限界社畜の僕がお隣の偏食な天才建築家に「美味しい」を教えることになった件~週末ごはんで育むじれったい恋の味~

たら昆布

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10話

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 目が覚めると、視界いっぱいに白いシャツの胸元が広がっていた。
 一瞬、状況が掴めずに瞬きを繰り返す。
 ……あ。僕、昨夜は一条さんに抱き込まれたまま眠ってしまったんだ。

 慌てて体を離そうとしたけれど、腰に回された腕がそれを許さない。

「……おはよう。まだ、いいだろう」

 頭上から降ってきたのは、起きたばかりの、低くて少し掠れた声。
 見上げると、眼鏡を外した一条さんが、柔らかい眼差しで僕を見下ろしていた。
 いつもは険のある瞳が、朝の光を浴びて、琥珀色に透き通っている。

「一条さん、おはようございます。あの、その……腕、退けてもらってもいいですか?」

「嫌だと言ったら?」

「えっ……」

「冗談だ。……すまない、君の体温が心地よくて、つい」

 一条さんは名残惜しそうに腕を解き、ベッドから起き上がった。
 普段の冷徹な天才建築家の面影はなく、少し乱れた髪のまま欠伸をする姿は、驚くほど年相応の男性に見えた。

「藤代。今日は午後から、俺の原点とも言える場所へ行く。……君にも、来てほしい」

 ◇

 一条さんの車で向かったのは、都心から一時間ほど離れた、海沿いの小さな町だった。
 入り組んだ路地の先にあったのは、古びた、けれど手入れの行き届いた木造の平屋。

「ここは……?」

「俺が十歳まで過ごした、祖父の家だ。今は空き家だが、俺が管理している」

 一条さんは懐かしそうに柱を撫で、縁側の引き戸を開けた。
 畳の匂いと、潮風が混じり合った独特の香りが鼻をくすぐる。
 
「俺の家は、両親ともに仕事で忙しく、家はただ『寝るための箱』だった。食事はいつも一人で、出来合いのものを食べていた。……だが、夏休みにここへ来ると、祖父が庭で採れた野菜で味噌汁を作ってくれた」

 一条さんは、縁側に腰を下ろして遠くの海を見つめた。

「その時初めて知ったんだ。家というのは、単なる構造物ではない。……誰かが誰かのために火を使い、温かいものを分かち合うことで、ようやく『居場所』になるのだと」

 一条さんの建築が、どこか懐かしく、人の心を落ち着かせる理由が分かった気がした。
 彼は、幼い頃に感じたあの「温かな居場所」を、現代のコンクリートの中に必死に再現しようとしていたのだ。

「藤代。君が俺のキッチンに立ち、包丁を響かせ、出汁を引く。……その光景を見た時、俺の中で止まっていた何かが動き出した。……君が作っているのは、ただの食事じゃない。俺の家を、本当の『帰る場所』に変えてくれたんだ」

 一条さんは、そっと僕の手を握った。
 その手は昨夜の熱を帯びていて、けれど握り方はどこまでも丁寧で、壊れ物を扱うかのようだった。

「俺は、君を縛り付けるつもりはない。……だが、もし許されるなら。この家のキッチンに、これからも君が立っていてくれることを願ってしまう」

 それは、一人の建築家が、自分の設計した最高の空間に、一番大切な人を招き入れたいという、純粋な「願い」だった。

「……一条さん。僕の料理で良ければ、何度でも作ります。……あなたの『居場所』が、いつも温かくあるように」

 僕が答えると、一条さんは、今までで一番穏やかで、一番綺麗な笑顔を見せた。
 海からの風が、二人の間を通り抜けていく。

 僕たちはまだ、付き合っているわけではない。
 けれど、繋いだ手の温もりは、どんな設計図よりも正確に、二人の未来を描き出していた。
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