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第3部 あの恋の続きを始める
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しおりを挟むそろそろ賃貸の更新時期に差し掛かっていたのも、お見通しだったのだろう。
全て計算通り、と言わんばかりの絶妙なタイミングで後釜を回収する飯田は齢七十超えの猛者である。
最賀は連れられるがままに、畑のど真ん中にポツンと平屋が建てられた場所へ案内された。
山と畑に囲まれた閑静な立地にその家はあった。隣の家まで数十メートル離れており、プライバシーはその点保たれている。
ただ、平屋から飯田診療所までの道のりは凸凹の辛うじて塗装された農道を通る必要がある。
引き払った都内の家の代わり、と荷物が既に搬入された後に実物の平屋を前にすると気が引けるものだ。
こんな立派な一軒家は持て余す、と。
「暫く住んでから考えなよ。診療所までバイクや自転車で十五分、スーパーもドラッグストアもあるし」
家や新たな職場のポストも御丁寧に用意され、全てが上手くいきすぎる。
裏があるな、と思っていたら新たな名刺は副院長の文字があり、目が点になった。文字が霞んでいるかと思って、目を擦ってから眼鏡をかけたが変わらない。
「腰の治療したいし、そろそろ後継者育てないとなーって思ってさ。宜しくね最賀副院長先生?」
──やられた、飯田先生って事後報告大好きだった!!
副院長なんて肩書きが、重い。
「院長、新しく入る先生ですよね?」
飯田診療所は過疎化の進む田舎街で、唯一ある病院だ。
近くには市民病院があるものの、重症患者や緊急搬送が必要な場合の患者が優先されるので、かかりつけ医へまず受診するのが一般的だった。
更には地元意識が強く、大抵のことは飯田診療所へまず受診して、各々必要な専門科へ紹介状を持参する。そんな患者が多かった。
以前は開業医が多かったものの、皆が高齢化が進み実質引退を余儀なくされ、今では飯田診療所が最後の砦を担っている印象だ。
院長である飯田には、後継とも言える実子はおらず、また田舎街に医局を離れて来てくれる教え子もいなかったらしい。
そうやって、後継者がおらず閉院する医者達を沢山見てきたのだろう。
「良い拾い物と言うか、まあ君だから遠い場所まで御迎えに行ったんだよ? 空気も良い、食べ物は美味しい。此処は殺伐とした病院じゃない」
期待しているよ、と肩を軽く叩かれる。曲がった腰や背の低く感じる恩師も歳を取ったのだと最賀は肌身に感じた。
飯田診療所は小児科と内科をメインに診る病院だ。超音波エコー検査や二十四時間心電図等、循環器内科に強い。
田舎にある小さい病院だが、内部の設備は意外と整っている。レントゲン室に処置室、遠心分離機まで設置しており、数十年もの月日を感じさせる院内なのにだ。
ある程度の説明を受け、長年院長と切磋琢磨してきた看護師の小野寺へ挨拶を軽く済ませる。
彼女は貫禄のある面持ちに、どっしりと構える優秀な看護師らしい。職員は非常勤を合わせると七人だ。
だが、今朝一人減ったらしい。新人の医療事務員が一週間で根を上げて、退職届と共に制服や名札が朝一届いたのだと言う。
宅急便で、くしゃくしゃな使い古した紙袋に入っており、色々と内部事情は気の毒そうだ。若い子は直ぐに辞めるから定着率がねえ、と看護師が嘆いていた。
医療事務、と聞けば舞い降りて来たのは女の存在だった。
今は所在不明だが、もし運良く何処かですれ違えば。なんて、淡い希望を未だに抱いている。
偶然なのか、それとも神様の悪戯なのか。
女の地元は飯田診療所のある、美沢だ。以前そんな話を聞いた気がする。五年前なのに、鮮明に女の子とは覚えているのだ。これも何の因果なのだろうか。最賀は期待を胸に膨らませているのは事実だった。
「……あ、の……こんなこと申し上げるのは、差し出がましいのですが」
受け持ちの患者を徐々に引き継いでいく最中で、ふと最賀は気が付いた。付箋の赤色の入ったカルテは厚みがあり古い物が多いことを。
「この古いカルテってなんですか?」
「うん、誰かな?」
申し送りを受けていると、色が入ったカルテだ。
