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12 手袋を買いに
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自分はレクスの番ではないと再度確認してしまったエステルは落ち込んでいたが、そんなこととは知らないレクスは明るく声をかけてきた。
「じゃあ今日も掃除をしようか」
当たり前のように手伝ってくれるレクスは優しいが、その優しさが今は辛い。
エステルは泣きそうな気分だったが、「はい」と頷いて作業を再開させた。ドクを房の外に出して、一旦アストロと一緒にいてもらう。二頭で同じ房に入ると少し手狭だが、お互いちょっかいを出しながらも竜舎を壊さないように気を遣って遊んでいる。
すると掃除の途中でレクスが、フンを集めるためのスコップを持っているエステルの手をちらりと見た。薄っすらと薄桃色の鱗がある左手だ。
けれど見てはいけないものを見たかのようにさっと視線を外すと、遠慮がちに言う。
「エステルはどうして手袋をしていないんだ?」
「え?」
手袋? とエステルは一瞬疑問に思ったが、レクスが言っているのは掃除の時に使う手袋のことではなく、鱗を隠すための手袋のことだと気づいてこう返した。
「えっと、手袋は……あの、私のような混血はしなくても大丈夫かと思いまして……。鱗も目立たず未熟ですし……」
言いながら、エステルの頬が急激に赤く染まっていく。前は気にならなかったのに、学園に来てからというもの、同じ年頃の子たちがみんな左手に手袋をしているのを見て、自分だけしていないのが恥ずかしくなってきていた。
だから想い人であるレクスに改めて指摘されて、一気に羞恥心が襲ってきた。
エステルがもじもじしながらスコップの柄を握っていると、レクスは顔をそらしたまま呟く。
「……そうか」
その相槌を聞いてエステルはさらに恥ずかしくなり、全身に冷や汗をかいた。
(引かれた? 絶対に引かれたわよね!?)
竜人にとってこの鱗がどんな意味を持つのか、エステルはいまいち分かっていなかった。義両親が何も教えてくれなかったからだ。
けれど子供や老人は手袋をしていない人も多く、年頃になると隠し始めるということは知っている。色が濃くなると成熟の証だということも。
(鱗を出しているのって、もしかして全裸でいるのと同じなのかしら? だとしたら私は痴女のようなものなのでは!?)
恥ずかしさを通り越して血の気が引いてきた。赤かった顔がじわりと青くなっていく。
竜人にとってこの鱗はどういう意味を持つのか知りたかったが、レクスには聞けなかった。
今まで気にしていなかったが、レクスも手の甲だけを隠す形の黒い手袋をつけている。縁に銀糸で線が入っている上品なものだ。
そして結局その日エステルは、なるべく左手の甲をレクスの視界に入れないようにしながら掃除を終えたのだった。
(誰かに鱗のことを聞きたい)
エステルは翌日、左手を右手で隠して人目を気にしながら登校した。早めに学園に行って図書室で鱗のことを調べてみたが、エステルもすでに知っている情報しか載っていなかった。
(調べ方が悪いのかな。もっと色々な本を読んでみないと)
数冊、分厚い本を借りて教室に向かう。もうすぐ定期試験もあって勉強に一層力を入れないといけないので、少しずつしか読み進められないだろう。
人に聞けば簡単に答えは貰えるのかもしれないが、尋ねる相手がエステルにはいない。義家族に聞いても本当のことを教えてくれるか分からないし、レクスやリックに尋ねるのは気が引ける。
(こういう時、同性の友達がいれば……)
そんなふうに思いながら一日を過ごし、放課後がやって来た。定期試験前でも掃除係の役目が免除されることはないので、エステルはいつも通り竜舎に向かおうとした。
しかし机から立ち上がったところで、後ろからポンと肩を叩かれた。
「エステル」
高めの可愛らしい声に名前を呼ばれて、エステルは相手が誰か分からないまま振り返る。聞き馴染みのない声だった。
そして振り返って驚愕する。どうしてこの人がここに? と思って口があんぐり開いてしまった。
「わぁ、面白い顔」
エステルを呼んだ小柄な女子生徒は、愉快そうにクスクス笑っている。斜めにまっすぐ切られた前髪、綺麗に切りそろえられたボブヘア、派手な紫色の髪色、そして耳には小さな赤い石のピアス。黒いタイツは穿いているものの、制服のスカートは膝が見えるほど短い。
