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窓の外では、季節外れの嵐が猛威を振るっていた。
エルバート領にあるマクレーン男爵家の屋敷は、古い木造の継ぎ目が悲鳴を上げるたびに、わずかに震える。その一室で、ユアン・マクレーンは手元にある小さな鉢植えを愛おしそうに撫でていた。
「大丈夫だよ。明日には太陽が出るからね」
ユアンが指先からほんの少しだけ『微風の魔法』を出すと、鉢に植えられたばかりの小さな芽が、嬉しそうにフルフルと震えた。彼の魔法は、王国で珍重される攻撃魔法でもなければ、傷を癒やす高位の治癒魔法でもない。ただ、そよ風を起こすだけの、生活に根ざした慎ましいものだ。
しかし、その平和な時間は、乱暴に扉が開かれる音によって遮られた。
「ユアン! 決まったぞ、お前の行き先が!」
現れたのは、ユアンの父であり、この領地の主であるマクレーン男爵だ。その顔には、借金取りに追われていたここ数ヶ月には見られなかった、下卑た歓喜の笑みが浮かんでいる。
「……行き先、ですか?」
「そうだ。辺境の守護者、ロストック公爵閣下がお前の『風の魔法』を求めておられる。一年の間、閣下の身の回りの世話をする『番(つがい)』としての契約だ。これでお前の兄たちの学費も、この屋敷の借金もすべて帳消しになる!」
ユアンは、静かにまばたきをした。
ロストック公爵、アルヴィス・フォン・ロストック。
戦場では『冷酷な黒騎士』と恐れられ、そのあまりの強さと魔力の高さゆえに、常に体に熱を帯びる呪いを受けているという男。その熱を逃がすために、相性の良い魔法使いを側に置く必要があるのだという。
「僕の魔法は、風を吹かせるだけですよ? そんな偉い方の役には立てないと思います」
「あちらが指名してきたんだ! お前の魔法の波長が、閣下の熱を逃がすのに最適だとな。……いいか、ユアン。これは契約だ。一年間、向こうで『妻』の真似事をしていればいい。愛だの恋だのは不要だ。お飾りとして、静かに風を送っていろ」
父の言葉に、ユアンは「なるほど」と納得した。
期待されていないというのは、ユアンにとって非常に居心地が良い。期待されれば応えなければならないが、お飾りでいいのなら、新しい土地で植物を育てる余裕もあるかもしれない。
「分かりました。お受けします」
「おお、聞き分けがいいな! さすがは私の息子だ!」
現金なものだと、ユアンは冷めた目で父を見た。昨日まで「役立たずの三男坊」と呼んでいた口が、今は自分を褒め称えている。
けれど、ユアンにとっては好都合だった。この窮屈な実家を出て、見たこともない北の果ての地へ行けるのだ。そこにはどんな珍しい草花が咲いているだろうか。
それから一週間後。
ユアンを乗せた馬車は、石造りの重厚な城、ロストック城へと到着した。
北の空気はひんやりとしていて、植物の匂いが濃い。ユアンは馬車を降りるなり、大きく深呼吸をした。
「……いい風だ」
出迎えたのは、整列した騎士たちと、その中央に立つ一人の男だった。
漆黒の甲冑に身を包み、腰には長剣を帯びている。夜の闇を溶かしたような黒髪に、射抜くような鋭い金色の瞳。彼こそが、この城の主であり、ユアンの「契約夫」となるアルヴィス・フォン・ロストック公爵だった。
(わあ、本当に怖そうな人だ……。睨まれてる?)
