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9話
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離宮のキッチンで作り上げた「特製洗浄液」を小瓶に詰め、昴はアルフレートの本邸へと足を運んでいた。
昨日の市場での買い物。その道中、アルフレートが「執務室の窓が曇っていて、書類の文字が見えにくい」と零したのを、昴の職業倫理が見逃さなかった。
本邸の最上階。重厚な黒檀の扉をノックすると、中から短く「入れ」という声が響く。
扉を開けると、そこには机の上に積み上がった書類の山と、眉間に皺を寄せてペンを走らせるアルフレートの姿があった。
「失礼します。アルフレート様、昨日言っていた掃除に来ました」
「……スバルか。本当に来たのだな。ただの独り言だと思っていたのだが」
アルフレートがペンを置き、顔を上げる。その黄金の瞳には、微かな驚きと、それ以上に隠しきれない安堵の色が混じっていた。スバルが部屋に入った瞬間、部屋の澱んでいた空気が、まるで高原の朝のように澄み渡っていく。
「クリーニング屋の息子として、汚れを放置するのは耐えられないんです。さあ、そこをどいてください。一気に仕上げますから」
昴は手際よく袖をまくり、持参した布と洗浄液を取り出した。
アルフレートは、普段なら他人が自分の執務スペースに触れることを極端に嫌う。だが、昴の無駄のない動きと、その黒髪が揺れるたびに部屋に広がる清浄な気配を前にして、不思議と拒絶感は湧かなかった。
昴は窓枠に手をかけ、特製洗浄液を染み込ませた布で一気に拭い去る。
「……え?」
アルフレートが、思わず感嘆の声を漏らした。
何十年もの間、魔法による簡易的な洗浄呪文で「見た目だけ」綺麗にされていた窓ガラス。その奥に蓄積していた魔力の残りカスや油膜が、昴がひと拭きするごとに、魔法のように消えていく。
「これ、見てください。ただの汚れじゃなくて、古い魔力が固着してたんですよ。これが日光を乱反射させて、部屋を暗くしてたんです」
「……信じられん。魔導師たちが束になっても落とせなかった魔力の残滓を、君はただの布一枚で……」
窓が透明感を取り戻すと、部屋の中に純粋な光が降り注いだ。
アルフレートは、その光の中に立つ昴の姿に目を奪われた。スバルの黒髪が光を透かし、まるで黒い真珠のような輝きを放っている。アルフレートの持つ「破壊」の黒とはあまりに違う、何者も傷つけない優しき黒。
「よし、次はあの棚ですね」
昴が掃除の手を広げた、その時だった。
本棚の最上段、埃を被った古い木箱を拭こうとした際、その隙間から一枚の古びた肖像画が滑り落ちた。
「あ、すみません……」
昴が慌てて拾い上げたその絵には、まだ幼いアルフレートと、彼の隣で微笑む一人の女性が描かれていた。女性は今のアルフレートと同じ、深い黒髪を持っていたが、その表情はどこか寂しげで、何かに怯えているようにも見える。
「……それは、私の母だ」
アルフレートの低い声が、静かな部屋に落ちた。
彼は立ち上がり、昴の手から肖像画を静かに受け取る。
「この国で、黒髪は強すぎる魔力の証。母もまた、その力ゆえに周囲から恐れられ、最後には自らの魔力の奔流に耐えきれず、心を壊して亡くなった。……私も、いつか同じ道を辿るのではないかと、幼い頃からずっとその恐怖の中にいた」
それは、帝国の守護神と呼ばれる公爵が、決して誰にも見せることのなかった心の奥底の傷跡だった。
アルフレートは自分の掌を見つめる。その指先からは、今も制御しきれない強大な魔力が、黒い煤のようなモヤとなって溢れ出そうとしている。
「君の清浄な空気の中にいる時だけ、私はその恐怖を忘れられる。……スバル。君は私にとって、ただの掃除担当ではないのかもしれない」
アルフレートが昴を見つめる視線には、昨日までの「有能な人材への興味」を超えた、もっと根源的な「魂の救済」を求めるような色が宿っていた。
昴は少しだけ黙って、それからいつも通りの明るい声で言った。
「……そんな難しいことは分かりませんけど。でも、アルフレート様の手から出てるその黒いの、俺の洗剤で落とせそうですよ」