少し奇抜な見た目をしているが、顔立ちは童顔で猫のような大きな目が可愛らしく、体つきは華奢で女の子らしい。
「え、あの、あなたって……」
エステルは思わず相手を指差しそうになったが、とんでもない失礼になるとギリギリで行動には起こさなかった。
何故なら目の前にいるのはレクスの友人の女の子で、レクスの友人ということは十中八九高位貴族だからだ。
「こんにちは、エステル。私はリシェ・メルクル。レクスの友達よ」
「リシェ・メルクル……様」
メルクルという名字に聞き覚えがあったので、エステルは高速で脳内の引き出しを漁って答えを見つけ出す。
(メルクルって、きっとメルクル伯爵家の……)
義父が貴族相手に商売をしていることもあり、力のある貴族の名前はいくつか覚えている。伯爵家と言っても落ちぶれてそれほどお金は持っていなかったり、名前だけで社交界での影響力がなかったりという一族も中にはいるだろうが、メルクル家は違う。むしろ伯爵家の中でも権力を持っている方で、王族からの信頼も厚いと言われている。
教室にはまだ生徒が半分ほど残っていたが、その生徒たちも学園の有名人が二年の教室までやって来たことにびっくりしていた。レクスとその友人たちは三年一組にまとめられていて、他の教室にわざわざ出向くことはあまりないからだ。
「とりあえず外に出ましょう。馬車を待たせてあるの」
「え、馬車? え?」
混乱して挙動不審になっているエステルに鞄を持たせ、腕を引っ張って教室を出るリシェ。エステルは抵抗もできずについて行ったが、玄関を出る時になって慌てて言う。
「待ってください! 私、竜舎の掃除をしないといけなくて。レクス殿下もいらっしゃってるかもしれませんし……」
するとリシェは立ち止まり、鈴を転がしたような笑い声を上げた。
「レクスったら、本当に竜舎の掃除を手伝ってるの?」
「……えっと、はい」
「あー、おかしい。信じられない、本当」
リシェは笑い過ぎてお腹を抑えながら、涙まで流していた。
「すみません、私が悪いんです。殿下の優しさに甘えてしまって。手伝うと言ってくださっても断るべきだったのに、殿下に竜舎の掃除なんてさせてしまって……」
「あー、いいのいいの。謝らないで。むしろ楽しい話題をありがとう」
ひとしきり笑った後、涙を指で拭ってリシェは続ける。
「今日は竜舎の掃除は大丈夫よ。代わりの者を手伝いに行かせてあるから。それにレクスも今日は用事があって行けない予定だったし」
「そうなんですか?」
「そうよ。さぁ、じゃあ来て」
リシェは終始楽しそうにしながらエステルを外へ連れ出した。玄関の前にある待機場所には学園に通う生徒を迎えに来た馬車がいくつか停まっていたが、リシェが乗り場に立つと、一際豪華で目立つ馬車がこちらに近づいてきた。上半分が黒、下半分が深い紫色に塗られたおしゃれなデザインだ。
窓枠も植物を模したよくある意匠ではなく、四角を重ねたスタイリッシュなものだった。エステルにはよく分からなかったが、これが最新の流行なのかもしれない。
「乗って」
言われるままに馬車に乗る。身分差があり過ぎて遠慮することもできない。
ワインレッドの革張りのソファーは硬過ぎず柔らか過ぎず座り心地が良かったが、エステルは居心地が悪かった。正面に座ったリシェを恐る恐る見て言う。
「メ、メルクル様……」
「リシェと呼んで」
「……リシェ様、私に何のご用でしょうか?」
馬車がゆっくり走り出す。どこに向かうのかは分からないが、エステルと二人きりで話をするため適当に走っているだけかもしれない。きっとリシェはエステルがレクスにこれ以上近づかないよう忠告するつもりなのだろう。それ以外にリシェがエステルに声をかけてくる理由が思いつかない。
リシェはにっこり笑って楽しそうに答えた。
「実はね、レクスに頼まれたのよ。あなたの手袋を一緒に買いに行ってあげてくれって」
「レクス殿下が? 手袋を……」
エステルはぽかんとした後で顔を青くした。やはり手袋をしていないことははしたないことで、レクスは昨日エステルに引いていたのだろうか。
エステルは怖くなりながらリシェに尋ねる。
「あの、この左手の甲の鱗って竜人にとってどういうものなんでしょう? 手袋をしていないと、もしかしてとんでもない変態だと思われてしまうのでしょうか?」
