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アウロラ王国の王都にそびえ立つ魔導院は、知を求める者たちの聖域であり、同時に奇人変人の巣窟でもある。その最上階付近に位置する大魔導カスパールの執務室は、今日も今日とて怪しげな薬草の乾いた匂いと、魔道書の埃で満ちていた。
窓から差し込む朝の光は、浮遊する埃を白く照らし出し、一人の青年の頭上で乱反射している。
ニルス・ベルグマンは、新緑の隙間を吹き抜ける風をそのまま固めたような、淡い緑色の癖毛をくしゃくしゃに掻き回しながら、力なく箒を動かしていた。魔導院の制服である紺色のローブは、彼には少しサイズが大きく、動くたびに裾が床を引きずる。
ニルスは、この魔導院において「理論だけは完璧な落ちこぼれ」という不名誉な称号を欲しいままにしていた。筆記試験の成績は常に学年首位。だが、実技となると目も当てられない。彼が指先から放つはずの雷撃はふわりと浮かぶ綿菓子になり、敵を焼き払うはずの火球はパステルカラーのシャボン玉へと姿を変える。
そんな彼の現状を知る周囲の学生たちは、親しみと嘲笑を込めて彼を「お花畑くん」と呼んでいた。
「はぁ。今日も掃除、明日も掃除……。俺の魔術人生、このまま箒と心中して終わるのかな」
ニルスの唇から漏れた溜息が、静かな部屋に溶けていく。
主であるカスパールは、弟子の実技の壊滅ぶりを改善させるどころか、面白がって雑用ばかりを押しつけていた。ニルスが棚の隅、蜘蛛の巣が幾重にも張った暗がりに箒を突っ込んだとき、カチリと硬い感触が手に伝わった。
棚の最奥に、古びた青い小瓶が忘れ去られたように置かれていた。
中には深海のように透き通った青色の液体が満ちており、振ってもいないのにゆらゆらと波打っている。ラベルはなく、底の方で微かに燐光を放っていた。本来ならば、正体不明の薬品など放置すべきである。しかし、連日の掃除に飽き果てていたニルスには、その不気味な輝きが抗いがたい誘惑に見えた。
「なんだろう、これ。カスパール様の隠し酒かな」
ニルスがその小瓶を手に取り、まじまじと覗き込んだ、その瞬間だった。
棚から舞い上がった大量の埃が、ニルスの鼻腔を無慈悲に刺激した。
鼻の奥がツンと痛み、制御不能な生理現象が襲い来る。ニルスの顔が歪み、大きく息を吸い込んだ。
「へ、へ、へくちゅんっ!!」
静かな実験室に、派手なクシャミが響き渡る。
同時に、ニルスの指先から小瓶が滑り落ちた。
ガシャン、と鋭い音が鳴り響き、床に砕けたガラスとともに青い液体が飛散した。運悪く、その飛沫のほとんどがニルスに降りかかる。
「あ、あああ!やっちゃった!これ、もし貴重な薬だったら、今度こそ師匠に実験動物にされる……!」
ニルスは青ざめ、慌てて袖で床を拭こうとした。
だが、その瞬間。ニルスの全身から、パチパチという静電気のような音が鳴り始めた。
視界の端に、あり得ない色彩が飛び込んでくる。
「え、なにこれ?」
ニルスの周囲に、唐突に桜色の花びらが舞い始めた。
それだけではない。金色のラメのような光の粉が、シュワシュワという炭酸が弾けるような音を伴って噴き出してくる。どこからともなく、甘酸っぱくてフローラルな香りが漂い、殺風景だった実験室は一瞬にして「恋に落ちた直後の背景」のような空間へと変貌した。
ニルスが困惑して自分の手を見つめると、指先からも小さな星型の光がポーンと飛び出していく。さらに驚いたのは、その花びらが単なる幻覚ではなかったことだ。足元に積もった花びらに足を滑らせ、ニルスはその場に無様に転倒した。
「痛っ!止まってくれ、なんだこれ、恥ずかしい、恥ずかしすぎる!」
ニルスが慌てれば慌てるほど、彼の羞恥心とパニックに連動するようにキラキラの増量は加速していく。部屋の隅に追いやられた箒は、すでに山積みになった花びらに埋もれかけていた。
そんな騒ぎを聞きつけたのか、廊下から重厚な足音が近づいてきた。
扉が開き、長い紫髪を優雅に揺らした大魔導カスパールが姿を現した。彼は、まるでパレードの主役のように輝き狂う弟子を目にすると、眉一つ動かさずにじっくりと観察し始めた。
「ほう。ニルス、ついに自身の内面が物理的に溢れ出したのかい?」
「師匠、笑い事じゃありません!あそこにあった青い瓶を割っちゃって、そしたら、これ!」
「青い瓶?ああ、あれか。私が若かりし頃、不愛想な王族のために作った感情感応型エフェクト増幅薬の試作版だね」
