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6話
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「……ユヅル、私は決意しました。この『せいなる……』ではなく、『きっちん』の主(あるじ)になると!」
月曜日の朝。出勤準備を整える結弦の前で、アルヴィスはエプロン代わりのタオルを腰に巻き、凛々しい顔で宣言した。
手には昨日買ったばかりの、百円ショップ産のゴムベラが聖剣のごとく握られている。
「……いや、いいから。アルヴィスは大人しく待ってて。お昼は電子レンジで温めるだけのパスタを用意してあるから」
「いいえ、主を毎日労働という名の戦地に送り出し、自分だけが安眠を貪るなど、騎士の道に反します! 私は昨日、あなたが料理をする姿を完璧に鑑定(コピー)しました。今日こそは私が、至高の供物……いえ、お昼ご飯を用意してお迎えします!」
「……火だけは使わないでね? 本当にだよ?」
結弦は何度も念を押し、不安を抱えたまま会社へと向かった。
しかし、その不安は的中することになる。
その日の午後、結弦のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。
アルヴィスに持たせている、設定済みのスマホからだ。
『ユヅル! 朗報です! 私は今、白銀の魔導鍋と対話しています。中から溢れ出す白い魔力の泡……これは、大成功の兆しに違いありません!』
(白銀の魔導鍋……? あ、炊飯器か。泡……? 炊飯器から泡が溢れるなんて、何合炊いたんだアイツ!?)
嫌な予感に背筋が凍る。結弦は急いで『水加減間違えてない? 蓋開けちゃダメだよ』と返信したが、返ってきたのは、
『安心してください。泡があまりにも元気だったので、お隣の田中さんから頂いた「せいなる洗剤」で浄化しておきました。これでピカピカです!』
という絶望的な一文だった。
「……え、洗剤? 炊飯器に……洗剤!?」
結弦は上司に「急用で!」と叫んで、半泣きで早退の許可を取り付けた。
駅から全力疾走でアパートへ戻り、ドアを開けた瞬間――そこには、雪国のような光景が広がっていた。
「……何、これ」
「おかえりなさい、ユヅル! 見てください、キッチンの精霊たちが喜びに打ち震えています!」
キッチンは、天井に届かんばかりの「泡」で埋め尽くされていた。
換気扇が回る音に合わせて、白い泡の塊がふわふわと部屋中を舞っている。その中心で、アルヴィスは泡まみれになりながら、誇らしげに立っていた。
「アルヴィス……! 君、まさか炊飯器の中に、食器用洗剤を入れたの!?」
「はい! お米を研ぐ際、より白く輝かせようと思いまして。田中さんが『これは汚れを根こそぎ落とす魔法の液だよ』と仰っていたので、三振りほど。……するとどうでしょう、鍋から次々と聖なる雲が溢れ出してきたのです!」
「それ、ただの異常発泡だから! お米、もう食べられないよ……っていうか、壊れる、炊飯器が壊れるー!」
結弦は慌ててコンセントを引き抜き、キッチンペーパーを抱えて泡の海へと突っ込んだ。
アルヴィスは「なぜです!? こんなに綺麗なのに!」と狼狽(うろた)えていたが、結弦が必死に泡を拭き取る姿を見て、ようやく事の重大さに気づいたらしい。
「……もしかして、私はまた、間違えてしまったのですか」
シュン、と黄金の髪が萎れたように垂れ下がる。
