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29話
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執務室の重い扉が閉まり、錠が落ちる金属音が室内に響いた。
使い込まれた机の上には、インクの香りと古い羊皮紙の匂いが漂っている。ヴァンはリナートを壁際まで追い詰めると、その両脇に手をついて力強く言い放った。
「おい、リナート。お前は少し、危機感というものが足りなさすぎる」
「ききかん……。新しいお菓子の名前でしょうか」
リナートは首を傾げ、翡翠色の瞳をキラキラと輝かせた。
至近距離。ヴァンの鼻先を、リナートの銀糸のような髪がかすめる。石鹸の清潔な香りが脳を痺れさせ、ヴァンの思考を奪い去ろうとする。
「違う! 俺が言いたいのは、お前の『所有権』についてだ。俺の所有物だという自覚があるなら、安売りをするな」
「安売り、ですか? 私はまだ、自分を売ったことはありませんよ。ヴァンに拾ってもらっただけです」
リナートは至って真面目な顔で、ヴァンの胸板にそっと手を添えた。
その指先の温もりが、薄いシャツを通り抜けてヴァンの心臓を直撃する。ドク、ドクと早鐘を打つ鼓動。ヴァンは顔を真っ赤に染め、堪らず視線を逸らした。
「……あいつら、特にログの野郎にベタベタ触らせるな。お前が笑いかけるだけで、あいつらは鼻の下を伸ばすんだ」
「でも、ログさんはクッキーをくれましたよ。ヴァンも食べますか?」
「食わねえ! クッキー一枚で懐くんじゃない。お前が笑っていいのは……、俺の前だけだ」
絞り出した言葉は、自分でも驚くほど子供じみていた。
リナートは目を丸くし、それからふわりと、春の陽だまりのような微笑を浮かべた。
「分かりました。では、ログさんの前ではこんな顔をすればいいのですね」
リナートは眉間にこれでもかと皺を寄せ、口をへの字に曲げて見せた。国宝級の美貌が無残に歪む。
「……、……やりすぎだ。お前がやると、ただの変顔だろうが」
「難しいですね。ヴァンが喜んでくれる顔を練習したいのですが」
リナートは一歩、さらに距離を詰めてきた。
ヴァンの逞しい胸に、リナートの細い体が密着する。柔らかい質感が伝わり、ヴァンの理性が音を立てて崩れ落ちそうになった。
「ヴァン、あなたの心臓、またお祭りの太鼓になっていますよ。私への独占欲……でしたか? それが、ドコドコと響いてきます」
「……ッ、その単語を口にするな! とにかく、お前は俺の側から離れるな。許可なく誰かに微笑んだら、おやつ抜きだ」
「それは困ります! では、ずっとヴァンの服を掴んでいればいいのですね?」
リナートはヴァンの上着の裾をぎゅっと握りしめ、上目遣いで覗き込んできた。
これでは、所有しているのか、それとも自分が捕獲されているのか分からない。
ヴァンは深く溜め息をつき、天を仰いだ。
この天然の美男子に「独占欲」の意味を正しく教えるには、まだ数百年ほどの時間が必要なようだった。
「……分かったら、さっさと離れろ。顔が近すぎる」
「嫌です。ヴァンが離れてもいいと言うまで、私はあなたの影になります」
リナートはヴァンの腕の中にすっぽりと収まり、幸せそうに目を閉じた。
ヴァンの顔はもはや、茹であがったタコのように真っ赤だ。
初恋の難易度は、この「無自覚な甘い包囲網」によって、もはや攻略不可能な領域へと突入していた。
石壁の向こうでは、メイが「まだやってるわね」と呆れたように囁き、ログが「あーあ、頭領の威厳が台無しだな」と肩を竦めていたが、熱気に包まれた室内にはその声すら届かなかった。
使い込まれた机の上には、インクの香りと古い羊皮紙の匂いが漂っている。ヴァンはリナートを壁際まで追い詰めると、その両脇に手をついて力強く言い放った。
「おい、リナート。お前は少し、危機感というものが足りなさすぎる」
「ききかん……。新しいお菓子の名前でしょうか」
リナートは首を傾げ、翡翠色の瞳をキラキラと輝かせた。
至近距離。ヴァンの鼻先を、リナートの銀糸のような髪がかすめる。石鹸の清潔な香りが脳を痺れさせ、ヴァンの思考を奪い去ろうとする。
「違う! 俺が言いたいのは、お前の『所有権』についてだ。俺の所有物だという自覚があるなら、安売りをするな」
「安売り、ですか? 私はまだ、自分を売ったことはありませんよ。ヴァンに拾ってもらっただけです」
リナートは至って真面目な顔で、ヴァンの胸板にそっと手を添えた。
その指先の温もりが、薄いシャツを通り抜けてヴァンの心臓を直撃する。ドク、ドクと早鐘を打つ鼓動。ヴァンは顔を真っ赤に染め、堪らず視線を逸らした。
「……あいつら、特にログの野郎にベタベタ触らせるな。お前が笑いかけるだけで、あいつらは鼻の下を伸ばすんだ」
「でも、ログさんはクッキーをくれましたよ。ヴァンも食べますか?」
「食わねえ! クッキー一枚で懐くんじゃない。お前が笑っていいのは……、俺の前だけだ」
絞り出した言葉は、自分でも驚くほど子供じみていた。
リナートは目を丸くし、それからふわりと、春の陽だまりのような微笑を浮かべた。
「分かりました。では、ログさんの前ではこんな顔をすればいいのですね」
リナートは眉間にこれでもかと皺を寄せ、口をへの字に曲げて見せた。国宝級の美貌が無残に歪む。
「……、……やりすぎだ。お前がやると、ただの変顔だろうが」
「難しいですね。ヴァンが喜んでくれる顔を練習したいのですが」
リナートは一歩、さらに距離を詰めてきた。
ヴァンの逞しい胸に、リナートの細い体が密着する。柔らかい質感が伝わり、ヴァンの理性が音を立てて崩れ落ちそうになった。
「ヴァン、あなたの心臓、またお祭りの太鼓になっていますよ。私への独占欲……でしたか? それが、ドコドコと響いてきます」
「……ッ、その単語を口にするな! とにかく、お前は俺の側から離れるな。許可なく誰かに微笑んだら、おやつ抜きだ」
「それは困ります! では、ずっとヴァンの服を掴んでいればいいのですね?」
リナートはヴァンの上着の裾をぎゅっと握りしめ、上目遣いで覗き込んできた。
これでは、所有しているのか、それとも自分が捕獲されているのか分からない。
ヴァンは深く溜め息をつき、天を仰いだ。
この天然の美男子に「独占欲」の意味を正しく教えるには、まだ数百年ほどの時間が必要なようだった。
「……分かったら、さっさと離れろ。顔が近すぎる」
「嫌です。ヴァンが離れてもいいと言うまで、私はあなたの影になります」
リナートはヴァンの腕の中にすっぽりと収まり、幸せそうに目を閉じた。
ヴァンの顔はもはや、茹であがったタコのように真っ赤だ。
初恋の難易度は、この「無自覚な甘い包囲網」によって、もはや攻略不可能な領域へと突入していた。
石壁の向こうでは、メイが「まだやってるわね」と呆れたように囁き、ログが「あーあ、頭領の威厳が台無しだな」と肩を竦めていたが、熱気に包まれた室内にはその声すら届かなかった。
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