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第4部 溺れる愛
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しおりを挟むその原因は陽菜にあるだろう。いや、断言出来る。最賀の優しさを素直に受け止めなかったからだ。合鍵まで渡した恋人が、家を売り払う手筈を整えるのならば、同棲を名乗り出るのは昭然としている。しょうぜん
最賀と同棲したくない訳、無い。寧ろ四六時中一緒にくっついていたいくらいだ。朝起きたら隣でおはようと挨拶を交わして、穏やかな幸せを送る未来を何度夢見たことか。
けれども、家を引き払うから転がり込むなんて、都合が良過ぎないか。頭の中を占めるのは、最賀の負担や迷惑を掛けることだ。
「じゃあ山藤さん、先生に熱々のお茶持って行って下さる?ちょっとお菓子添えて機嫌直しに」
「え……私、ですか?」
小野寺は一番気まずい立場にいる陽菜をピンポイントで指名した。最賀専用の湯呑みには熱い淹れ立ての緑茶、そして饅頭だ。
「私達が持って行くより、昔から仲良しの山藤さんの方が扱いは長けているでしょうし」
御盆をずいと強制的に持たされて、陽菜は冷や汗が背中を伝った。もしかすると、これはチャンスなのかもしれない。仲直りをするきっかけだ、と奮い立たせる。
診察室は待合室から入れる正面と、職員が院内廊下へ抜ける二つの入り口がある。職員が出入りする裏手はカーテンだけの仕切りで、入り組んだ院内からは意外と声が響かないのが利点だ。
小野寺達は良く裏手にある書類ボックス付近で、カルテを記載したり、検査日の予定の記録を立てている。
陽菜はノックの代わりに、声を掛けた。意外と並々に緑茶が波打たせているせいで、手は塞がっている。
「……最賀先生、失礼致します」
「──ん? どうした」
普段なら、最賀は手を止めて顔を上げる。だが、今は頼んだレセのチェックにペンを走らせている。
たった、それっぽっちの小さなことなのに。
心が痛い。ホルモンバランスが崩れたのか。情緒が波打って制御が難しい。
──どうやって先生と会話していたっけ?
「あ……お茶、とお菓子……その」
「ありがとう、置いといてくれ」
また、冷たい態度だ。
此方を見てくれない。
湯呑みを持つ手が痺れる。酸素が行き届かない感覚に、唇を噛み締めて堪え忍ぶ。
ガタリ。陽菜はお盆に乗っていた饅頭を落としてしまって、慌てて屈んで拾う。首が垂れて、髪が陽菜の前面にかかる。床に染みが出来ており、清掃中には無かったのに。それが涙だとは一瞬、分からなかった。
最賀の負担ばかりになって、陽菜は一向に何も返せていない。
涙が視界を遮ろうとする。ああ、悲しくて心が潰れそうなのか。陽菜は自嘲したくなった。自分が招いたことなのに!
──堪えろ、泣いたって解決しない!
「待て、山藤」
饅頭を新しいのに交換して、涙で濡れた顔を最賀へ見せないように背けた。
だが、手首を掴まれて制止させられると、強い力で引き寄せられる。あんなにも強く引かれるとは思わず、体がグンッと前のめりになって体が浮いた。
まさか最賀を椅子から転げ落ちさせ、下敷きにした時は流石に焦った。椅子はひっくり返り、菓子はやっぱり床に散乱した。最賀の腕の中に受け止められる形で、固まる。
すると。はあ……と、溜息混じりの声に陽菜は萎縮してしまう。今日は何をやっても上手く行かない、とシャツに涙を落とす。
「……また泣かせてばかりだな、俺は」
最賀は陽菜の涙を白衣の裾で拭う。絶対嫌われた、と陽菜は覚悟をした。可愛げのない女だと男性二人からの悪意のある言葉は刺さったまま抜け落ちない。じくじくと傷が膿んでいる。
「……私のこと、嫌いになったんでしょう」
「は? え? え……嫌いって……」
「だって…………!」
「ああ、ちょっと……アンタに泣かれると俺は弱いんだよ……」
ひくひくと咽び泣く陽菜は顔を掌で覆った。だが、あっさりと手首を掴まれて制御される。首を横に逸らして拒絶すると最賀はマスクを下げて、一度口付ける。
それから、啄むように宥めるキスをする。大人の狡いやり方は変わらない。陽菜がこれで落ち着きを取り戻すのを、最賀は知っているからだ。
涙に強いマスカラで良かった。アイシャドウをする余裕が無かったので、せめてパッと見はメイクを施している様にしただけあって。受付は病院の顔である。職務怠慢は最賀と診療所のイメージを下げるからだ。