その姿は、良かれと思ってイタズラをして怒られた大型犬そのもので、結弦は怒鳴る気力も失ってしまった。
「……間違えたね。大間違いだよ。洗剤はお米を洗うものじゃないの。口に入れたら危ないんだよ」
「口に……。そういえば、以前の戦場でも毒を盛られたことがありましたが、まさか自ら毒を生成してしまうとは。……私は、なんて愚かな騎士だ。主の食卓を汚すなんて」
アルヴィスは床に膝をつき、泡の中に手をついて絶望していた。
結弦は溜息をつき、泡だらけの手でアルヴィスの肩を叩いた。
「いいよ、もう。怪我がなかったなら。……ほら、一緒に片付けるよ。アルヴィスは、その、泡をベランダまで運んで。床を拭くのは僕がやるから」
「ユヅル……。あなたは、泡にまみれた私にさえ、役割を与えてくださるのですね」
「……大げさだってば。はい、これバケツ代わりのゴミ箱」
二人はそれから二時間、ひたすら泡と格闘した。
アルヴィスは驚異的な身体能力を活かし、両手に泡の塊を抱えてベランダとキッチンを往復した。その際も「これは聖なる……いや、ふわふわの雲運びですね!」と、結弦に言われた通り「聖なる」を封印しようと努力していた。
ようやくキッチンが元の姿を取り戻した頃、外はすっかり暗くなっていた。
炊飯器は幸い、徹底的な洗浄と乾燥でなんとか息を吹き返したが、中のお米は全滅だった。
「ごめんなさい、ユヅル。今日のお昼、あなたが楽しみにしていただろう白いご飯が……」
「いいよ。その代わり、今日は外で食べよっか。アルヴィス、『牛丼』って食べたことある?」
「ギュウドン……。牛の、首領(ドン)ですか? もしや、魔獣の王を喰らうという、最も過酷な修行の食事……!」
「ただのどんぶりご飯。吉野家ってお店があるから。……さあ、その泡まみれの服、着替えてきて」
アルヴィスは「ギュウドン……!」と目を輝かせ、さっきまでの落ち込みが嘘のように元気を取り戻した。
結弦は、キッチンに残った微かな洗剤の香りと、元気な居候の背中を見比べながら、苦笑いした。
(全然『聖なる』生活じゃないけど……まあ、退屈だけはしないか)
お人好しの飼い主と、学習能力が少しズレている騎士。
二人の夕食は、洗剤の味のしない、温かい牛丼になる予定だった。
月曜日の朝。出勤準備を整える結弦の前で、アルヴィスはエプロン代わりのタオルを腰に巻き、凛々しい顔で宣言した。
手には昨日買ったばかりの、百円ショップ産のゴムベラが聖剣のごとく握られている。
「……いや、いいから。アルヴィスは大人しく待ってて。お昼は電子レンジで温めるだけのパスタを用意してあるから」
「いいえ、主を毎日労働という名の戦地に送り出し、自分だけが安眠を貪るなど、騎士の道に反します! 私は昨日、あなたが料理をする姿を完璧に鑑定(コピー)しました。今日こそは私が、至高の供物……いえ、お昼ご飯を用意してお迎えします!」
「……火だけは使わないでね? 本当にだよ?」
結弦は何度も念を押し、不安を抱えたまま会社へと向かった。
しかし、その不安は的中することになる。
その日の午後、結弦のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。
アルヴィスに持たせている、設定済みのスマホからだ。
『ユヅル! 朗報です! 私は今、白銀の魔導鍋と対話しています。中から溢れ出す白い魔力の泡……これは、大成功の兆しに違いありません!』
(白銀の魔導鍋……? あ、炊飯器か。泡……? 炊飯器から泡が溢れるなんて、何合炊いたんだアイツ!?)