ユアンは思わず身を縮めた。アルヴィスの周囲だけ、陽炎のように空気が揺れている。噂通り、相当な熱を帯びているらしい。
「……お前が、マクレーン家のユアンか」
低く、地響きのような声が響く。アルヴィスは一歩、ユアンの方へ歩み寄った。その瞬間、ユアンの肌を焼くような熱気が押し寄せる。
「は、はい。今日からお世話になります、ユアンです。あの、暑そうですね?」
ユアンは緊張のあまり、つい本音が漏れてしまった。
周囲の騎士たちが「ヒッ」と息を呑む。初対面の公爵に対し、あまりに不敬な物言いだと思ったのだろう。
だが、ユアンは平然と、自身の指先を小さく振った。
「失礼します。『そよ風さん、こちらへ』」
ふわり、と。
殺伐とした城の門前に、春の木漏れ日のような柔らかな風が吹き抜けた。
その風はアルヴィスの周囲をくるくると回り、彼が纏っていた刺すような熱気を、優しく空へと逃がしていく。
「…………」
アルヴィスは目を見開いた。
今まで、どんな強力な魔導師を雇っても、彼の熱は無理やり抑え込まれるだけで、不快感は消えなかった。しかし、この小柄な青年が放った魔法は、まるでお風呂上がりの風のように心地よく、彼の荒んだ神経を静かに解きほぐしていく。
「……ほう」
アルヴィスの喉から、短く感嘆の吐息が漏れた。
彼はじっとユアンを見つめる。その金色の瞳に宿る光が、少しだけ変化したことに、ユアンはまだ気づかない。
「部屋を用意してある。案内させよう。……契約期間は一年だ。それまでは好きにするがいい」
「ありがとうございます。あ、あの、中庭に小さなスペースを借りてもいいですか? 僕、植えたい種があるんです」
アルヴィスは一瞬、意外そうに眉を上げた。
怯えて泣きつくか、あるいは媚びを売ってくるかと思っていた「番」が、開口一番に要求したのは、贅沢品でも寵愛でもなく、「庭のスペース」だったからだ。
「……構わん。好きにしろ」
「よかった! ありがとうございます、閣下!」
満面の笑みを浮かべたユアンを見て、アルヴィスはわずかに視線を逸らした。
彼は不器用な男である。この時、胸の奥で小さな拍動が早まった理由を、彼は「久しぶりに熱が引いたせいだ」と自分に言い聞かせた。
こうして、一風変わった「契約結婚」が幕を開けた。
愛も執着もない、ただ熱を冷ますための風と、植物を愛でる日々。
けれど、ユアンが持ち込んだ小さな種が、冷徹な騎士の心に根を張るまで、そう時間はかからなかったのである。
――契約終了まで、残り365日。
二人の距離は、まだ、風が通り抜けるほどに遠い。
エルバート領にあるマクレーン男爵家の屋敷は、古い木造の継ぎ目が悲鳴を上げるたびに、わずかに震える。その一室で、ユアン・マクレーンは手元にある小さな鉢植えを愛おしそうに撫でていた。
「大丈夫だよ。明日には太陽が出るからね」
ユアンが指先からほんの少しだけ『微風の魔法』を出すと、鉢に植えられたばかりの小さな芽が、嬉しそうにフルフルと震えた。彼の魔法は、王国で珍重される攻撃魔法でもなければ、傷を癒やす高位の治癒魔法でもない。ただ、そよ風を起こすだけの、生活に根ざした慎ましいものだ。
しかし、その平和な時間は、乱暴に扉が開かれる音によって遮られた。
「ユアン! 決まったぞ、お前の行き先が!」
現れたのは、ユアンの父であり、この領地の主であるマクレーン男爵だ。その顔には、借金取りに追われていたここ数ヶ月には見られなかった、下卑た歓喜の笑みが浮かんでいる。
「……行き先、ですか?」
「そうだ。辺境の守護者、ロストック公爵閣下がお前の『風の魔法』を求めておられる。一年の間、閣下の身の回りの世話をする『番(つがい)』としての契約だ。これでお前の兄たちの学費も、この屋敷の借金もすべて帳消しになる!」
ユアンは、静かにまばたきをした。
ロストック公爵、アルヴィス・フォン・ロストック。
戦場では『冷酷な黒騎士』と恐れられ、そのあまりの強さと魔力の高さゆえに、常に体に熱を帯びる呪いを受けているという男。その熱を逃がすために、相性の良い魔法使いを側に置く必要があるのだという。
「僕の魔法は、風を吹かせるだけですよ? そんな偉い方の役には立てないと思います」
