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船の中(1)

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 アイラは今まで恋をしたことがない。だから好きな相手と「もう会うな」と言われても納得できない気持ちや、悪い人間だと言われても信じられない気持ちは正確には理解できない。
 だから、昨晩忠告したからティアはもう大丈夫だと少し安心していた。
 しかしティアはファザドのことをそう簡単には諦められなかったようだ。

 今日はサチが王都からやって来る日なので、アイラとルルは遅めの朝食を取った後、出かける準備をしていた。

「今日はサチが来るから早めに起きてねって言っていたのに、結局のんびり寝ていたわね。もうすぐ十一時よ」

 カトリーヌはルルに帽子を被せてもらっているアイラを見ながら言う。

「さぁ、急いで。もしもサチが早めに出発していたり、移動が順調だったらそろそろ着いてもおかしくないわよ」
「分かった」

 と言いながらアイラは特別急ぐ様子はない。サチに出くわしても逃げ切れるだろうという自信があるからだ。
 しかしカトリーヌは心配らしい。

「気をつけてね、殿下。サチがポルティカにいる間はあまり街をうろつかないようにね。聖女様に見つからないでよ」
「分かってる」

 カトリーヌとアイラがそんな会話をしながら玄関に向かっていた時だった。女性の使用人がぱたぱたとこちらに駆けてくると、カトリーヌに頭を下げてからアイラに話しかける。

「お出かけのところ申し訳ありません。出発される前に、ティアからの伝言を伝えさせてください」
「伝言?」

 立ち止まったアイラに使用人は続ける。

「はい。ティアは今日は仕事が休みなので、先ほど出かけて行ったんです。それで彼女はまだ満足に字が書けないので、私に伝言を頼んできました。ええと、『彼は悪い人ではないと思うので、私がちゃんと話を聞いてきます。だから疑わないであげてください』と言っていました」
「ファザドに会いに行ったのか。話を聞いてきますって……」

 伝言を聞いたアイラは少し焦った。身投げ事件のことや、ファザドを犯人かもしれないと疑っていることを本人に話すべきではない。
 
「ティアを探しに行かないと」
「それなら、護衛にうちの騎士を連れて行ったらどう?」 

 カトリーヌはそう提案したが、アイラは断った。

「いや、騎士を連れて街を歩いてたら目立つ」
「もうすぐサチも来ますしね」

 ルルも頷く。ティアの安否を急いで確認したいのに、騎士を連れていたために注目を浴びて、サチや王都の騎士に見つかるという事態は防ぎたい。
 アイラは昨晩ティアが言っていた言葉を思い出して言う。

「デートする時は船で会っていたみたいだし、とりあえず港に行ってみる」
「たとえファザドが殺人犯だったとしても殿下の力があればまず殺されることはないでしょうけど、用心はしてね。私も行きたいけど、ここでサチを出迎えないと。彼女を屋敷に引きつけておいた方が、殿下は自由に動けていいでしょうし」
「うん、そうしてくれ」
 
 カトリーヌと別れて、アイラとルルは屋敷を出て行く。そしてティアやファザドがいないか街を見て回りながら港へと向かった。
 港に着くと、そこには碧い海が広がっていた。最近では身投げ事件の遺族たちがゴミを投げ捨てることもないので、海に近づいても嫌な臭いがするということはない。顔見知りになった遺族の中には、アイラが綺麗な海を見たがっていると知って、自分たちが捨てたゴミを回収してくれた者もいた。
 
「船はあっちの方にたくさん停泊してるな」

 小さな漁船が並んでいる場所もあるが、そことは離れたところに貿易船らしき大きな船がずらりと停まっているのだ。

「あの中のどれかがファザドの船だろう」
「港の作業員に聞いてみましょう」

 一見しただけではどれがファザドのものが分からないので、船を特定するために聞き込みをした。ファザドは毎年この国を訪れていること、それに異国の王子であることもあって、港の作業員にも彼を知っている人間はいた。

「マーディルの王子の船はあれだよ」
「ありがとう」

 教えられた船には確かにマーディルの国旗が掲げてある。

「でかい船だな」

 マーディルからポルティカまでの旅は順調に進んでも一か月以上はかかるだろうから、十分な食料や船員を乗せるためにも大きい船が必要なのだろう。

「ファザドの姿は見当たらないな。船員に聞いてみよう」

 船には、荷物を運び入れたり船の点検をしたりしている船員たちがたくさんいた。何だか忙しない雰囲気だ。
 彼らもファザドと同じく褐色の肌をしているので、皆マーディルの人間らしい。アイラやルルが声をかけても言葉が分からないようだった。ファザドはこの国の言葉を流暢に話していたが、船員たちはそこまでの教養はないのだろう。
 アイラの「ファザドはどこだ?」という簡単な質問なら理解できる者もいたのだが、それに何と答えているのか、今度はアイラたちが理解できなかった。
 この船員たちはおそらくポルティカで起きている身投げ事件のことも知らないだろう。街で事件のことが噂になっていても、彼らは話を理解できないから。

