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第1話 桜井与野
しおりを挟む「おや?こんなところでどうなされたのですか?
なに…私もこの大学の関係者でして、お急ぎで無いのなら一緒にこの大学の不可思議な出来事を傍観していきませんか?
ただし、アレに見つからないように…十分にお気をつけて……。」
草木もねむる丑三つ時、その時刻は魔物が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する時間だと昔から言われてきた。
所以は…はて、なんだったろうか?まぁよい…そんな時刻には魔物や死霊だけではなく、人に巣くった化け物もうごめいている。幽霊よりも、鬼よりも、恐ろしいのは生きている人間の執念だ。
そして…ここにも…。
ここは帝東京医師大学、その夜間の大学校舎は静まり返る。
大正時代に建てられた病院裏の校舎、この敷地には建て増し続けられた校舎が所狭しと乱立して、まるで迷路のように繋がっている。蛍光灯で煌々と照らされていた明るい廊下は節電の為と、いつの間にか蛍光灯が減らされ昼間でも暗く、22時になれば全ての電気を消され、廊下を照らすのは等間隔に設置された非常口の緑色のぼやっとした光のみ、その廊下の天井には剥き出しの配管や配線が通されており、まるで廃墟の施設にでも迷い込んだかのようだ。
長い長い廊下の扉はどこも締め切られているため、窓もなく景色も見えない。廊下の突き当りの階段の窓から、うっすらと中庭の電灯の光が弱々しく差し込むくらいだ。
静まり返った夜の校舎達、その廊下にジワリジワリと何かが滲み出し、そして這い回る。
悪意、憎しみ、無念、怒り、その怨念がじわりじわりと広がっていく。
許さない…絶対に…決して…許しはしない…
…お前を…全てを…憎み呪い続けてやる。
パチリと突然目が覚める。
しかし寝起きという事もあり、頭が少しぼーっとしているが、なんだか良くない夢を見ていた事だけは覚えている。夢の内容は覚えていないのに、良くない夢だった事だけは覚えてるなんて不思議な感覚だ。
研究室の隣にあるミーティングスペース、と言ってもテーブルにキッチン、冷蔵庫に電子レンジ諸々、食器棚、そこにプロジェクター用のどでかいスクリーンに、PCと業務用プリンターを詰め込んだ何でも部屋みたいな場所だ。お茶室と呼ぶ人もいれば、ミーティングルームと呼び人もいるが、まぁ、何でもよい。
その部屋にある色褪せた苔のような微妙な色のソファーで、昨晩一休みしようと横になっていたら、うっかり寝落ちしてしまったらしい。卒論をやってる大学生や院生でもあるまいし、泊まり込みで実験をする気なぞなかったというのに思いがけず泊まってしまった。
ゆっくりと起き上がれば、クッション性の良くないソファーで寝てしまったことが災いして、凝り固まった体がポキポキという音を立てるのを「痛ててて…」と呟きながら体を起こす。はぁ…若い頃と違い少しずつ体にガタがき始めているのを実感する。
この大学の生化学教室に勤め始めて早…いや、思い出したくもない。女という生き物はある程度の年齢を過ぎれば、年齢も勤続年数も考えたくなるものである。
私、桜井与野(さくらいよの)だけではないはず!!そんなことを考えながら体を起こして、覚醒しきらない頭でとりあえず細胞の様子を見たら朝ごはん食べようと、思い切り伸びをすれば、研究室とは反対の部屋からガタガタ!バタン!という音が響く、時計を見ればまだ5時を過ぎたところだ。
まさかとは思うが!?とソファーからいそいそと起き上がり、ミーティング室と繋がっている研究室へと撤退してミーティング室の様子を窺えば、ほどなくしてこの研究室のボスである牧教授がマグカップを片手に出勤の札を上げにやってきた。シルバーグレイの髪を整髪料でビシッとオールバックに撫でつけて、これまたグレーのスーツを本日もカッチリ着こなしている。茶色い革靴も、顔が映るんじゃないですか?ってくらいピカピカだ。
それにしても、出勤いくらなんでも早すぎない!?って、そういえば以前、牧教授が毎朝4時に起きて、ジョギングしてから出勤してると言っていたのをふと思い出す。男性ならば朝の準備など簡単だろう、朝食だって奥さんが作ってるんだろうし、自宅が大学近くの教授ならこの時間に出勤していたとしてもおかしくはない。そう思っている間に教授がパチリと音を立てて出勤の札を上げる。
