離から漂う、彼自身の清潔な香りと、先ほどの林檎の甘い匂い。
ヴァンの喉仏が大きく上下し、顔面が沸騰したかのように熱を帯びた。
向かいの席でエールを煽っていたログが、盛大に噴き出す。
「げほっ、ごほ! おい頭領、お前の所有物ってのは、ずいぶんと積極的なんだな。見てるこっちが焼け死にそうだぜ」
「揶揄するなら外でやれ、ログ!」
ヴァンは怒鳴り散らすが、リナートを突き放す手には少しの力も入らない。
メイが皿に盛った厚切りの肉とパンを、二人の前に置いた。
「ほら、リナート。ヴァンは右手が使いにくそうだから、あなたが手伝ってあげなさいよ」
「あ、そうですね! お任せください、メイさん」
リナートは瞳を輝かせ、ヴァンのフォークを奪い取った。
「ヴァン、あー、です。お肉は小さく切りましたから」
「俺は子供か! 左手でも食える!」
「ダメです。ヴァンの心臓、さっきから凄くお祭りの太鼓みたいになっています。きっと、体力が足りていない証拠です」
リナートの言葉が、食堂全体に響き渡った。
一瞬の静寂の後、団員たちの野太い笑い声が屋根を揺らす。
ヴァンの理性は、ついに限界を超えて真っ白に燃え尽きた。
彼はリナートの手首を掴み、椅子から立ち上がった。
「行くぞ、リナート」
「えっ? 朝食はまだ終わっていませんよ、ヴァン」
「仕事の打ち合わせだ。二人きりで、な」
ヴァンはリナートを引きずるようにして、自分の執務室へと足早に向かった。
背後でメイとログが「あーあ、頭領の我慢も限界ね」と囁き合う声が聞こえたが、今の彼にはそれを黙らせる余裕すら残されていない。
執務室の重い扉を閉め、鍵を掛ける。
リナートは不思議そうに、だが一点の疑いもない瞳でヴァンを見上げていた。
「ヴァン、打ち合わせとは何でしょうか。新しいお菓子の調達ですか?」
「……、……そんなもんじゃねえ」
ヴァンはリナートを壁に押しやるようにして、その両脇に手を突いた。
逃げ場のない空間。
リナートの翡翠色の瞳に、ヴァンの焦燥に満ちた顔が映る。
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