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第2章
27 将来の夢
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放課後、エステルは掃除を手伝うために体操服に着替えて竜舎に向かう。
夏季休暇中もドラゴンたちの世話は必要なので毎日のように竜舎に通っていたが、そのおかげで寮の部屋に引きこもらずに済み、良い気分転換になっていた。
竜舎に着くと、調教師のリックが明るく出迎えてくれる。
「やぁ、エステルちゃん。今日も頼むよ」
若くて気さくなリックは、エステルにとって話しやすい存在だ。一緒にいても緊張しないのは、同じ庶民だからというのも大きいのかもしれない。
「リックさん、よろしくお願いします。アリシャたちは放牧中ですか?」
空っぽの竜舎を見てエステルは尋ねる。学園から少し離れた場所にある森で、ドラゴンたちは日中自由に過ごしていることが多いのだ。
リックはすでに掃除を始めながら答えた。
「そうだよ。スーリも放牧場までの距離なら何とか飛べるようになったし、今日は一緒に行ってる。きっと帰りは疲れて、アリシャに咥えられて戻ってくると思うけどね」
二ヶ月ほど前に卵から孵った赤ちゃんドラゴンのスーリは、確かに最近飛ぶのが上手になってきていた。
「ドラゴンたちがいないと掃除がしやすいですが、少し寂しいですね」
「エステルちゃんは放課後しかここにいないし、ドラゴンたちとなかなか会えない日が続くかもしれないね」
妊娠したアリシャが竜舎で休んでいたり、幼いスーリが放牧場に行かずにいたり、これまでは何だかんだドラゴンたちと触れ合えることが多かったのだ。
「みんなが元気ならそれでいいです」
にこっと笑ってエステルがそう答えた時、竜舎の入り口からレクスが入ってきた。
「あ、レクス殿下!」
「殿下、お久しぶりです」
エステルの表情がぱっと華やぐ。リックは頭を下げて挨拶し、レクスも彼に軽い頷きを返す。
毎日でないとはいえ、王子が竜舎の掃除を手伝ってくれるなんて普通はあり得ないことだ。
(それでも手伝いを続けてくださるのは、この作業を少しは楽しいと思っておられるからなのかしら。普段掃除なんて全くしない立場の人は、たまにする掃除が面白いのかも)
あるいは庶民の気持ちを理解するため、庶民と同じ行動を取ろうとしているのかもしれない。いずれにせよ高慢な人物であれば決してやらないであろう掃除を手伝ってくれているのだから、レクスの性格が良いのは間違いない。
「やぁ、エステル。今日も手伝うよ」
爽やかにそう言ったレクスは制服姿のままだ。竜舎の掃除を手伝う時、エステルはいつも体操服に着替えているが、レクスは大抵制服姿だった。靴だけは竜舎にある長靴に履き替えているが、制服が汚れたりするのは気にならないらしい。きっと毎日城の使用人が丁寧に洗ってくれるから、多少汚れたって構わないのだろう。もしくはレクスは制服を使い捨てて、毎日新品を着ていてもおかしくない。
そんなところでも王族と庶民の違いを感じながら、レクスと一緒に掃除を始める。リックはレクスといると緊張するらしく、洗濯をしに、ドラゴンたちの体を拭く布切れを抱えてそそくさと外へ出た。
竜舎の中に二人になると、レクスは手際良く床の藁を集めながらエステルに尋ねる。
「今日はスーリはどうした?」
「アリシャたちと一緒に放牧場に行っているようです」
「もう飛んでいけるようになったのか。ドラゴンの成長は早いね」
「よちよち歩きの期間は少なかったですね。けれどドラゴンの赤ちゃんの成長を間近で見られるなんて、めったにない経験ができました」
そこからドラゴンの話題が広がり、スーリがアリシャと同じ赤い鱗の色をしていることから、体色の遺伝についての話になった。
エステルは箒で細かなゴミを掃きながら言う。