カスパールは楽しそうに、宙を舞う花びらの一枚を指で摘まんだ。
「感応型?」
「そう。心の動き、特に恥じらいや驚き、ときめきといった感情の揺らぎを検知して、それを視覚的な演出として全方位に放出する呪いだ。実に無害だが、実に厄介だね。解除法は……確か、考えていなかった気がするな」
「嘘だと言ってください!!」
ニルスの叫びとともに、特大の金の星がカスパールの鼻先で派手に爆発した。金色の粉がカスパールの高価なローブに降り注ぐ。
カスパールはそれを軽く手で払い、薄く笑みを浮かべた。
「いいじゃないか、ニルス。魔導院の廊下も、君が歩けば祝祭の会場だ。皆、君の風色の髪に舞う花びらを見て、きっと幸せな気分になれるよ。公害だと言われない限りはね。ちなみにそのエフェクトは魔力の塊だ。一時間もすれば自然と消えるが、君が焦り続ける限り、無限に供給されるだろうね」
「今の状況が、まさに公害ですよ!早く消してください!」
「無理だね。今の私の魔力では、その呪いを上書きすることはできない。解除するには、強固な聖なる力を持つ者に触れられるか、あるいは――何か別の特殊な条件を満たすしかない」
ニルスは絶望し、その場に膝をついた。その衝撃で、今度は白い羽のような光がふわふわと舞い上がり、部屋の天井を埋め尽くしていく。
これでは、普通に街を歩くことすらできない。誰かに見られるたびに、感情が揺れ、キラキラが自動的に噴射されるのだ。ニルスは自分の手から零れ落ちるラメを必死に掴もうとしたが、それは指の間を抜けて床に溜まっていく。
「あ、そうだ。トビーなら何か知ってるかも」
ニルスは悪友であるトビーの顔を思い浮かべた。あいつも同じような落ちこぼれだが、裏の事情には妙に詳しい。
ニルスは一歩ごとにキラキラと花びらの尾を引きながら、逃げるように実験室を飛び出した。
背後でカスパールの「掃除の続きを忘れるなよ」という呑気な声が聞こえたが、今のニルスには、自分の後ろに続くピンクの花道が、地獄への道標にしか見えなかった。
廊下を走るニルスの足跡に沿って、ラベンダー色の蝶がひらひらと舞い上がる。すれ違う研究生たちが「うわっ、なんだ!?」と驚くたびに、ニルスの心拍数は上がり、キラキラの濃度はさらに増していく。
これが、王国最強の聖騎士団長ギデオン・クリュサオルと、落ちこぼれ魔術師ニルスが出会う数時間前の出来事である。
窓から差し込む朝の光は、浮遊する埃を白く照らし出し、一人の青年の頭上で乱反射している。
ニルス・ベルグマンは、新緑の隙間を吹き抜ける風をそのまま固めたような、淡い緑色の癖毛をくしゃくしゃに掻き回しながら、力なく箒を動かしていた。魔導院の制服である紺色のローブは、彼には少しサイズが大きく、動くたびに裾が床を引きずる。
ニルスは、この魔導院において「理論だけは完璧な落ちこぼれ」という不名誉な称号を欲しいままにしていた。筆記試験の成績は常に学年首位。だが、実技となると目も当てられない。彼が指先から放つはずの雷撃はふわりと浮かぶ綿菓子になり、敵を焼き払うはずの火球はパステルカラーのシャボン玉へと姿を変える。
そんな彼の現状を知る周囲の学生たちは、親しみと嘲笑を込めて彼を「お花畑くん」と呼んでいた。
「はぁ。今日も掃除、明日も掃除……。俺の魔術人生、このまま箒と心中して終わるのかな」
ニルスの唇から漏れた溜息が、静かな部屋に溶けていく。
主であるカスパールは、弟子の実技の壊滅ぶりを改善させるどころか、面白がって雑用ばかりを押しつけていた。ニルスが棚の隅、蜘蛛の巣が幾重にも張った暗がりに箒を突っ込んだとき、カチリと硬い感触が手に伝わった。
棚の最奥に、古びた青い小瓶が忘れ去られたように置かれていた。
中には深海のように透き通った青色の液体が満ちており、振ってもいないのにゆらゆらと波打っている。ラベルはなく、底の方で微かに燐光を放っていた。本来ならば、正体不明の薬品など放置すべきである。しかし、連日の掃除に飽き果てていたニルスには、その不気味な輝きが抗いがたい誘惑に見えた。
「なんだろう、これ。カスパール様の隠し酒かな」
ニルスがその小瓶を手に取り、まじまじと覗き込んだ、その瞬間だった。
棚から舞い上がった大量の埃が、ニルスの鼻腔を無慈悲に刺激した。
鼻の奥がツンと痛み、制御不能な生理現象が襲い来る。ニルスの顔が歪み、大きく息を吸い込んだ。
「へ、へ、へくちゅんっ!!」
静かな実験室に、派手なクシャミが響き渡る。
同時に、ニルスの指先から小瓶が滑り落ちた。