「うーん、何を言ってるか分からない。もういい、行け」

 アイラは身振り手振りで船員に『もういい』と伝え、船に返した。
 そしてコミュニケーションに疲れてため息をつきながら言う。

「ティアが来ているか、勝手に船に入って調べていいかなぁ?」
「それはちょっと……」

 アイラの強引な提案をルルが止めた、その時だった。

「何してるんです?」

 二人の背後にいつの間にかファザドが立っていた。深海のような彼の青い瞳がアイラを見下ろしている。
 アイラは一瞬びっくりしたが、気を取り直して異国の王子に言う。

「ちょうど良かった。ティアを探してるんだ。どこにいる? お前のところに行くと言って屋敷を出たんだ」
「ティアですか」

 ファザドはそこで自分の船を指さして続ける。

「ティアなら船の中にいます。会いに来たんですか? どうぞ」
「うん」

 言われるまま、船に掛かっている梯子を登ろうとするアイラをルルが止めた。

「船の中に入ったら簡単に逃げられませんし、ティアがそこにいる保証もないですよ」
「確かにティアがいる保証はないけど、船の中に入っても簡単に逃げることはできる。私の力があればな。それにティアが本当にいたら放っておくことはできない」

 ひそひそと話すアイラたちの会話が少し聞こえたのか、ファザドが笑う。

「ボク、何か警戒されてますか?」

 アイラたちがファザドを身投げ事件の犯人かもと疑っていること、ティアは話していないのだろうか? ファザドの様子はいつもと変わりなく友好的だった。
 けれどルルは一応ファザドに警告する。

「私やライアがここに来ていることはポルティカ伯爵も知っていますので。もしも私たちが帰らなければ、伯爵は船に人を寄越すでしょう」
「何をそんなに警戒しているのか分からないんですが……」

 ファザドは困惑ぎみに言う。本当に何も分かっていないし、犯人でもないのかもしれない。
 梯子を登って三人で船に乗り込んだところで、ファザドは会話を続ける。

「伯爵と言えば、今日は屋敷にこの国の聖女様が来ると聞きました。どれほど美しい女性なのか、ボクもお会いしてみたかったですね」
「聖女のことを知ってるのか?」
「もちろん。聖女様が革命を起こして、前国王たちが処刑されたのも知っていますよ。貿易相手の国のことくらいはちゃんと調べています。今は聖女様の人気が高くて、国王のアーサー陛下は影が薄いようですね」
「そうだな」

 サチは聖女と呼ばれているだけで何の役職にも就いていないが、国民の支持や人気があるので、今やそれなりの権力を持っている。
 しかし国政の大事な部分を担っているのは、アーサーや大臣たちだろう。彼らが地味だが大事な仕事をこなしていると想像がつくので、アイラは安心している。
 少なくともアイラの親や兄が支配していた時よりは、この国は良い状況にあるのだ。

「聖女様を迎えるとなると、伯爵もしばらくお忙しそうですね。ボクはそろそろここを発つので、挨拶をしておきたかったんですが」

 残念そうに言うファザドに、アイラが返す。

「もう国に帰るのか?」
「ええ。今年は忙しくて。結局ポルティカには二週間ほどしかいられなかったですね。来年はもう少しゆっくりしたいです」
「長い船旅を経てポルティカに着いたのに、また船上での生活に戻るのか。大変だな」
「仕事なので仕方ありません。船での生活は嫌いではないですし。辛いのは、女性がいないことくらいですよ」

 そんな会話をしながら船内の廊下を歩く。港に泊まっているからか、今はほとんど波の揺れは感じない。
 けれど大きな船とはいえ、さすがにカトリーヌの屋敷と比べると狭く、天井も低くて圧迫感がある。人とすれ違うにも、お互い少し体を避けなければいけなかった。

「で、ティアはどこにいる?」
「あそこの部屋ですよ。ボクの部屋なんです」

 ファザドはアイラとルルを船の中の一室に案内すると、にこやかな表情でドアを開けた。
 
「何だ?」

 ドアが開いた途端にむっとするような甘い香りが廊下に流れてきて、アイラは思わず部屋を覗き込んだ。机の上でお香が焚かれているので、あれが匂いの源らしい。
 そして船室の中にはティアと、他にも二人の女性がいて、床やソファーに座り込んでいるのが見えた。彼女たちはなぜか、何もない空を見つめて楽しげにくすくす笑っている。

「ティア?」

 アイラが不審に思った瞬間、後ろからドンと体を押された。アイラの背後にはルルがいたが、ルルごとファザドに押されたようだ。
 床に倒れこんだアイラは、同じく倒れこんできたルルに危うく潰されそうになったが、ルルが床に手をついて自分の体を支えたのでそれは免れた。
 ルルが慌てて言う。

「大丈夫ですか、アイラ?」
「膝がちょっと痛いけど大丈夫だ。ファザドの奴、私を押すなんて」

 腹を立てたアイラが振り返ると同時に、部屋のドアは勢いよく閉められ、鍵をかけられた。
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