「ドラゴンは両親どちらかの体色を受け継ぐ場合が一番多いようですね。祖父母どちらかの色を受け継ぐ確率はその次に高く、まれに両親の色が混ざった子供が生まれてくることもあるようです」
新しく知った知識を親に披露したがる子供のように、エステルは弾んだ声でレクスに話した。
「けれど金や銀の体色は劣性遺伝らしく、なかなか受け継がれないようですね。だからとても珍しいとか」
レクスは掃除の手を止め、そんなエステルをほほ笑ましそうに見て尋ねる。
「よく知っているね。授業でそこまで教えてくれた?」
「いえ、ドラゴン研究の第一人者が書いた本を夏季休暇中にいくつか読んだんです。時間がたくさんあったので、学園の授業で習う範囲外のものも含めて色々な本を読みました」
エステルは満足げに言った。誰にも邪魔されずにひたすら本を読んで勉強して、とても贅沢な時間だった。
「だが休暇中、図書室は閉まっていただろう?」
「いえ、週に一度は開いていたんですが、私の他にはほとんど本を借りに来る生徒はいなくて……。だから通常五冊までのところを特別に制限なく借りられました」
「それは良かったね」
「勉強もたくさんしましたし、今学期の試験でも必ず一位を取ります」
意気込んで言うと、レクスは不思議そうにこう返してきた。
「必ず? 特待生の条件ってそんなに厳しかったかな」
「あ、違うんです。もちろん勉強に励んでいるのは特待生でいるためでもあるのですが、試験でくらい一位を取らないと、私には他に何も自慢できるところがありませんから」
エステルが自分を卑下するようなことを言うと、レクスは少し目を見開いて驚いた。誰からも否定されることなく育ったであろうレクスからすると、エステルの発言はびっくりするほどネガティブに聞こえるだろう。
レクスは落ち着いて反論する。
「そんなことないよ。例えばそんなふうに努力できるのはすごいことだ。他にも君には良いところが色々ある。ええと……」
そこで何かを考えて、レクスはぴたりと口をつぐんだ。
エステルは慌てて言う。
「気を遣わせてしまってすみません。ありがとうございます」
「いや、違うんだ。たくさんあるから迷っただけで」
そう返されて、エステルは思わずふふっと笑ってしまった。良いところがたくさんあるなんてそんな訳ないのに、意外と嘘が下手なレクスが面白かったのだ。
一方、レクスは『たくさんあるから迷った』という言葉をエステルが素直に受け取ってくれたと思ったのか、安堵した様子で話題を変えて言う。
「ところでエステルは将来の夢とかあるの?」
「夢……。夢ですか?」
「そんなに頑張って勉強してるんだから、目指している未来があるのかと思って」
そう尋ねられて、エステルはしばらく考え込んでしまった。何か仕事に就いて一人で生きていくためにも勉強は大事だと思っていたけれど、具体的には考えていなかった。と言うか、今まではそんな先のことまで考えられなかったのだ。
「義家族から自由になることが夢のようなものでしたが、それが叶って、改めて将来を考えないといけないなと思います」
「まぁエステルは卒業までまだ一年以上あるし、ゆっくり考えればいい。就きたい仕事がなければないで……良いと思うし……」
「え?」
良いということはないと思うのだが、とエステルは戸惑った。いつもしっかりしていて真面目なレクスにしては返答が変だ。
レクスも自分で気づいたのか、こう続ける。
「いや、良いことはないか」
さっきも嘘が下手だったし、レクスも間違ったことを言ったりするのだとエステルは意外に思った。そしてそういうところを可愛いと思って胸がきゅんとする。
(私ったら、相手が殿下なら何でもきゅんとするんだから)
自分に呆れながらも、エステルはほほ笑んでしまうのを止められなかったのだった。
(夢かぁ……)
夜、ベッドに入ってからエステルは改めて考えた。胸の上で眠る体勢に入っているナトナを撫でながら、夢と聞くとつい想像してしまう『レクスと結婚した自分の姿』をまずは頭から追い出す。