「好きですよ、何なら周知の上で仕事したいくらい」
乾燥した唇が離れると、最賀は泣き止んだなと安堵した。やっと体の緊張が抜けたからだろうか。陽菜の乱れた髪を最賀は指で丁寧に梳かす。
「……それは、駄目です……あと一年くらい」
すん、と鼻を啜ると最賀がティッシュで鼻水も拭ってくれる。汚いのに。変に陽菜は冷静になった。
「一年経ったら良いのか? あと八か月後?」
「忠さん…………!」
「涙、引っ込んだな」
クスクスと忍び笑いをされる。世間体もあるのだから、一年は最低限隠し通すのが好ましい。ましてや職場恋愛だ。
田舎の辺境地で、他所から引き抜かれた医者と面識のある医療事務員の恋愛なんて噂のターゲットに成りかねない。
「先生が、冷たかったから」
「え、そうか?」
「一度も見てくれなかったもん……」
「可愛い理由だなあ。確かに目は合わなかったな、今日は。俺は何度も熱い視線送ってたのに。それに比べてアンタの方が澄ました顔だったぞ?」
「思い耽ってただけです」
「はは、やっぱり可愛いな」
全て可愛いで片付けられるのも、最賀の寛大な心のお陰なのか。単に恋人の拗ねた言動に甘いのか。
「拗ねてたのにリボンも時計もしてくれているし?」
「先生、意地悪です。分かってて揶揄って……」
「感情的になる山藤さんは可愛いと思いますよ?」
「無視されたのかと思って……」
自分でも言っていて面倒臭いなとは思う。しかし、何を隠そうともこの男は納得するまでディスカッションするだろう。最賀は問題解決に手を抜かず、永遠と執拗に模索する人間である。
「無視する訳無いだろう? あれ、俺無視した?」
「した! さっき!!」
「眼球は動かしているつもりだった。昨日、少し強く言い過ぎたなって……反省して、眠れなかったから」
「眠れ……え?」
ぽかんと口を開けたのは、今度は陽菜の方だった。呆気に取られてしまう。昨夜眠れないまま出勤したなんて。
陽菜はそのまま畳に寝そべって八時間眠ったが、体はギシギシと軋む。それでも、良質とは言えぬが睡眠は取れた。
最賀は眼鏡を外し、眉間を摘んでから目を擦った。確かに目尻は仄かに赤い。気怠げだったのは、寝不足だからである。
「俺が傷付かないとでも?その顔見たら、アンタは爆睡だったんだな」
「あ……う、私……疲れて死んだ様に寝てて」
「──俺のメール、見てないなその反応は」
「メール?」
寝坊をして慌てて出勤したので、携帯は一度も開かなかった。勿論昼食も持参するのを忘れたので、憐れみの目で三条からカロリーメイトを二本。
そして、小野寺からお湯で溶かす卵スープを恵んでもらった。食事を摂ることと、代わりに小野寺の愚痴を聞くので休憩時間は呆気なく終わった。メールの内容は、勿論確認していない。
「……山藤。今日は俺の家まで来るように。明日は届いた服着て出勤。拒否権は無いからな」
じろりと鋭利な眼差しに、陽菜は身の危険を感じた。もしかして、壮大なお仕置きが待っているのだろうか。朧げだが、夢の中で最賀に散々躾けられた気がする。
殆ど記憶には残っていないが、寝汗に加えて身体中が熱を篭ってしまって冷ますのが大変だった。
「痛いこと以外……の、お仕置き?」
「はあ? お仕置きってなんだ? ちょっと近くまで来なさい」
急に、顔の真横に近付くと陽菜の耳朶を甘噛みした。ビクッと反射的に痺れが走る。耳の裏を舌がぬるりと這う感覚に、思わず白衣を握った。
「職場で煽らないように。家ではたっぷり教えてやるので、心の準備をしておいてくれ」
──絶対、怒らせた……。
眠れなかった、と聞いたので安眠を促すアイマッサージャーを贈り、待ち受けるお仕置きの軽減を図るしか無かった。
そんな物事は簡単な訳もなく。
ひんひんと啜り泣きながら、脚を大きく開かされ剛結で散々虐められる羽目になったのは。数時間後に分かるだろう。首筋に赤い花弁が複数点在し、涙で目元を腫れさせた挙句。
下着の替えが無かったので、新品のボクサーパンツを履いて出勤した。更衣室では小野寺に質問攻めに合い、陽菜は恋人の有無を言わざるを得なくなったのであった。
「なんでアンタがいるのよ! 此処に! 最賀さんを誑かした泥棒猫が!」
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