「あちらが指名してきたんだ! お前の魔法の波長が、閣下の熱を逃がすのに最適だとな。……いいか、ユアン。これは契約だ。一年間、向こうで『妻』の真似事をしていればいい。愛だの恋だのは不要だ。お飾りとして、静かに風を送っていろ」
父の言葉に、ユアンは「なるほど」と納得した。
期待されていないというのは、ユアンにとって非常に居心地が良い。期待されれば応えなければならないが、お飾りでいいのなら、新しい土地で植物を育てる余裕もあるかもしれない。
「分かりました。お受けします」
「おお、聞き分けがいいな! さすがは私の息子だ!」
現金なものだと、ユアンは冷めた目で父を見た。昨日まで「役立たずの三男坊」と呼んでいた口が、今は自分を褒め称えている。
けれど、ユアンにとっては好都合だった。この窮屈な実家を出て、見たこともない北の果ての地へ行けるのだ。そこにはどんな珍しい草花が咲いているだろうか。
それから一週間後。
ユアンを乗せた馬車は、石造りの重厚な城、ロストック城へと到着した。
北の空気はひんやりとしていて、植物の匂いが濃い。ユアンは馬車を降りるなり、大きく深呼吸をした。
「……いい風だ」
出迎えたのは、整列した騎士たちと、その中央に立つ一人の男だった。
漆黒の甲冑に身を包み、腰には長剣を帯びている。夜の闇を溶かしたような黒髪に、射抜くような鋭い金色の瞳。彼こそが、この城の主であり、ユアンの「契約夫」となるアルヴィス・フォン・ロストック公爵だった。
(わあ、本当に怖そうな人だ……。睨まれてる?)
ユアンは思わず身を縮めた。アルヴィスの周囲だけ、陽炎のように空気が揺れている。噂通り、相当な熱を帯びているらしい。
「……お前が、マクレーン家のユアンか」
低く、地響きのような声が響く。アルヴィスは一歩、ユアンの方へ歩み寄った。その瞬間、ユアンの肌を焼くような熱気が押し寄せる。
「は、はい。今日からお世話になります、ユアンです。あの、暑そうですね?」
ユアンは緊張のあまり、つい本音が漏れてしまった。
周囲の騎士たちが「ヒッ」と息を呑む。初対面の公爵に対し、あまりに不敬な物言いだと思ったのだろう。
だが、ユアンは平然と、自身の指先を小さく振った。
「失礼します。『そよ風さん、こちらへ』」
ふわり、と。
殺伐とした城の門前に、春の木漏れ日のような柔らかな風が吹き抜けた。
その風はアルヴィスの周囲をくるくると回り、彼が纏っていた刺すような熱気を、優しく空へと逃がしていく。
「…………」
アルヴィスは目を見開いた。
今まで、どんな強力な魔導師を雇っても、彼の熱は無理やり抑え込まれるだけで、不快感は消えなかった。しかし、この小柄な青年が放った魔法は、まるでお風呂上がりの風のように心地よく、彼の荒んだ神経を静かに解きほぐしていく。
「……ほう」
アルヴィスの喉から、短く感嘆の吐息が漏れた。
彼はじっとユアンを見つめる。その金色の瞳に宿る光が、少しだけ変化したことに、ユアンはまだ気づかない。
「部屋を用意してある。案内させよう。……契約期間は一年だ。それまでは好きにするがいい」
「ありがとうございます。あ、あの、中庭に小さなスペースを借りてもいいですか? 僕、植えたい種があるんです」
アルヴィスは一瞬、意外そうに眉を上げた。
怯えて泣きつくか、あるいは媚びを売ってくるかと思っていた「番」が、開口一番に要求したのは、贅沢品でも寵愛でもなく、「庭のスペース」だったからだ。
「……構わん。好きにしろ」
「よかった! ありがとうございます、閣下!」
満面の笑みを浮かべたユアンを見て、アルヴィスはわずかに視線を逸らした。
彼は不器用な男である。この時、胸の奥で小さな拍動が早まった理由を、彼は「久しぶりに熱が引いたせいだ」と自分に言い聞かせた。
こうして、一風変わった「契約結婚」が幕を開けた。
愛も執着もない、ただ熱を冷ますための風と、植物を愛でる日々。
けれど、ユアンが持ち込んだ小さな種が、冷徹な騎士の心に根を張るまで、そう時間はかからなかったのである。
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二人の距離は、まだ、風が通り抜けるほどに遠い。
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