(結婚はもちろん無理だけれど、せめて何らかの形で殿下のお側にいられたら……)
城で働く使用人なんていいかもしれないと考えてから、ブンブンと頭を左右に振る。
(お城の使用人だって簡単になれるわけじゃないんだから! 私みたいな出自のはっきりしない混血なんて雇ってもらえないわ)
今ではそれに『犯罪者の義理の娘』という評価もついてしまっているし、働くなら王侯貴族と全く関わらない場所でないと雇ってもらえないだろう。
(というか、そもそもレクス殿下のことは抜きにして将来を考えなくちゃ)
頭の中でほほ笑んでいるレクスにも何とかして出て行ってもらい、自分のやりたいことを掘り下げていく。
「勉強は得意だから先生なんていいかもしれない。貧しい子たちに勉強を教える先生」
ナトナに話しかけるように言うと、すでに体の力を抜いて眠りかけていたナトナはおざなりにしっぽを一度揺らした。
「誰でも本を借りられるような図書館を作るのも素敵。でもどちらも相手からお金は取れないから、どの道お金を稼ぐ別の方法を考えないと」
ナトナと一緒に依頼を受ける精霊使いになるという手もあるが、これはエステルが働くというよりナトナを働かせることになるので気は進まない。
「お城で働く文官になるのもいいなと思うけど、そんなの使用人以上に難しそうね」
文官ならば、この国にある差別的な制度や法律を変えることも不可能ではないかもしれない。混血に対する差別もなくなるような国を作れたら最高だと思う。
「さすがに目標を高くし過ぎかな。でも夢は持つだけなら自由だから」
レクスと付き合えたらだとかそういう妄想は考えるだけでも申し訳なく、脳内によぎるだけでも自分をおこがましく思ってしまうが、将来の仕事のことなら多少夢を見たっていいだろう。
翌日、学園でまたリシェがお昼を一緒にと誘ってくれたので、エステルはレクスたちと食堂のテーブルを囲んでいた。
「昨日の夜考えた私の将来の夢は、とりあえずそれくらいです」
バルトやルノーという関わりの薄い相手もいるため照れつつも、エステルは自分の夢をレクスに語った。
「一番良いのは、お城で文官として働きつつ、そのお給料で貧しい子に向けた図書館や学校を作ったり、空いた時間に先生をやることですが、それはちょっと高望みし過ぎですね。すみません」
エステルは冷や汗をかきながら小さな声で言う。自分の望みを言ってはいけない環境にずっといたので、こうやって大それた夢を語ると心臓がバクバクして謎の汗が出てくるのだ。
リシェは腕を組んで言う。
「謝る必要はないけど……それじゃ働き過ぎで倒れそうね。文官なんてそれだけでも忙しい仕事よ。たまにゾンビみたいに疲れ果てた感じの文官が城を歩いているもの」
文官のことも世間も何も知らない自分の考えが甘いことはエステルも分かっていたので、「そうですよね」と頷く。
ルイザも髪を耳にかけながら疑問を投げかけてきた。
「そもそも貧しい庶民に勉強が必要かしら? 結局は肉体労働をするのに、知識をつけても意味がないんじゃない?」
それは嫌味な言い方ではなかった。ルイザは生粋のお嬢様だから本当に庶民が勉強をする意味が分からないのだろう。
エステルはややうつむいて自信なさげに言う。
「例えば私のように混血の女性で体力がない者は、勉強できることが唯一の救いの道になることもあります。私以外の庶民でも、きっと勉強したいと思っている人はたくさんいるはずで……」
エステルは庶民にも知識は必要だと思っている。貴族やお金持ちだけが賢くなっていけば、貧富の差はますます広がるばかりだからだ。
けれどその考えを目の前にいる王族貴族の子女たちの前で披露する勇気はなく、エステルは結局口をつぐんだ。
すると、そんなエステルを見ながらレクスがこう言う。
