冥闇異聞 ~淫蕩猫と盆暗は楽な方へ流れたい~

景之

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序章 闇を斬るもの

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 ただ体が動いていた。
 闇引きが、その爪に掛かった打ち掛けを翻し、男の視界を遮る。それごと上段から左へ凪ぎ払うとがきんと刀が鳴った。
 一人と一匹の間の羽織がふぁさりと垂れると、それは刀と爪に挟まれ揺れた。
 闇引きは喉の奥が詰まったかのように、くつくつとした嗤いを止めない。

「今日日の小僧っこは堪え性がないのォ。
 ま、ぬしが誰だろうと吾が敗することなぞありゃあせんよ」

「――お前は、殺した者を覚えているのか」

 空気が、緊張を孕んで膨張していく。それは殺気と言う名の怒気。

「ああん? つまりは復讐か。
 ハッ、主は今まで飲んだ酒を覚えておるのか?」

 男は噛み締めていた奥歯を弛め、にやりと笑った。

「そうか、安堵した」

 闇引きは肩を揺らしてなおも嗤う。

「吾は女の悲鳴と、生気満ちるまなこが絶望に堕ちるのを見るのが、堪らなく心地好い」

 大別すれば復讐だな、と男は頭の片隅で冷静に考えた。けれど短くない月日と酷烈な鍛錬で、母と共に居た記憶はおろか、母の顔も忘れてしまった。当時はあったのかもしれないが、今は復讐と胸を張れるほどの恨みは無い。
 なにせ養い親は、幼子相手でも斟酌しない化けものだ。人としての基本的な心だって育っているのかあやうい。

 だから闇引きに訊ねたのは、朔なりの、人として一種の通過儀礼みたいなもので、もしあの時の闇引きが現れたら自分はどう思うのかという興味だ。そしてこれから行うのは、この生き方を強いられた云わば八つ当たりであり娯楽だった。それだけの意味しかない。

 ぎりりと張り詰めた均衡を弾くと、薄い月明かりの下に、黒刀と血で黒く変色した鋼の爪が残光を引く応酬が始まった。瞬きの間に羽織は緋色の切片となって舞い散る。
 白壁にかわされた斬撃や爪痕が幾筋も走り、均された道は受けた一撃や踏込みの衝撃で無残に抉られていく。
 広くはない辻の、上下左右至るところで火花は走り、耳障りな音は辺りの静寂を打ち払って響く。

 永遠に続くかと思われた数瞬は、男が人の身のぶん分が悪かった。息が続かない。息を吸いながら力など込められない。
 嵐のような猛襲の中で斬りこみ、突き、払い、受け流す。刹那でも隙を見せる事は死に直結する。
 男の目が血走り、ぎりぎりと食い締めた口からついと血がこぼれた瞬間、刀を大きく弾かれ、空いた左肩にがぶりと喰い付かれた。咄嗟に柄で闇引きのこめかみを強かに殴り付ける。
 ぐうっと呻き声を漏らし牙から血を引いて闇引きが仰け反った。男は飛び退き大きく間合いを取って構え直す。
 たった数十秒で心ノ臓は早鐘を打ち鳴らし、頭はくらくらと霞を訴える。しかし、これほど男と拮抗した闇引きなど初めてだった。自然、口角が上がりながら、努めて息を調えた。
 闇引きも楽しそうにぺろりと赤く染まった口を舐めたと思えば、くわっと虚の眼を見開いた。

「これは!?」

 闇引きは硬くひび割れた手で、朔の血にまみれた口を拭う。ひびに血が伝い、それは沸騰したようにじゅうぅぅと音を立ててか細い蒸気を発した。

「ほ……! この血覚えておるぞ!
 主ァあの時の餓鬼か! 吾が生まれたのも主等のおかげぞ」

 空気が震えた。闇が迫る。

「……なにを」

 闇引きは男の微細な変化を感じ取り、裂けた口角を耳まで上げた。赤黒く熟れた長い舌を伸ばして、蒸気の上がる指を愛おしそうに舐め啜る。

「う~む、雑味がする主に比べ、あの女ァ最高だったなァ。
 甘露の如き血、嬌声の如きき声……」

「……黙れ」

「あんまり甘美なものだから、吾は主に頼み申したなァ?
 精々種を蒔いて、美味しい娘を作ってくれよと」

 闇が迫り視界が赤く染まる。
 逃げて、生きてと叱る声が木霊する。
 嫌だと縋ったその腕に突き飛ばされた。
 眸に沁みた赤い砂は、流しても流しても纏わりつく。
 置いて逝く母を許してと泣く声は闇に呑まれて――――

