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第2話 空即是色
しおりを挟む誰か倒れたんだろうか?
この2号館は医局棟と言われ病院の各科の医師達が常駐する医局や研究室、そしてペーパーワーク用の各医師のデスクがある病院所属の建物である。私がいた研究室は1号館にあり、研究棟と呼ばれ医学部や歯学部が入っている大学寄りの研究に特化した建物だ。
まぁ、学位を取りに医師が研究棟の研究室の所属になる事も珍しくはないが、同じ敷地内で同じ大学所属ではあるが普段は意外と関わり会いがないのである。そしてどちらの建物も大変に古い。だいたい5号館くらいまでが大正時代に作られた建物で、天井から水漏れ、地震で廊下の壁に亀裂なんて、日常茶飯事だ。
さすがに、老朽化の激しい建物で勉強させ地震で未来の医師の卵たちを潰すわけにはいかないので、5月頃から順次1号館の地下1階から耐震工事が開始され現在は2号館が工事中である。わが研究室のフロアが工事中だった時は、耳の聞こえにくいお年寄り並みに「あぁぁ???なんだって!?よく聞こえない??」と、怒鳴り合わなければならないほどの工事音だった。
道路工事が大学の廊下で行われていることを想像してほしい……響くなんてものじゃない。皆、耳栓をしたりイヤホンで音楽を聴きながら仕事をしていたが、電話番をしている秘書さんが一番の被害者だっただろう。
さて、そんな老朽化著しい2号館のエレベーターもホラー映画で出てきそうなほど古い。さすがに、自分の手で閉める引き戸タイプまではいかないが、本当に乗っても大丈夫?と言いたくなるような、所々錆と塗料の剥がれの目立つエレベーターだ。
そのエレベーターが6階から、順に降りてくる。下で待っている先ほどの医師は、落ち着かない様子で院内専用のPHSで何処かにひっきりなしに連絡している。
もしかしたら、この医師の知り合いなのだろうか?ようやく1階のランプが点灯すると、のんびりとした動きでエレベーターの扉が開くと、すぐさま男と思敷き頭が低い位置から出てくると思ったら、別の男性医師に横抱きにされていたようで、その男性の腕はダラリと力なく落ちており、抱えている男性は重さに耐えているのか顔を真っ赤にしながら、待ち構えていた医師や看護師の手を借りストレッチャーに男性を乗せる。
すると、もう一人がエレベーターの中から手を真っ赤に染め、血液がしたたり落ちるタオルを手にした白衣を着た医師が出てくる。その顔は焦燥感に満ち、蒼白であった。見ればポタリポタリと床に赤い血が垂れている。
思わず、パンを食べるのを止めて目を見開いてみてしまう。よく見れば、抱きかかえていた男性医師の白衣も血まみれだ。
「止血が間に合わない!!圧迫止血続けて!」
「ルート確保!!輸血早く!!」
そう医師達が叫び、抱きかかえていた医師がストレッチャーの上に乗り、腹部の部分を看護婦から受け取った大量のガーゼで抑える。おそらく、手を真っ赤に染めていた医師がエレベーター内で出血カ所を抑えていたのだろう。看護婦がすぐにその患者に点滴用の針を刺している。一人の看護婦が輸血パックを持ち上げている。
医師を乗せたまま、病院側の連絡通路へとストレッチャーを押して走って行く医師と看護婦達、すると奥の階段から1人の女性医師が駆け下りてくる。その人もスクラブの一部が赤く染まっている。それを見たストレッチャーを押していた男性医師の一人が叫ぶ
「教授に連絡は!?」
「今こちらに向かっているそうです。」
叫んだ医師が何事か悪態をついているようだったが、よく聞き取れなかった。
ストレッチャーの進んだ後には点々と滴り落ちている血液、その衝撃的すぎる光景に、馬鹿みたいにデニッシュパンを手に持ってそれを眺めていた野次馬の私、好奇心から覗き見てしまった罪悪感、見たからにはあの男性は無事なんだろうかという心配、そして、何もできずにただ茫然と立ち尽くしていただけの自分の虚しさ、何とも言えない気分になり、とぼとぼと中庭に戻る。
あの出血していた人の身に、いったい何が起きたのだろうか…殺人?自殺?事故?