エステルは半泣きでリシェにすがりつきそうになり、両手を中途半端に宙に持ち上げたまま指を震わせた。
リシェはそんなエステルの様子を笑いながら返す。
「大丈夫よ。変態ってほどではないから」
「……ということは変態に近い何かにはなってしまうということですか?」
あわあわオロオロしているエステルの左手を見て、リシェはこう言う。
「あなたの鱗は薄くてそれほど目立たないし、まぁ大丈夫よ。でも竜人にとってこの鱗は大切なものよ。特に年頃になるとね」
リシェは自分の左手を右手で包んで言う。彼女は手の甲だけを覆うデザインの、レースと細かな宝石がついた黒い手袋をしていた。
「手袋をしないということは、全裸で歩いているのと同じ……」
「えっ!?」
「とまではいかないから安心して」
「え?」
一度胸から飛び出そうになった心臓を押さえるエステル。
リシェは愉快そうに続ける。
「何かに例えるなら唇くらいの存在かな、鱗は。だから見せていても大きな問題はない。けど唇と違うのは、行く場所によっては隠していないとはしたないと思われることもあるってこと。例えば貴族の家に招かれた時とか。お城でのパーティーとか」
「はぁ」
エステルには縁のなさそうな場所だったが一応頷いておいた。
「普通、鱗は恋人以外には見せたり触らせたりしないものなのよ。逆に夜の仕事をしている女性はわざと手袋をつけずに鱗を見せびらかして、男性を誘うこともあるらしいわ。だからエステルみたいに若い女性が手袋をつけていないと、誘っているんだと勘違いされて危険なのよ」
「なるほど、そういう……」
エステルはあまり街に出かけたりはしない。勉強と家の掃除や手伝いで忙しいし、遊びに行くなんて義家族が許さないからだ。でもそのおかげで今まで手袋をしていなくても危険な目には遭わなかったのかもしれない。
もし何も知らないまま街へ出て、少し治安の悪い場所を通ってしまったりしていたら、と考えて怖くなった。
「その危険性を教えなかったなんて、エステルの養父母は親として失格ね」
レクスが話したのか、リシェもエステルの家庭事情を多少知っているようだった。
「でも今日手袋を買ってつければ大丈夫よ。親に何か言われたら学園の教師につけるよう指導されたって言えばいいし、それでも駄目なら私やレクスの名前を出せばいいしね」
「あ、ありがとうございます。でも、私……あの、お金を持っていなくて、だから手袋は買えないんです」
「そのことなら心配しないで」
リシェは自分のカバンをごそごそと漁ると、学園のエンブレムが印刷された長細い封筒を取り出してその中身を見せてきた。お札が五枚入っている。高いものでなければ、手袋が二つは買えるであろう金額だ。
エステルはそのお金を見た時、リシェかレクスのお金なのだろうと思った。憐れで惨めな自分に同情して、手袋を買うくらいのはした金、くれようとしているのだと。
「いえ、そんな」
エステルが施しを断ろうとすると、リシェはそのお金を封筒に戻して言う。
「これはエステルがこれまで竜舎の掃除をしてきた十日分のお給料よ」
「お給料?」
「そ。エステルがやる前はちゃんと人を雇ってその人にはお給料を出してたのに、あなたには出さないなんておかしいでしょ? だから学園に言って貰ってきたの。労働時間も少ないしエステルは仕事に慣れてなくて効率が悪いからって、要求した額より値下げはされちゃったけど」
目をパチクリさせているエステルに、リシェはお金の入った封筒を渡してきた。
「でもだから、これはあなたのお金よ」
「私のお金……」
エステルは慎重に封筒を受け取る。お小遣いなんて今まで貰ったことはないし、お使いでお金を触ったことすら数回しかない。エステルがおつりを誤魔化すのではと疑われ、お使いを頼まれたことはほとんどないからだ。
「私、自分のものを買うのって初めてで」
エステルは封筒を両手で丁寧に持ったまま、困っているような笑っているような顔をしてリシェを見た。ショッピングなんて、と不安と興奮が混ざって胸がドキドキしている。
そんなエステルの様子を見てリシェが言う。
「何か、雑草ばかり食べてきたウサギが初めて美味しいりんごを貰って戸惑っているみたいね」
「そうですか……?」
エステルにはよく分からない例えだったが、『このりんご貰っちゃっていいんですか……?』と震えながらも瞳をキラキラさせているウサギがリシェの目には映っていた。