「作ったか? 差し出せば見逃してやるぞ、どうだ?」

「黙れぇえええ!!!」

 大きく振りかぶった力任せの一撃を、闇引きは難なく受け止めると、男に身を寄せ甘く囁いた。

「覚えておるか? あの女ァ主だけは助けてくれろと吾にすがってなァ? 吾が刺し貫いてやると、ひーひー悦んで気をっておったのよ」

 闇引きはどす黒い爪を誇示するように掲げて、高らかに嘲笑いながら濁った言葉を吐く。明らかに精彩を欠いた男を満足げに見やって突き飛ばすと、その禍々しい爪を繰り出した。
 一つ突き出されるたびに一つ肌が掻かれて、火花に代わり鮮血が飛び散る。
 飛沫は闇引きにも飛んで、全身から幾つもの細い蒸気を立ち上らせた。

「素晴らしき自己犠牲愛などではなく、ただの好き者だったのだろうよ、なあ?!」

 耳を塞ぎたくなる嘲罵の中、男は今や防戦一方で、それはただ、猫が鼠をいたぶる様に似ていた。

「朔!!!」

 戦いの場を炎が巻いた。
 炎の中心は、牛ほどもある巨大な黒い猫だった。猫は二股に分かれた尾で、男を白壁に叩きつける。
 闇引きは大地をも割くような咆哮をあげ、虚の目を覆い隠して悶えた。
 周囲に黒紬の木っ端が蛍火のように舞いあがり、千切れた帯が幾本もちろちろと火を灯して地を這っている。
 風が逆巻く刹那の空白に、地に落ちた紅玉の簪がしゃらんと響いた。

「貴様ァッ! お前の悲願は下種の戯れ言ざれごとに惑わされる程度ものか?!
 あの日から数多の異形に挑み、血反吐を吐いて力を欲したのは今この時の為ではなかったのか?!
 貴様は彼奴きゃつに負けるのではない! 己が心に負けるのだ!!」

 巨大な黒猫が大喝したその時、背後で怒気が膨れ上がった。

「人の気配ではないとは思ったが油断したわ。たかだか百年ながらえた程度の化け猫風情がやってくれる!」

 虚の目玉が怒りでたぎった。音も立てずに黒猫に猛進する。
 黒猫は、振り返り守りに徹しても、回避に駆けたとしても、月光に黒光りする鉤爪に切り裂かれる自分の姿ありさましか脳裏に浮かばなかった。
 とても間に合わない。覚悟を決めて闇引きを見据えた刹那、ぎいんと不協和音が弾けた。

「悪ぃな宵。ありがとよ。ちっと下がっててくれ。
 ――相手はまだ俺だ。来い!」

 刀を逆手に持ち、肘に添わせて重い爪を耐えた男は、肘を振り上げると同時に闇引きに蹴りを入れる。

 ――ああ、そうだ。自分は忘れてなどいなかったのだ。記憶の底に沈めていただけ。だからこんなにも心が疼く。
 ならば自分は何をやっているのか。宵の言う通りではないか。これまでの十数年が下種の一言で崩れ去るものでいいはずはない。
 今こそ認めよう。これは復讐だ。母の為などでは無く、己が己で在る為の――――

 神経が研ぎ澄まされていった。たかが半月の光が、真昼の天道のように男は感じられた。
 反対側の白壁まで吹っ飛んだ闇引きを追うように駆け出す。

「餓鬼が……! ただ種を撒いておればいいものをッ!」

 闇引きは白壁の残骸をものともせず、跳ね上がるように体勢を立て直して男に向かう。

 それはただ凄まじい速さですれ違っただけのように見えた。
 闇引きがすぐさま踵を返し二撃目に移る時には、男は闇引きの懐に入り心ノ臓を刺し貫いた。
 闇引きは、おん?と虚の眼を丸くする。
 男が刀の柄まで深々と突き立てると、ぽろんと頭がもげた。
 剛毛は固まり落ち、不快な汚濁音をさせ首が地に立つ。くつくつと首は嗤った。

「吾は闇なり。人の闇から生まれ、人を喰ろうて肥え太るもの。
 なァ小僧、吾は吾から生まれた。数多の吾が居り、直にまた吾も生まれ出ずる。その時はまたぞろ相見あいまみえよう……ぞ……」

 地に付いた先から、腐敗した沼の有様で首と体はぶすぶすと融けていった。
 残ったものは散り散りになった羽織と、腐臭のみ。刀を拭うにも及ばなかった。
 男は泣いていた。何故自分が涙を流しているのかはわからなかった。
 気が付けば闇は白々と明けはじめ、いつの間か座り込んでいた膝には小さな黒猫が居た。
 何するわけでもなく、ただじっと男の膝で丸まっていた。

「どういうことだと思う、宵?」

「闇引きの生態なぞ、わっちがわかるわけなかろ」

 そうだな、と男は軽く笑い黒猫を肩に乗せると、転がった簪を拾い上げる。

「行くか」

「何処に行くのじゃ」

「我が身気の向くまま。
 そこに闇引きがいたなら斬るだけだ」

「――ハンッ。ではまずは貴様のせいで布屑になった着物を見繕って貰おうか」

「へいへい」

 眦の露を払って見た朝日は美しく、風はかぐわしかった。




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