「そうだね。エステルを見ていると、庶民の中にも学ぶ機会さえあれば優秀さを発揮できる者はいるのだろうと思う。国民が賢くなることを権力者は嫌がりがちだが、優れた人材が増えるのは良いことだ。国が豊かになる」
そして続けた。
「そもそもエステルが文官になれば、貧しい庶民向けの図書館や学校の建設を上司や有力者に進言できるんじゃないかな。必要だと認められれば国の援助でそれらを作れる」
「あ、なるほど。確かにそうですね」
「城で働く文官というのは、良い夢だと思うよ」
何故か安心したような、優しいほほ笑みを浮かべてレクスが言う。
夢を後押ししてもらったエステルもホッとして明るい声を出したのだった。
「ありがとうございます」
次期国王であるレクスが柔軟で良かった。こういう人物が国を治めれば、ドラクルスもきっと今より住みやすい国になっていくはずだと、エステルは将来が楽しみになった。
けれど一般的にはまだ色々なところで差別が起きていて、混血のエステルはその標的になることが多い。
実際、昼食後に教室に戻ったエステルの机の上には、乱雑にこう書かれた手紙が一枚置いてあった。
『消えろ、ディタロプ』
ディタロプとは、古代ドラクルス語で『劣った混血』というような意味の差別的な言葉だ。
エステルは数秒固まった後、恐る恐る顔を上げて教室内を見回した。きっと犯人がこちらを見てクスクス笑っているだろうと思ったが、教室にいる生徒たちはそれぞれ数人のグループになってお喋りしていて誰もエステルの方を気にしていない様子だ。
以前ディタロプという言葉をエステルに向かって言ってきた女子生徒二人は、まだ戻ってきていないのか姿が見えない。もしかしたら彼女たちが犯人なのではと思ったが違うのだろうか。
犯人が分からない以上、やめてと言うこともできないので、エステルは手紙をゴミ箱に捨てることしかできなかった。自分の席に座る時にもう一度教室を見渡したが、やはり誰もこちらを見ていない。そもそもクラスメイトが手紙を置いたのではないのかもしれない。
エステルは教科書を出して次の授業の準備をしながら、すっきりしない気持ち悪さを感じたのだった。
夏季休暇中もドラゴンたちの世話は必要なので毎日のように竜舎に通っていたが、そのおかげで寮の部屋に引きこもらずに済み、良い気分転換になっていた。
竜舎に着くと、調教師のリックが明るく出迎えてくれる。
「やぁ、エステルちゃん。今日も頼むよ」
若くて気さくなリックは、エステルにとって話しやすい存在だ。一緒にいても緊張しないのは、同じ庶民だからというのも大きいのかもしれない。
「リックさん、よろしくお願いします。アリシャたちは放牧中ですか?」
空っぽの竜舎を見てエステルは尋ねる。学園から少し離れた場所にある森で、ドラゴンたちは日中自由に過ごしていることが多いのだ。
リックはすでに掃除を始めながら答えた。
「そうだよ。スーリも放牧場までの距離なら何とか飛べるようになったし、今日は一緒に行ってる。きっと帰りは疲れて、アリシャに咥えられて戻ってくると思うけどね」
二ヶ月ほど前に卵から孵った赤ちゃんドラゴンのスーリは、確かに最近飛ぶのが上手になってきていた。
「ドラゴンたちがいないと掃除がしやすいですが、少し寂しいですね」
「エステルちゃんは放課後しかここにいないし、ドラゴンたちとなかなか会えない日が続くかもしれないね」
妊娠したアリシャが竜舎で休んでいたり、幼いスーリが放牧場に行かずにいたり、これまでは何だかんだドラゴンたちと触れ合えることが多かったのだ。
「みんなが元気ならそれでいいです」
にこっと笑ってエステルがそう答えた時、竜舎の入り口からレクスが入ってきた。
「あ、レクス殿下!」
「殿下、お久しぶりです」
エステルの表情がぱっと華やぐ。リックは頭を下げて挨拶し、レクスも彼に軽い頷きを返す。
毎日でないとはいえ、王子が竜舎の掃除を手伝ってくれるなんて普通はあり得ないことだ。