「まぁ、全部私に任せてよ!」
「よ、よろしくお願いします」
どの店に行き、どんな手袋を買えばいいのか。何も分からないエステルは、頼もしいリシェに全てを任せることにしたのだった。
「じゃあ今日も掃除をしようか」
当たり前のように手伝ってくれるレクスは優しいが、その優しさが今は辛い。
エステルは泣きそうな気分だったが、「はい」と頷いて作業を再開させた。ドクを房の外に出して、一旦アストロと一緒にいてもらう。二頭で同じ房に入ると少し手狭だが、お互いちょっかいを出しながらも竜舎を壊さないように気を遣って遊んでいる。
すると掃除の途中でレクスが、フンを集めるためのスコップを持っているエステルの手をちらりと見た。薄っすらと薄桃色の鱗がある左手だ。
けれど見てはいけないものを見たかのようにさっと視線を外すと、遠慮がちに言う。
「エステルはどうして手袋をしていないんだ?」
「え?」
手袋? とエステルは一瞬疑問に思ったが、レクスが言っているのは掃除の時に使う手袋のことではなく、鱗を隠すための手袋のことだと気づいてこう返した。
「えっと、手袋は……あの、私のような混血はしなくても大丈夫かと思いまして……。鱗も目立たず未熟ですし……」
言いながら、エステルの頬が急激に赤く染まっていく。前は気にならなかったのに、学園に来てからというもの、同じ年頃の子たちがみんな左手に手袋をしているのを見て、自分だけしていないのが恥ずかしくなってきていた。
だから想い人であるレクスに改めて指摘されて、一気に羞恥心が襲ってきた。
エステルがもじもじしながらスコップの柄を握っていると、レクスは顔をそらしたまま呟く。
「……そうか」
その相槌を聞いてエステルはさらに恥ずかしくなり、全身に冷や汗をかいた。
(引かれた? 絶対に引かれたわよね!?)
竜人にとってこの鱗がどんな意味を持つのか、エステルはいまいち分かっていなかった。義両親が何も教えてくれなかったからだ。
けれど子供や老人は手袋をしていない人も多く、年頃になると隠し始めるということは知っている。色が濃くなると成熟の証だということも。
(鱗を出しているのって、もしかして全裸でいるのと同じなのかしら? だとしたら私は痴女のようなものなのでは!?)
恥ずかしさを通り越して血の気が引いてきた。赤かった顔がじわりと青くなっていく。
竜人にとってこの鱗はどういう意味を持つのか知りたかったが、レクスには聞けなかった。
今まで気にしていなかったが、レクスも手の甲だけを隠す形の黒い手袋をつけている。縁に銀糸で線が入っている上品なものだ。
そして結局その日エステルは、なるべく左手の甲をレクスの視界に入れないようにしながら掃除を終えたのだった。
(誰かに鱗のことを聞きたい)
エステルは翌日、左手を右手で隠して人目を気にしながら登校した。早めに学園に行って図書室で鱗のことを調べてみたが、エステルもすでに知っている情報しか載っていなかった。
(調べ方が悪いのかな。もっと色々な本を読んでみないと)
数冊、分厚い本を借りて教室に向かう。もうすぐ定期試験もあって勉強に一層力を入れないといけないので、少しずつしか読み進められないだろう。
人に聞けば簡単に答えは貰えるのかもしれないが、尋ねる相手がエステルにはいない。義家族に聞いても本当のことを教えてくれるか分からないし、レクスやリックに尋ねるのは気が引ける。
(こういう時、同性の友達がいれば……)
そんなふうに思いながら一日を過ごし、放課後がやって来た。定期試験前でも掃除係の役目が免除されることはないので、エステルはいつも通り竜舎に向かおうとした。
しかし机から立ち上がったところで、後ろからポンと肩を叩かれた。
「エステル」
高めの可愛らしい声に名前を呼ばれて、エステルは相手が誰か分からないまま振り返る。聞き馴染みのない声だった。
そして振り返って驚愕する。どうしてこの人がここに? と思って口があんぐり開いてしまった。
「わぁ、面白い顔」
エステルを呼んだ小柄な女子生徒は、愉快そうにクスクス笑っている。斜めにまっすぐ切られた前髪、綺麗に切りそろえられたボブヘア、派手な紫色の髪色、そして耳には小さな赤い石のピアス。黒いタイツは穿いているものの、制服のスカートは膝が見えるほど短い。
少し奇抜な見た目をしているが、顔立ちは童顔で猫のような大きな目が可愛らしく、体つきは華奢で女の子らしい。