「……何?」
「ほら、そのモヤ。汚れの一種みたいなもんです。ちょっと貸してください」
昴はアルフレートの大きな手を自分の両手で包み込むと、洗浄液をつけた布で、その黒い魔力のモヤを優しく拭った。
すると、どうしたことか。アルフレートの神経を逆なでし続けていた過剰な魔力の残滓が、昴の肌に触れた瞬間、しゅわりと音を立てて透明に浄化されていく。
「……あ……」
アルフレートの目が見開かれる。
長年、彼の体を蝕んでいた魔力の不快感が、嘘のように消えていく。その安らぎは、睡眠魔法やヴィンセントの薬とは比較にならないほど、深く、暖かかった。
「ほら、綺麗になった。アルフレート様、そんなに怖がらなくて大丈夫です。汚れたら、また俺が拭きに来ますから」
昴が屈託なく笑う。
アルフレートは、自分の手を包み込む少年の温もりと、その「清らかな黒」に、生涯消えることのない忠誠を誓いたくなるような、静かな衝撃を覚えていた。
「……ああ。これからも、頼む」
その時、執務室の窓を外からコンコンと叩く音がした。
見れば、空中を浮遊するヴィンセントが、不満げな顔で窓の外に浮いている。
「ずるいよ閣下。僕を差し置いて、スバル君に手を握らせるなんて。……窓を掃除してくれたおかげで、中が丸見えだ」
「ヴィンセント! お前、何階だと思ってるんですか!」
昴が驚いて窓を開けると、ヴィンセントは軽やかに部屋へ滑り込み、スバルの首筋に鼻先を寄せた。
「うん、やっぱりいい匂いだ。閣下の重苦しい魔力を吸って、君の浄化魔力がより活性化しているね。……僕も、掃除が必要な場所がいくつかあるんだけど、来てくれるかな?」
「ヴィンセント、貴様……!」
アルフレートが即座に昴を自分の背後に隠し、ヴィンセントを睨みつける。
執務室は再び、いつもの騒がしくも火花の散る「日常」へと戻っていった。
だが、アルフレートの胸の中に灯った小さな光は、もう消えることはなかった。
昴はまだ気づいていない。自分の「掃除」が、この国の支配者たちの運命を、どれほど深く洗い流そうとしているのかを。
足元でウルが、アルフレートとヴィンセントを交互に「キュゥ」と戒めるように鳴きながら、昴の足首に体を擦り寄せていた。
昨日の市場での買い物。その道中、アルフレートが「執務室の窓が曇っていて、書類の文字が見えにくい」と零したのを、昴の職業倫理が見逃さなかった。
本邸の最上階。重厚な黒檀の扉をノックすると、中から短く「入れ」という声が響く。
扉を開けると、そこには机の上に積み上がった書類の山と、眉間に皺を寄せてペンを走らせるアルフレートの姿があった。
「失礼します。アルフレート様、昨日言っていた掃除に来ました」
「……スバルか。本当に来たのだな。ただの独り言だと思っていたのだが」
アルフレートがペンを置き、顔を上げる。その黄金の瞳には、微かな驚きと、それ以上に隠しきれない安堵の色が混じっていた。スバルが部屋に入った瞬間、部屋の澱んでいた空気が、まるで高原の朝のように澄み渡っていく。
「クリーニング屋の息子として、汚れを放置するのは耐えられないんです。さあ、そこをどいてください。一気に仕上げますから」
昴は手際よく袖をまくり、持参した布と洗浄液を取り出した。
アルフレートは、普段なら他人が自分の執務スペースに触れることを極端に嫌う。だが、昴の無駄のない動きと、その黒髪が揺れるたびに部屋に広がる清浄な気配を前にして、不思議と拒絶感は湧かなかった。
昴は窓枠に手をかけ、特製洗浄液を染み込ませた布で一気に拭い去る。
「……え?」
アルフレートが、思わず感嘆の声を漏らした。
何十年もの間、魔法による簡易的な洗浄呪文で「見た目だけ」綺麗にされていた窓ガラス。その奥に蓄積していた魔力の残りカスや油膜が、昴がひと拭きするごとに、魔法のように消えていく。
「これ、見てください。ただの汚れじゃなくて、古い魔力が固着してたんですよ。これが日光を乱反射させて、部屋を暗くしてたんです」
「……信じられん。魔導師たちが束になっても落とせなかった魔力の残滓を、君はただの布一枚で……」