この診療所では、再来院カルテと事故や労災認定のカルテ、更には医療証使用者のカルテ等色別で区分けされている。ファイルの色合いで大まかな患者のバックグラウンドが分かる仕様だった。
特に、付箋が赤に貼られている場合は要注意人物に指定されている、と飯田から説明があった。
「ああ、この子かあ」
特に気になった、特別厚みを持ったカルテには、何度も保険証が変更したのかコピーを上書きがされている。クリアファイルで保護された紙カルテの余白スペースには注意書きが沢山綴られてあった。
打撲痕あり、予防接種一人で受診し家族と連絡取れず二時間待機等数々の問題事項。
最賀は、予測もしなかった場所で再会したのだ。
「──山藤、陽菜」
「あー、最近来てないなぁ。あ、カルテ残ってるかも。此処はね、地域密着型だから結構古いのも残ってるんだよね」
カルテをパラパラと捲る音が、やけに大きく感じた。
「あの子か、今でも覚えてるよ」
古いカルテ、要注意患者の付箋、サバイバー。
全てのパズルが嵌まった気がして、冷や汗が背中を伝う。
「頭に傷、出来ても、膝に木の棘刺さっても……泣かなかった、ねえ。児相呼ぶ? って提案しても弟がいるから駄目って頑なに」
虐待が疑われる場合、児童相談所へ通報するのが一般的な措置だ。ましてや日常的に暴行がされていれば尚更である。
しかし、被害児は加害者が身内や近しい親族である程に庇う傾向がある。愛情の裏返しで、これは躾だと教わっているからだ。
悪い子は私です、と涙を落とす女の姿が頭を過って、最賀は呼吸が途端に苦しくなる。
「小さいのに、泣かなかったよ。痛いのにねえ」
ぽたぽた、と涙が埃と劣化で汚れたカルテに落ちる。堪え切れず、最賀の眦から止まらない涙がファイルを滑り落ちていく。
「──最賀君?」
口元を思わず掌で覆った。はあ、と息がし辛い。
小さな体で必死に、生きようとした女の記録が目の前にある。単なる申し送りを受けているだけの、唯の一医者が一人の患者に同情してはならない。
それなのに、心が痛くて死にそうだ。
「……こんなに、小さい体で頑張って……。ああ、なんで、無理矢理でも連れて行かなかったんだろう」
涙で視界が歪んで、カルテを握り締める。看護師が、先生?と尋ねる。
「そうか、最賀先生の、希望の光だったのかい?」
「き、ぼう……」
「山藤さんって、インフルエンザの予防接種も一人で来て、小銭ばっかり出す子供だったんだよね」
どうして、とは続かなかった。この辺一帯で女の色々な意味で母親は有名だったらしい。
患者を出禁にするのは、相当な理由が無い限りは不用意にしないのが鉄則だ。医療スタッフに罵詈雑言吹っ掛けたり、院内の物品を手当たり次第破壊したり、暴力を振るう等のことである。
だから、唯一受け入れていたのは飯田診療所であった。大人しく、怪我が絶えない子供だったらしい。
「──そうか。知り合い……いや、恋人だったんだね?」
びく、と恋人のキーワードに最賀は目を見開いた。
涙で濡れた頬をハンカチで拭う。最賀は飯田の言葉を静かに聞いた。どうしてこの人は、全部手に取るように分かってしまうのだろう。
「医療従事者が立ち入れるのは、難しい場面は多くある。君は、それを、超えて……」
「──俺は、何もしてません」
医療従事者が患者の環境へ介入出来ることは少ない。
ましてや、患者と医療従事者はあくまで他人であり、距離感が難しいからだ。受診を拒否されれば、支援の道は閉ざされるし、行き過ぎた干渉は訴訟へ発展することもある。
「ただ、彼女が、真っ直ぐ何も持っていない俺を……見据えるから。なんて、無力で、浅はかで、なんで俺って……」
譫言の様に最賀は呟いた。自身の未熟さが恥ずかしかったからだ。あの傷痕を知っているのに、もっと出来ることはあったのに。
年を重ねる度に、後悔ばかりしている。
「君は此処まで来たんだ。後はやるべきことは、分かっているよ。ただ、戸惑っているだけさ」
「…………先生?」
「オーベンやってた時みたいだなぁ。君って我慢強いからねえ」
研修医の頃は出勤するだけ偉いと己を鼓舞していた。とにかく、タイムカードを打刻する度に偉いな自分と褒めないと、怒号の渦の中に飛び込むには勇気がいるものだ。
命のやり取りは決して人々にはあまくはない。一分一秒の争いの中で、勝者だけが生命を救えるのだから。