「え、あの、あなたって……」
エステルは思わず相手を指差しそうになったが、とんでもない失礼になるとギリギリで行動には起こさなかった。
何故なら目の前にいるのはレクスの友人の女の子で、レクスの友人ということは十中八九高位貴族だからだ。
「こんにちは、エステル。私はリシェ・メルクル。レクスの友達よ」
「リシェ・メルクル……様」
メルクルという名字に聞き覚えがあったので、エステルは高速で脳内の引き出しを漁って答えを見つけ出す。
(メルクルって、きっとメルクル伯爵家の……)
義父が貴族相手に商売をしていることもあり、力のある貴族の名前はいくつか覚えている。伯爵家と言っても落ちぶれてそれほどお金は持っていなかったり、名前だけで社交界での影響力がなかったりという一族も中にはいるだろうが、メルクル家は違う。むしろ伯爵家の中でも権力を持っている方で、王族からの信頼も厚いと言われている。
教室にはまだ生徒が半分ほど残っていたが、その生徒たちも学園の有名人が二年の教室までやって来たことにびっくりしていた。レクスとその友人たちは三年一組にまとめられていて、他の教室にわざわざ出向くことはあまりないからだ。
「とりあえず外に出ましょう。馬車を待たせてあるの」
「え、馬車? え?」
混乱して挙動不審になっているエステルに鞄を持たせ、腕を引っ張って教室を出るリシェ。エステルは抵抗もできずについて行ったが、玄関を出る時になって慌てて言う。
「待ってください! 私、竜舎の掃除をしないといけなくて。レクス殿下もいらっしゃってるかもしれませんし……」
するとリシェは立ち止まり、鈴を転がしたような笑い声を上げた。
「レクスったら、本当に竜舎の掃除を手伝ってるの?」
「……えっと、はい」
「あー、おかしい。信じられない、本当」
リシェは笑い過ぎてお腹を抑えながら、涙まで流していた。
「すみません、私が悪いんです。殿下の優しさに甘えてしまって。手伝うと言ってくださっても断るべきだったのに、殿下に竜舎の掃除なんてさせてしまって……」
「あー、いいのいいの。謝らないで。むしろ楽しい話題をありがとう」
ひとしきり笑った後、涙を指で拭ってリシェは続ける。
「今日は竜舎の掃除は大丈夫よ。代わりの者を手伝いに行かせてあるから。それにレクスも今日は用事があって行けない予定だったし」
「そうなんですか?」
「そうよ。さぁ、じゃあ来て」
リシェは終始楽しそうにしながらエステルを外へ連れ出した。玄関の前にある待機場所には学園に通う生徒を迎えに来た馬車がいくつか停まっていたが、リシェが乗り場に立つと、一際豪華で目立つ馬車がこちらに近づいてきた。上半分が黒、下半分が深い紫色に塗られたおしゃれなデザインだ。
窓枠も植物を模したよくある意匠ではなく、四角を重ねたスタイリッシュなものだった。エステルにはよく分からなかったが、これが最新の流行なのかもしれない。
「乗って」
言われるままに馬車に乗る。身分差があり過ぎて遠慮することもできない。
ワインレッドの革張りのソファーは硬過ぎず柔らか過ぎず座り心地が良かったが、エステルは居心地が悪かった。正面に座ったリシェを恐る恐る見て言う。
「メ、メルクル様……」
「リシェと呼んで」
「……リシェ様、私に何のご用でしょうか?」
馬車がゆっくり走り出す。どこに向かうのかは分からないが、エステルと二人きりで話をするため適当に走っているだけかもしれない。きっとリシェはエステルがレクスにこれ以上近づかないよう忠告するつもりなのだろう。それ以外にリシェがエステルに声をかけてくる理由が思いつかない。
リシェはにっこり笑って楽しそうに答えた。
「実はね、レクスに頼まれたのよ。あなたの手袋を一緒に買いに行ってあげてくれって」
「レクス殿下が? 手袋を……」
エステルはぽかんとした後で顔を青くした。やはり手袋をしていないことははしたないことで、レクスは昨日エステルに引いていたのだろうか。
エステルは怖くなりながらリシェに尋ねる。
「あの、この左手の甲の鱗って竜人にとってどういうものなんでしょう? 手袋をしていないと、もしかしてとんでもない変態だと思われてしまうのでしょうか?」
エステルは半泣きでリシェにすがりつきそうになり、両手を中途半端に宙に持ち上げたまま指を震わせた。
リシェはそんなエステルの様子を笑いながら返す。
「大丈夫よ。変態ってほどではないから」