窓が透明感を取り戻すと、部屋の中に純粋な光が降り注いだ。
アルフレートは、その光の中に立つ昴の姿に目を奪われた。スバルの黒髪が光を透かし、まるで黒い真珠のような輝きを放っている。アルフレートの持つ「破壊」の黒とはあまりに違う、何者も傷つけない優しき黒。
「よし、次はあの棚ですね」
昴が掃除の手を広げた、その時だった。
本棚の最上段、埃を被った古い木箱を拭こうとした際、その隙間から一枚の古びた肖像画が滑り落ちた。
「あ、すみません……」
昴が慌てて拾い上げたその絵には、まだ幼いアルフレートと、彼の隣で微笑む一人の女性が描かれていた。女性は今のアルフレートと同じ、深い黒髪を持っていたが、その表情はどこか寂しげで、何かに怯えているようにも見える。
「……それは、私の母だ」
アルフレートの低い声が、静かな部屋に落ちた。
彼は立ち上がり、昴の手から肖像画を静かに受け取る。
「この国で、黒髪は強すぎる魔力の証。母もまた、その力ゆえに周囲から恐れられ、最後には自らの魔力の奔流に耐えきれず、心を壊して亡くなった。……私も、いつか同じ道を辿るのではないかと、幼い頃からずっとその恐怖の中にいた」
それは、帝国の守護神と呼ばれる公爵が、決して誰にも見せることのなかった心の奥底の傷跡だった。
アルフレートは自分の掌を見つめる。その指先からは、今も制御しきれない強大な魔力が、黒い煤のようなモヤとなって溢れ出そうとしている。
「君の清浄な空気の中にいる時だけ、私はその恐怖を忘れられる。……スバル。君は私にとって、ただの掃除担当ではないのかもしれない」
アルフレートが昴を見つめる視線には、昨日までの「有能な人材への興味」を超えた、もっと根源的な「魂の救済」を求めるような色が宿っていた。
昴は少しだけ黙って、それからいつも通りの明るい声で言った。
「……そんな難しいことは分かりませんけど。でも、アルフレート様の手から出てるその黒いの、俺の洗剤で落とせそうですよ」
「……何?」
「ほら、そのモヤ。汚れの一種みたいなもんです。ちょっと貸してください」
昴はアルフレートの大きな手を自分の両手で包み込むと、洗浄液をつけた布で、その黒い魔力のモヤを優しく拭った。
すると、どうしたことか。アルフレートの神経を逆なでし続けていた過剰な魔力の残滓が、昴の肌に触れた瞬間、しゅわりと音を立てて透明に浄化されていく。
「……あ……」
アルフレートの目が見開かれる。
長年、彼の体を蝕んでいた魔力の不快感が、嘘のように消えていく。その安らぎは、睡眠魔法やヴィンセントの薬とは比較にならないほど、深く、暖かかった。
「ほら、綺麗になった。アルフレート様、そんなに怖がらなくて大丈夫です。汚れたら、また俺が拭きに来ますから」
昴が屈託なく笑う。
アルフレートは、自分の手を包み込む少年の温もりと、その「清らかな黒」に、生涯消えることのない忠誠を誓いたくなるような、静かな衝撃を覚えていた。
「……ああ。これからも、頼む」
その時、執務室の窓を外からコンコンと叩く音がした。
見れば、空中を浮遊するヴィンセントが、不満げな顔で窓の外に浮いている。
「ずるいよ閣下。僕を差し置いて、スバル君に手を握らせるなんて。……窓を掃除してくれたおかげで、中が丸見えだ」
「ヴィンセント! お前、何階だと思ってるんですか!」
昴が驚いて窓を開けると、ヴィンセントは軽やかに部屋へ滑り込み、スバルの首筋に鼻先を寄せた。
「うん、やっぱりいい匂いだ。閣下の重苦しい魔力を吸って、君の浄化魔力がより活性化しているね。……僕も、掃除が必要な場所がいくつかあるんだけど、来てくれるかな?」
「ヴィンセント、貴様……!」
アルフレートが即座に昴を自分の背後に隠し、ヴィンセントを睨みつける。
執務室は再び、いつもの騒がしくも火花の散る「日常」へと戻っていった。
だが、アルフレートの胸の中に灯った小さな光は、もう消えることはなかった。
昴はまだ気づいていない。自分の「掃除」が、この国の支配者たちの運命を、どれほど深く洗い流そうとしているのかを。
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