(それでも手伝いを続けてくださるのは、この作業を少しは楽しいと思っておられるからなのかしら。普段掃除なんて全くしない立場の人は、たまにする掃除が面白いのかも)
あるいは庶民の気持ちを理解するため、庶民と同じ行動を取ろうとしているのかもしれない。いずれにせよ高慢な人物であれば決してやらないであろう掃除を手伝ってくれているのだから、レクスの性格が良いのは間違いない。
「やぁ、エステル。今日も手伝うよ」
爽やかにそう言ったレクスは制服姿のままだ。竜舎の掃除を手伝う時、エステルはいつも体操服に着替えているが、レクスは大抵制服姿だった。靴だけは竜舎にある長靴に履き替えているが、制服が汚れたりするのは気にならないらしい。きっと毎日城の使用人が丁寧に洗ってくれるから、多少汚れたって構わないのだろう。もしくはレクスは制服を使い捨てて、毎日新品を着ていてもおかしくない。
そんなところでも王族と庶民の違いを感じながら、レクスと一緒に掃除を始める。リックはレクスといると緊張するらしく、洗濯をしに、ドラゴンたちの体を拭く布切れを抱えてそそくさと外へ出た。
竜舎の中に二人になると、レクスは手際良く床の藁を集めながらエステルに尋ねる。
「今日はスーリはどうした?」
「アリシャたちと一緒に放牧場に行っているようです」
「もう飛んでいけるようになったのか。ドラゴンの成長は早いね」
「よちよち歩きの期間は少なかったですね。けれどドラゴンの赤ちゃんの成長を間近で見られるなんて、めったにない経験ができました」
そこからドラゴンの話題が広がり、スーリがアリシャと同じ赤い鱗の色をしていることから、体色の遺伝についての話になった。
エステルは箒で細かなゴミを掃きながら言う。
「ドラゴンは両親どちらかの体色を受け継ぐ場合が一番多いようですね。祖父母どちらかの色を受け継ぐ確率はその次に高く、まれに両親の色が混ざった子供が生まれてくることもあるようです」
新しく知った知識を親に披露したがる子供のように、エステルは弾んだ声でレクスに話した。
「けれど金や銀の体色は劣性遺伝らしく、なかなか受け継がれないようですね。だからとても珍しいとか」
レクスは掃除の手を止め、そんなエステルをほほ笑ましそうに見て尋ねる。
「よく知っているね。授業でそこまで教えてくれた?」
「いえ、ドラゴン研究の第一人者が書いた本を夏季休暇中にいくつか読んだんです。時間がたくさんあったので、学園の授業で習う範囲外のものも含めて色々な本を読みました」
エステルは満足げに言った。誰にも邪魔されずにひたすら本を読んで勉強して、とても贅沢な時間だった。
「だが休暇中、図書室は閉まっていただろう?」
「いえ、週に一度は開いていたんですが、私の他にはほとんど本を借りに来る生徒はいなくて……。だから通常五冊までのところを特別に制限なく借りられました」
「それは良かったね」
「勉強もたくさんしましたし、今学期の試験でも必ず一位を取ります」
意気込んで言うと、レクスは不思議そうにこう返してきた。
「必ず? 特待生の条件ってそんなに厳しかったかな」
「あ、違うんです。もちろん勉強に励んでいるのは特待生でいるためでもあるのですが、試験でくらい一位を取らないと、私には他に何も自慢できるところがありませんから」
エステルが自分を卑下するようなことを言うと、レクスは少し目を見開いて驚いた。誰からも否定されることなく育ったであろうレクスからすると、エステルの発言はびっくりするほどネガティブに聞こえるだろう。
レクスは落ち着いて反論する。
「そんなことないよ。例えばそんなふうに努力できるのはすごいことだ。他にも君には良いところが色々ある。ええと……」
そこで何かを考えて、レクスはぴたりと口をつぐんだ。
エステルは慌てて言う。
「気を遣わせてしまってすみません。ありがとうございます」
「いや、違うんだ。たくさんあるから迷っただけで」