「……ということは変態に近い何かにはなってしまうということですか?」
あわあわオロオロしているエステルの左手を見て、リシェはこう言う。
「あなたの鱗は薄くてそれほど目立たないし、まぁ大丈夫よ。でも竜人にとってこの鱗は大切なものよ。特に年頃になるとね」
リシェは自分の左手を右手で包んで言う。彼女は手の甲だけを覆うデザインの、レースと細かな宝石がついた黒い手袋をしていた。
「手袋をしないということは、全裸で歩いているのと同じ……」
「えっ!?」
「とまではいかないから安心して」
「え?」
一度胸から飛び出そうになった心臓を押さえるエステル。
リシェは愉快そうに続ける。
「何かに例えるなら唇くらいの存在かな、鱗は。だから見せていても大きな問題はない。けど唇と違うのは、行く場所によっては隠していないとはしたないと思われることもあるってこと。例えば貴族の家に招かれた時とか。お城でのパーティーとか」
「はぁ」
エステルには縁のなさそうな場所だったが一応頷いておいた。
「普通、鱗は恋人以外には見せたり触らせたりしないものなのよ。逆に夜の仕事をしている女性はわざと手袋をつけずに鱗を見せびらかして、男性を誘うこともあるらしいわ。だからエステルみたいに若い女性が手袋をつけていないと、誘っているんだと勘違いされて危険なのよ」
「なるほど、そういう……」
エステルはあまり街に出かけたりはしない。勉強と家の掃除や手伝いで忙しいし、遊びに行くなんて義家族が許さないからだ。でもそのおかげで今まで手袋をしていなくても危険な目には遭わなかったのかもしれない。
もし何も知らないまま街へ出て、少し治安の悪い場所を通ってしまったりしていたら、と考えて怖くなった。
「その危険性を教えなかったなんて、エステルの養父母は親として失格ね」
レクスが話したのか、リシェもエステルの家庭事情を多少知っているようだった。
「でも今日手袋を買ってつければ大丈夫よ。親に何か言われたら学園の教師につけるよう指導されたって言えばいいし、それでも駄目なら私やレクスの名前を出せばいいしね」
「あ、ありがとうございます。でも、私……あの、お金を持っていなくて、だから手袋は買えないんです」
「そのことなら心配しないで」
リシェは自分のカバンをごそごそと漁ると、学園のエンブレムが印刷された長細い封筒を取り出してその中身を見せてきた。お札が五枚入っている。高いものでなければ、手袋が二つは買えるであろう金額だ。
エステルはそのお金を見た時、リシェかレクスのお金なのだろうと思った。憐れで惨めな自分に同情して、手袋を買うくらいのはした金、くれようとしているのだと。
「いえ、そんな」
エステルが施しを断ろうとすると、リシェはそのお金を封筒に戻して言う。
「これはエステルがこれまで竜舎の掃除をしてきた十日分のお給料よ」
「お給料?」
「そ。エステルがやる前はちゃんと人を雇ってその人にはお給料を出してたのに、あなたには出さないなんておかしいでしょ? だから学園に言って貰ってきたの。労働時間も少ないしエステルは仕事に慣れてなくて効率が悪いからって、要求した額より値下げはされちゃったけど」
目をパチクリさせているエステルに、リシェはお金の入った封筒を渡してきた。
「でもだから、これはあなたのお金よ」
「私のお金……」
エステルは慎重に封筒を受け取る。お小遣いなんて今まで貰ったことはないし、お使いでお金を触ったことすら数回しかない。エステルがおつりを誤魔化すのではと疑われ、お使いを頼まれたことはほとんどないからだ。
「私、自分のものを買うのって初めてで」
エステルは封筒を両手で丁寧に持ったまま、困っているような笑っているような顔をしてリシェを見た。ショッピングなんて、と不安と興奮が混ざって胸がドキドキしている。
そんなエステルの様子を見てリシェが言う。
「何か、雑草ばかり食べてきたウサギが初めて美味しいりんごを貰って戸惑っているみたいね」
「そうですか……?」
エステルにはよく分からない例えだったが、『このりんご貰っちゃっていいんですか……?』と震えながらも瞳をキラキラさせているウサギがリシェの目には映っていた。
「まぁ、全部私に任せてよ!」
「よ、よろしくお願いします」
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