飯田はげっそりと項垂れていると、良く太陽の陽射しが入る場所まで連れて行き、甘いミルクティーを出してくれた。糖分と温かい物は、酷使して疲れた体に沁み渡る。
飯田には不安や弱音を吐いたことは無かったが、そうやって無言のフォローをしてくれていたのだろう。
医者を十年以上続けていると、昔良くしてくれた人々を何となく思い出す。彼等に何度も助けられたことを。
「さてさて、そんな君に朗報だよ」
女は正月と暑中見舞いの葉書を毎年出してくれるらしい。世話になったから、と御中元まで届くと言う。女らしいな、と最賀は思った。
「住所がねー、載ってるのよね。ささ、僕は頻尿気味だからトイレに席を外そうかな? 後で仕舞うからさ」
態とらしく飯田はそう言って席を外す。
最賀は五年分の筆跡を辿れるだけでも、幸せだった。
良く見ると、段々と丸文字の可愛らしい字が上手くなっていた。雛が無事に巣立ったような気分になって、少しだけ寂しくも感じた。
「陽菜……」
カルテに記載された痛ましい傷跡が、最賀を苛む。
***
仕事にも徐々に慣れ、仮住まいだった平屋を正式に買い取った頃。天気は生憎の雨続きで、湿気は高くじめじめとしていた。
タイムカードを打刻し、白衣を脱いでランドリーボックスへ入れていると。飯田が最賀へ手招きをした。
女の母親が急逝した、と連絡があったと言う。長年かかりつけ医であり、世話になった飯田には一報を入れたのはあの件も絡んでいるからだろう。
もう、暴力に苦しむことはない、と。
葬式の日程も決まっており、焼香を上げに行く予定だと飯田は話す。
「僕腰やったじゃない? 付き添い欲しいなーなんて。あ、迎えは要らないからね」
こんな時でも、飯田は最賀へ気を遣ってくれる。
最賀の噂の全容をほぼ知っているのに、新しい環境を提供し、そして愛している人間へ会うきっかけすら築いてくれる。
「何はともあれ、近況も知りたいし、ついでに偶然に顔が見えるかもしれないよ」
「……飯田先生、何処まで察して下さってるんですか」
最賀が独身である理由は一つである。違う女性と結婚など考えられなかったし、今でも未練以上の燻りに苛まれている。
「ええー?可愛い教え子が独身貫いてるなんて、EDか操立ててるか遊びたいかの三択でしょう」
君、そんな器用じゃないから遊び人は消去だし。そう、付け加えられる。
「残りはEDか……」
「EDじゃありませんから……勘弁して下さい」
「えー」
飯田は顔膨らませてる。お茶目だ。頬が風船の様にまん丸で、七十代とは思えない程の愛嬌がある。
「老人が頬膨らませてプウプウさせても意味ありませんからね」
「素直じゃないんだから。結婚してるかなあと思ったけど、彼女も君と同じじゃないの?」
「…………さあ」
「そこは、僕のこと待っててくれてると信じてますっ、キリッ! じゃないの?! 老体労ってよもう」
別の人が隣にいる可能性だってある。そんな当たり前なことを忘れていたなんて、と自身の都合良い思考にげんなりした。
女は恐らく二十八歳と結婚適齢期で、もしかしたら良縁に恵まれて子供も授かっているかもしれない。
最賀は女が自分同様に待っているなんて、烏滸がましい限りだ。
けれども、落胆した最賀を勇気付けるポジティブ思考な老医師に助けられ、何とか立っていられた。
「先生、この状況楽しんでませんか?」
「楽しいよ? そりゃあ、仏頂面の君が顔色変えて必死なの見てて面白いから」
「飯田先生ッ!!!!」
雨が降り注ぐ中、ひっそりとその女は佇んでいた。喪服姿とは裏腹に地毛の栗毛が顔を覗かせ、その刹那げな孤独を背負った女は、やはり独りだった。
最賀は暫く、女の美しい横顔をぼんやりと敷居の外で見詰めていた。いや、最後かもしれないからと目に焼き付けておきたかったのかもしれない。
五年の月日は最賀をより孤独にしたし、失った物は多い。キャリアコースを外れて、体を壊し、すっかりと白髪は増えて落魄れた医者だ。
そんな自分を見て、女はなんて言うのだろう。
髪を振り乱して怒るか、それともカメリアの髪留めをつっ返してくるのか。
それでも、良い。
どんな感情をぶつけられようと、ただ近くに居られるのであれば。
この不器用な戀に、なんて名前を授けよう。
【番外編 終】
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