ガシャン、と鋭い音が鳴り響き、床に砕けたガラスとともに青い液体が飛散した。運悪く、その飛沫のほとんどがニルスに降りかかる。
「あ、あああ!やっちゃった!これ、もし貴重な薬だったら、今度こそ師匠に実験動物にされる……!」
ニルスは青ざめ、慌てて袖で床を拭こうとした。
だが、その瞬間。ニルスの全身から、パチパチという静電気のような音が鳴り始めた。
視界の端に、あり得ない色彩が飛び込んでくる。
「え、なにこれ?」
ニルスの周囲に、唐突に桜色の花びらが舞い始めた。
それだけではない。金色のラメのような光の粉が、シュワシュワという炭酸が弾けるような音を伴って噴き出してくる。どこからともなく、甘酸っぱくてフローラルな香りが漂い、殺風景だった実験室は一瞬にして「恋に落ちた直後の背景」のような空間へと変貌した。
ニルスが困惑して自分の手を見つめると、指先からも小さな星型の光がポーンと飛び出していく。さらに驚いたのは、その花びらが単なる幻覚ではなかったことだ。足元に積もった花びらに足を滑らせ、ニルスはその場に無様に転倒した。
「痛っ!止まってくれ、なんだこれ、恥ずかしい、恥ずかしすぎる!」
ニルスが慌てれば慌てるほど、彼の羞恥心とパニックに連動するようにキラキラの増量は加速していく。部屋の隅に追いやられた箒は、すでに山積みになった花びらに埋もれかけていた。
そんな騒ぎを聞きつけたのか、廊下から重厚な足音が近づいてきた。
扉が開き、長い紫髪を優雅に揺らした大魔導カスパールが姿を現した。彼は、まるでパレードの主役のように輝き狂う弟子を目にすると、眉一つ動かさずにじっくりと観察し始めた。
「ほう。ニルス、ついに自身の内面が物理的に溢れ出したのかい?」
「師匠、笑い事じゃありません!あそこにあった青い瓶を割っちゃって、そしたら、これ!」
「青い瓶?ああ、あれか。私が若かりし頃、不愛想な王族のために作った感情感応型エフェクト増幅薬の試作版だね」
カスパールは楽しそうに、宙を舞う花びらの一枚を指で摘まんだ。
「感応型?」
「そう。心の動き、特に恥じらいや驚き、ときめきといった感情の揺らぎを検知して、それを視覚的な演出として全方位に放出する呪いだ。実に無害だが、実に厄介だね。解除法は……確か、考えていなかった気がするな」
「嘘だと言ってください!!」
ニルスの叫びとともに、特大の金の星がカスパールの鼻先で派手に爆発した。金色の粉がカスパールの高価なローブに降り注ぐ。
カスパールはそれを軽く手で払い、薄く笑みを浮かべた。
「いいじゃないか、ニルス。魔導院の廊下も、君が歩けば祝祭の会場だ。皆、君の風色の髪に舞う花びらを見て、きっと幸せな気分になれるよ。公害だと言われない限りはね。ちなみにそのエフェクトは魔力の塊だ。一時間もすれば自然と消えるが、君が焦り続ける限り、無限に供給されるだろうね」
「今の状況が、まさに公害ですよ!早く消してください!」
「無理だね。今の私の魔力では、その呪いを上書きすることはできない。解除するには、強固な聖なる力を持つ者に触れられるか、あるいは――何か別の特殊な条件を満たすしかない」
ニルスは絶望し、その場に膝をついた。その衝撃で、今度は白い羽のような光がふわふわと舞い上がり、部屋の天井を埋め尽くしていく。
これでは、普通に街を歩くことすらできない。誰かに見られるたびに、感情が揺れ、キラキラが自動的に噴射されるのだ。ニルスは自分の手から零れ落ちるラメを必死に掴もうとしたが、それは指の間を抜けて床に溜まっていく。
「あ、そうだ。トビーなら何か知ってるかも」
ニルスは悪友であるトビーの顔を思い浮かべた。あいつも同じような落ちこぼれだが、裏の事情には妙に詳しい。
ニルスは一歩ごとにキラキラと花びらの尾を引きながら、逃げるように実験室を飛び出した。
背後でカスパールの「掃除の続きを忘れるなよ」という呑気な声が聞こえたが、今のニルスには、自分の後ろに続くピンクの花道が、地獄への道標にしか見えなかった。
廊下を走るニルスの足跡に沿って、ラベンダー色の蝶がひらひらと舞い上がる。すれ違う研究生たちが「うわっ、なんだ!?」と驚くたびに、ニルスの心拍数は上がり、キラキラの濃度はさらに増していく。
これが、王国最強の聖騎士団長ギデオン・クリュサオルと、落ちこぼれ魔術師ニルスが出会う数時間前の出来事である。
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