そう返されて、エステルは思わずふふっと笑ってしまった。良いところがたくさんあるなんてそんな訳ないのに、意外と嘘が下手なレクスが面白かったのだ。
一方、レクスは『たくさんあるから迷った』という言葉をエステルが素直に受け取ってくれたと思ったのか、安堵した様子で話題を変えて言う。
「ところでエステルは将来の夢とかあるの?」
「夢……。夢ですか?」
「そんなに頑張って勉強してるんだから、目指している未来があるのかと思って」
そう尋ねられて、エステルはしばらく考え込んでしまった。何か仕事に就いて一人で生きていくためにも勉強は大事だと思っていたけれど、具体的には考えていなかった。と言うか、今まではそんな先のことまで考えられなかったのだ。
「義家族から自由になることが夢のようなものでしたが、それが叶って、改めて将来を考えないといけないなと思います」
「まぁエステルは卒業までまだ一年以上あるし、ゆっくり考えればいい。就きたい仕事がなければないで……良いと思うし……」
「え?」
良いということはないと思うのだが、とエステルは戸惑った。いつもしっかりしていて真面目なレクスにしては返答が変だ。
レクスも自分で気づいたのか、こう続ける。
「いや、良いことはないか」
さっきも嘘が下手だったし、レクスも間違ったことを言ったりするのだとエステルは意外に思った。そしてそういうところを可愛いと思って胸がきゅんとする。
(私ったら、相手が殿下なら何でもきゅんとするんだから)
自分に呆れながらも、エステルはほほ笑んでしまうのを止められなかったのだった。
(夢かぁ……)
夜、ベッドに入ってからエステルは改めて考えた。胸の上で眠る体勢に入っているナトナを撫でながら、夢と聞くとつい想像してしまう『レクスと結婚した自分の姿』をまずは頭から追い出す。
(結婚はもちろん無理だけれど、せめて何らかの形で殿下のお側にいられたら……)
城で働く使用人なんていいかもしれないと考えてから、ブンブンと頭を左右に振る。
(お城の使用人だって簡単になれるわけじゃないんだから! 私みたいな出自のはっきりしない混血なんて雇ってもらえないわ)
今ではそれに『犯罪者の義理の娘』という評価もついてしまっているし、働くなら王侯貴族と全く関わらない場所でないと雇ってもらえないだろう。
(というか、そもそもレクス殿下のことは抜きにして将来を考えなくちゃ)
頭の中でほほ笑んでいるレクスにも何とかして出て行ってもらい、自分のやりたいことを掘り下げていく。
「勉強は得意だから先生なんていいかもしれない。貧しい子たちに勉強を教える先生」
ナトナに話しかけるように言うと、すでに体の力を抜いて眠りかけていたナトナはおざなりにしっぽを一度揺らした。
「誰でも本を借りられるような図書館を作るのも素敵。でもどちらも相手からお金は取れないから、どの道お金を稼ぐ別の方法を考えないと」
ナトナと一緒に依頼を受ける精霊使いになるという手もあるが、これはエステルが働くというよりナトナを働かせることになるので気は進まない。
「お城で働く文官になるのもいいなと思うけど、そんなの使用人以上に難しそうね」
文官ならば、この国にある差別的な制度や法律を変えることも不可能ではないかもしれない。混血に対する差別もなくなるような国を作れたら最高だと思う。
「さすがに目標を高くし過ぎかな。でも夢は持つだけなら自由だから」
レクスと付き合えたらだとかそういう妄想は考えるだけでも申し訳なく、脳内によぎるだけでも自分をおこがましく思ってしまうが、将来の仕事のことなら多少夢を見たっていいだろう。
翌日、学園でまたリシェがお昼を一緒にと誘ってくれたので、エステルはレクスたちと食堂のテーブルを囲んでいた。
「昨日の夜考えた私の将来の夢は、とりあえずそれくらいです」
バルトやルノーという関わりの薄い相手もいるため照れつつも、エステルは自分の夢をレクスに語った。