嫌な予感に背筋が凍る。結弦は急いで『水加減間違えてない? 蓋開けちゃダメだよ』と返信したが、返ってきたのは、
『安心してください。泡があまりにも元気だったので、お隣の田中さんから頂いた「せいなる洗剤」で浄化しておきました。これでピカピカです!』
という絶望的な一文だった。
「……え、洗剤? 炊飯器に……洗剤!?」
結弦は上司に「急用で!」と叫んで、半泣きで早退の許可を取り付けた。
駅から全力疾走でアパートへ戻り、ドアを開けた瞬間――そこには、雪国のような光景が広がっていた。
「……何、これ」
「おかえりなさい、ユヅル! 見てください、キッチンの精霊たちが喜びに打ち震えています!」
キッチンは、天井に届かんばかりの「泡」で埋め尽くされていた。
換気扇が回る音に合わせて、白い泡の塊がふわふわと部屋中を舞っている。その中心で、アルヴィスは泡まみれになりながら、誇らしげに立っていた。
「アルヴィス……! 君、まさか炊飯器の中に、食器用洗剤を入れたの!?」
「はい! お米を研ぐ際、より白く輝かせようと思いまして。田中さんが『これは汚れを根こそぎ落とす魔法の液だよ』と仰っていたので、三振りほど。……するとどうでしょう、鍋から次々と聖なる雲が溢れ出してきたのです!」
「それ、ただの異常発泡だから! お米、もう食べられないよ……っていうか、壊れる、炊飯器が壊れるー!」
結弦は慌ててコンセントを引き抜き、キッチンペーパーを抱えて泡の海へと突っ込んだ。
アルヴィスは「なぜです!? こんなに綺麗なのに!」と狼狽(うろた)えていたが、結弦が必死に泡を拭き取る姿を見て、ようやく事の重大さに気づいたらしい。
「……もしかして、私はまた、間違えてしまったのですか」
シュン、と黄金の髪が萎れたように垂れ下がる。
その姿は、良かれと思ってイタズラをして怒られた大型犬そのもので、結弦は怒鳴る気力も失ってしまった。
「……間違えたね。大間違いだよ。洗剤はお米を洗うものじゃないの。口に入れたら危ないんだよ」
「口に……。そういえば、以前の戦場でも毒を盛られたことがありましたが、まさか自ら毒を生成してしまうとは。……私は、なんて愚かな騎士だ。主の食卓を汚すなんて」
アルヴィスは床に膝をつき、泡の中に手をついて絶望していた。
結弦は溜息をつき、泡だらけの手でアルヴィスの肩を叩いた。
「いいよ、もう。怪我がなかったなら。……ほら、一緒に片付けるよ。アルヴィスは、その、泡をベランダまで運んで。床を拭くのは僕がやるから」
「ユヅル……。あなたは、泡にまみれた私にさえ、役割を与えてくださるのですね」
「……大げさだってば。はい、これバケツ代わりのゴミ箱」
二人はそれから二時間、ひたすら泡と格闘した。
アルヴィスは驚異的な身体能力を活かし、両手に泡の塊を抱えてベランダとキッチンを往復した。その際も「これは聖なる……いや、ふわふわの雲運びですね!」と、結弦に言われた通り「聖なる」を封印しようと努力していた。
ようやくキッチンが元の姿を取り戻した頃、外はすっかり暗くなっていた。
炊飯器は幸い、徹底的な洗浄と乾燥でなんとか息を吹き返したが、中のお米は全滅だった。
「ごめんなさい、ユヅル。今日のお昼、あなたが楽しみにしていただろう白いご飯が……」
「いいよ。その代わり、今日は外で食べよっか。アルヴィス、『牛丼』って食べたことある?」
「ギュウドン……。牛の、首領(ドン)ですか? もしや、魔獣の王を喰らうという、最も過酷な修行の食事……!」
「ただのどんぶりご飯。吉野家ってお店があるから。……さあ、その泡まみれの服、着替えてきて」
アルヴィスは「ギュウドン……!」と目を輝かせ、さっきまでの落ち込みが嘘のように元気を取り戻した。
結弦は、キッチンに残った微かな洗剤の香りと、元気な居候の背中を見比べながら、苦笑いした。
(全然『聖なる』生活じゃないけど……まあ、退屈だけはしないか)
お人好しの飼い主と、学習能力が少しズレている騎士。
二人の夕食は、洗剤の味のしない、温かい牛丼になる予定だった。
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