だらりと落ちたあの腕と、滴り落ちる血が頭から離れない。
廊下の血液拭いた方が良いんだろうか…せめて何かできないかと、しょーもない考えが頭をよぎる。
清掃室の内線って何番だっけ?2号館のエントランスにも受付に内線がかけられるよう電話機が置かれている。そこからかけよう。電話番号表も置いてあったはず。
そう思って食べかけのパンを勢いよく頬張って、コーヒーで流し込みゴミ箱にそれらを捨てると、2号館へと戻れば、先ほどの看護婦達とは別の看護師と思しき男性がゴム手袋をして次亜塩素酸の匂いをさせているモップで床をいそいそと拭いていた。
あっ…どこまでも役立たずですみません……。
中途半端にお人好しな自分が憎らしい。優雅な朝食はどこへやら、溜息をついて、研究室に戻った。
大学の研究室の朝は遅い。
大体9時前後、遅い人は11時ごろに出勤してきたりする。私立大ならではの緩さ加減とでもいおうか、そうは言っても基礎研究に属する人間はたいていが研究馬鹿なので、朝遅く来ても終電で帰る。残業代もないし、休日出勤手当もないが日曜日も出勤するし、なんなら12月31日も1月1日も人が少ないから快適だー!とか言いながら研究室で実験をしていたりする。
日本で最も早くフレックスを導入していたのは大学の研究室であり、最もブラックな仕事でもあるかもしれない。
昨日撒いた細胞の様子を顕微鏡でチェックし、順調に育っているなー!ヨチヨチー可愛いねぇー頑張って増えましょうねー。なんて、脳内で赤ちゃん言葉で細胞に語り掛けていれば、研究室の扉がガチャリと開き、別に声に出していたわけではないのに驚きと羞恥心でビクリと肩が跳ねる。
「おはようございます。」
テンションの低い声で入ってきたのは、女性研究者であり助教授の西間先生だ。30代後半だというのにロードバイクで通勤しているアクティブ女性、まだ出勤して来たばかりのようで、手にはヘルメットと手袋、服装も黒のスパッツにピンクの短パンという格好だった。
ピンク!?しかも蛍光ピンク!?その短パンをガン見しながら「おはよー」と返せば
「あれ、何で電気ついてないの?」
「窓際だから、付けなくても十分明るいからついねー」
そう言いながら、顕微鏡を再度のぞき込んでいると
「電気くらいつけなさいよ、まったく」
そう苛立たし気に言って、研究室を見まわしこちらを一瞥するとさっさと出て行ってしまう。
相変わらず、愛想のない女だぜ西間よ…壁の時計を見れば9時ジャスト、私が作業している間にミーティング室の方からガサガサ聞こえていたから、秘書の五月さんが自分の昼ご飯を冷蔵庫にでも詰めていたのだろう。
そのうち五月さんが、研究室やら先生たちの部屋やらの電気をパチパチとつけて回り、各部屋のゴミを回収してくれる。
基礎研究室の秘書さんの業務は多岐にわたる。教授の予定の管理よりも、書類回り、研究室の物品の管理や授業に関する学事部とのやりとり、授業用の教室の確保やら、ミーティングルームの管理や勉強会の会計や案内、歓迎会送別会などなど、上げだしたらきりがない。
本当にいつもありがとうございます。と手を合わせる。ここの研究室の所属は40人、しかし常駐して仕事をしているのは20人に満たない。大体が兼任や院生なんかだ。
だというのに!!私がカウントしただけで本日は私と教授を含め、まだ4人しか来ていない。なんたる緩さよ!!そんなことを思っていると、廊下から聞き慣れた二人組の声が響く。
おそらく、三橋さんと山田さんだろう。二人は研究助手、いわゆる研究技術員だ。大学の所属の教員ともなれば、自分の実験だけに専念するわけにはいかない。なにせ教員だ。学生の授業を受け持たなければならない。日々の細々とした授業に、自分の研究室が受け持つ膨大な実習授業、その度に作る授業用スライド、もちろん一部使いまわしもするが…そして定期試験の作成に、大学院の授業も受け持つし、研究者である以上、自身の研究の成果も出さねば大学にはいられない。本当に、仕事は上げだしたらきりがない。
ともかく、緩い出勤時間にゆるっとやっているようで、ペーパーワーク的な雑用が非常に多いのだ。やりくりして自分の実験の予定を詰め込むが飛び石になるし、なんなら全くできない週もある。よって、その補助として、手を代わりに動かしてくれるのが研究技術員だ。時として、専門性の高い機械の専用オペレーターを務めたり、大学院生の実験の面倒まで見てくれている。ベテランともなると、替えの効かない研究技術を持っているので定年後もアルバイトとして雇われている人もいるくらいだ。
そんな二人の声が遠ざかり、声が消える。おそらく、自分たちのデスクに荷物を置きに行ったのだろう。
そこでふと思い出す。私…風呂入ってないな…と…、今日の予定を頭で思い浮かべるも、朝から前倒しで作業をしてしまったので急ぎでやる仕事はもうない。たしか、大学近くの銭湯が11時オープンだったはず。昼食前に風呂入ってくるかなと、細胞をインキュベーターに戻し無菌操作用のゴム手袋を外しながら考える。
大学というだけあって、下宿もあり学生も多く住んでいるこの辺は銭湯が多く残っている。運動部もあるので、学生たち御用達なのだ。私も昔からお世話になっている近所の春の湯はこの大学と同い年なのだそうだ。つまり、大正時代からの歴史ある風呂屋だ。
最近若者の間で流行っている昭和レトロの影響で、度々雑誌やSNSに載っているらしいが、まぁ、平日の昼間なら人も少ないだろう。大きなあくびを一つすると、自分もデスクに戻ってデータをまとめないとなーと研究室から出た。
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