「一番良いのは、お城で文官として働きつつ、そのお給料で貧しい子に向けた図書館や学校を作ったり、空いた時間に先生をやることですが、それはちょっと高望みし過ぎですね。すみません」
エステルは冷や汗をかきながら小さな声で言う。自分の望みを言ってはいけない環境にずっといたので、こうやって大それた夢を語ると心臓がバクバクして謎の汗が出てくるのだ。
リシェは腕を組んで言う。
「謝る必要はないけど……それじゃ働き過ぎで倒れそうね。文官なんてそれだけでも忙しい仕事よ。たまにゾンビみたいに疲れ果てた感じの文官が城を歩いているもの」
文官のことも世間も何も知らない自分の考えが甘いことはエステルも分かっていたので、「そうですよね」と頷く。
ルイザも髪を耳にかけながら疑問を投げかけてきた。
「そもそも貧しい庶民に勉強が必要かしら? 結局は肉体労働をするのに、知識をつけても意味がないんじゃない?」
それは嫌味な言い方ではなかった。ルイザは生粋のお嬢様だから本当に庶民が勉強をする意味が分からないのだろう。
エステルはややうつむいて自信なさげに言う。
「例えば私のように混血の女性で体力がない者は、勉強できることが唯一の救いの道になることもあります。私以外の庶民でも、きっと勉強したいと思っている人はたくさんいるはずで……」
エステルは庶民にも知識は必要だと思っている。貴族やお金持ちだけが賢くなっていけば、貧富の差はますます広がるばかりだからだ。
けれどその考えを目の前にいる王族貴族の子女たちの前で披露する勇気はなく、エステルは結局口をつぐんだ。
すると、そんなエステルを見ながらレクスがこう言う。
「そうだね。エステルを見ていると、庶民の中にも学ぶ機会さえあれば優秀さを発揮できる者はいるのだろうと思う。国民が賢くなることを権力者は嫌がりがちだが、優れた人材が増えるのは良いことだ。国が豊かになる」
そして続けた。
「そもそもエステルが文官になれば、貧しい庶民向けの図書館や学校の建設を上司や有力者に進言できるんじゃないかな。必要だと認められれば国の援助でそれらを作れる」
「あ、なるほど。確かにそうですね」
「城で働く文官というのは、良い夢だと思うよ」
何故か安心したような、優しいほほ笑みを浮かべてレクスが言う。
夢を後押ししてもらったエステルもホッとして明るい声を出したのだった。
「ありがとうございます」
次期国王であるレクスが柔軟で良かった。こういう人物が国を治めれば、ドラクルスもきっと今より住みやすい国になっていくはずだと、エステルは将来が楽しみになった。
けれど一般的にはまだ色々なところで差別が起きていて、混血のエステルはその標的になることが多い。
実際、昼食後に教室に戻ったエステルの机の上には、乱雑にこう書かれた手紙が一枚置いてあった。
『消えろ、ディタロプ』
ディタロプとは、古代ドラクルス語で『劣った混血』というような意味の差別的な言葉だ。
エステルは数秒固まった後、恐る恐る顔を上げて教室内を見回した。きっと犯人がこちらを見てクスクス笑っているだろうと思ったが、教室にいる生徒たちはそれぞれ数人のグループになってお喋りしていて誰もエステルの方を気にしていない様子だ。
以前ディタロプという言葉をエステルに向かって言ってきた女子生徒二人は、まだ戻ってきていないのか姿が見えない。もしかしたら彼女たちが犯人なのではと思ったが違うのだろうか。
犯人が分からない以上、やめてと言うこともできないので、エステルは手紙をゴミ箱に捨てることしかできなかった。自分の席に座る時にもう一度教室を見渡したが、やはり誰もこちらを見ていない。そもそもクラスメイトが手紙を置いたのではないのかもしれない。
エステルは教科書を出して次の授業の準備をしながら、すっきりしない気持ち悪さを感じたのだった。
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