この研究室に所属すると札が作られ壁に掛けられる。上から教授、講師、准教授、助教授、ポスドク、研究技術員、研究生、大学院生、兼任講師などなどズラリと壁に名前が並んでいるのだ。
その名前の札の上にはプラスチックの出っ張りが付いており、それを上にスライドさせると青で出勤、下に下げれば赤で帰宅と手動で切り替え、一目で出勤しているか否かがわかるのだ。とはいえ、下げ忘れて帰る者も多いので割とあてにならない。
まぁ、私は帰宅してませんけどね…。一応、お休みの時は付箋で夏季休暇、病院、午後出勤など貼り付ける。
教授はインスタントのコーヒーメーカーの電源を入れると、お気に入りの白と金縁のマグカップをセットしスタートボタンを押す。ヴゥーンという機械音が鳴り響くと、ふと後ろを振り返り私が寝ていたソファーを一瞥すると、ぐしゃりとなっていたソファーカバーが気に入らなかったらしく、眉を顰めると投げやり気味な大きな溜息をつくと、ビシッと言う音を立ててカバーをしっかり伸ばしてソファーを整えた。
それを満足げに眺めると今度はテーブルに散らかった、飲み食いしたままになっていた菓子の袋やチューハイの缶を苛立たし気にゴミ箱に放り込み、パンフレットや大学内の回覧の用紙などを整えていく、因みに飲み食いしていたのは私ではない。
昨晩、助教授の松谷先生の下についている大学院生の高田先生が、実験のセンスがないにもほどがある。と、松谷先生にコテンパンに精神を打ちのめされ、やけ酒していたのである。
「俺はこんな事を言われる為にここに来たんじゃない。俺は医者だぞ、あいつはただの理学博士のくせに偉そうに…」と、悪態付きウジウジしている大学院生に
「まぁ、まぁ、松谷先生は誰が来てもそう言うから、そんなに気にしなさんな、言われたのは君だけじゃない。」
と励ましたものの、ヨレヨレとレモンサワー片手に「帰る」と、言って去って行ってしまったのである。まっ、歩いて3分の場所に家があるから問題ないだろ。と思い、後片付けは少し休んだらにしようと目をつぶったら、先も述べた通り朝だった次第である。
うちの教授は本当に几帳面だな…。それをドアの隙間から、家政婦は見た!のように覗き見た後、音をたてぬようにソロリソロリと研究室の奥から廊下に繋がる扉へと向かう。ここで捕まれば、研究は進んでいるのか?暇なら論文を書けだのなんだのと、お小言が目に見えている。
細胞の様子を見るのは朝食を食べた後にしよう。そう思い直して、音をたてないように慎重に研究室から出ると、まだガランとしている暗い廊下を足音を立てずに、素早く廊下を通り抜けて3階から1階へと駆け下りた。
1階のエントランスから中庭に出て、隣の建屋である2号館の1階にある自販機コーナーへと向かう。そこの自販機置き場には、飲み物から食べ物、お湯も注げるカップラーメンの自販機まで各種そろえられているのだ。しかし、さすがに朝からカップラーメンを食べようとは思えないので、チョコレートデニッシュパンを購入する。そこらで買うより割高だが、コンビニまで行くのもめんどくさい。ついでに缶コーヒーも購入すると、中庭のベンチに腰掛けて手入れの行き届いた木々を見上げる。
まだ日が上りきっていないので薄暗くはあるが、ようやく夏の暑さから解放されたこの季節は明け方は気温が下がり、白衣を着ていても少し肌寒い。朝独特の静けさと空気の冷たさ、そして徐々に明るくなっていく空、たまにはこう言う朝も悪くない。
そう思いながら、アルコール臭の漂うデニッシュパンにかぶりつく、長期保存を可能にするための処理なんだろうが、チョコの風味が消えてもったいない。そんな事を思いつつ、缶コーヒーを啜っているのだから風味も何もなかろうと、自分自身に突っ込みを入れる。
さすがに朝5時台では出勤してくる人はまだいない。貸し切り状態の中庭で朝食を食べるのは、なかなかどうして贅沢な気分だ。
もぐもぐと口を動かしていると、何やら2号館が慌ただしい。お行儀が悪いと思いつつ、パンを頬張りながら再び2号館のエントランス部分に戻り騒がしい方を見てみれば、エレベーター前に何故かストレッチャーが用意され動揺した様子の40代半ばの男性、紺色のスクラブに白衣を羽織り首に聴診器をひっかけているので医師であろう。そして、もう2人の女性は赤紫のスクラブを着ていて髪一本落ちていない、ぴっちりと髪をアップにしている。おそらく看護婦だろう。
誰か倒れたんだろうか?
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