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疫病と政治
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他田王の第十四年春二月、蘇我馬子大臣は病を称して朝廷を休んだ。何の病とも伝えなかったが、瘡の病が国々に流行している時のことだから、大臣もとうとうあの病魔に襲われたのだなと、誰もが何となく信じたのだった。二月二十四日、卜部に病気の原因を問うと、
「父の時に祭りし仏神の心に祟れり」
という結果を得たとして、馬子は使者を立てて王に申し伝えた。仏を海に流したのが良くなかったというのである。そこで王は、大臣がもう死にそうなのだと考えて、最期の願いは叶えてやろうと、
「卜部の言によりて、前の大臣の祀りし仏に祭ることを聴す」
と命じようとした。こんなことを快く思わないのは、やはり物部守屋大連である。白々しい奴、仮病に違いない、と守屋は思っている。
「何故にか臣が父の計を用いたまわざるや。先帝よりわが王に至るまで、疫病の遍く発りて、民どもも絶ゆべきこと、蘇我臣が仏法を興し行うにこそよらざるや」
馬子の建てた仏殿や塔を燃やし、仏像を棄てるべしと訴えた。物部はただの貴族ではない、王室より古い氏柄、由緒正しい血筋を誇る守屋にこう凄まれては、馬子への同情に傾いていた朝議の雰囲気も変わる。先代からの政策の維持を原則としてきた王としても、
「理路灼然なれば、そのとおりにせよ」
と聴すほかない。王は家臣の三輪君逆を馬子の家に遣わして、朝議の決定を伝えた。瘡の病だと思われている馬子は、もちろん誰とも会わない。東漢池辺直氷田が逆を迎接する。逆は仏像の引き渡しを求めたが、氷田は馬子の病気を理由にして、日限の先送りを請う。馬子も炊屋姫の方から手を回して、守屋に反撃する第二、第三の策を用意していた。しかしその策は用いられる機会がなかった。ほどなくして王と守屋も相次いで瘡の病に罹り、そのために廃仏の命令は実行されないままになった。
他田王と、物部守屋大連、蘇我馬子大臣、政治を司る三人が三人とも病気になったので、朝臣たちは王妃炊屋姫尊に命令を仰いだ。炊屋姫はよく政事を代行し、国に混乱が起こらないようにした。王と守屋は、幸い死は免れたと思われたものの、まだ体が弱っている。守屋が朝議に復帰しないうちに、馬子は再び使者を立てて、
「臣の病は重態りて、今に至るだに癒えずにあり。仏の利益を蒙りたしや。さもあらねば救い治むべきことぞ難し」
と悲愴な申し出をした。王はついに馬子の請いを聴して、
「汝の一族のみ仏法を行うべし」
と詔した。それは病の床で、王が口ずから発したのだと伝えられた。それが、他田王の最後の命令になった。夏四月六日、王は容態が変わって、とうとう息を絶やした。炊屋姫は、殯の宮を、王の旧居に近い葛城の広瀬に設けると決めたが、準備は遅れた。王の死によって、人々は一層この疫病を恐れた。卿士大夫は家の戸を閉めて他人に会わなかったし、庶民も外出を控えて、稲や粟をむざと枯らす田も見られるほどだった。瘡の病による死を免れて治った者だけが、再び罹ることを恐れなかった。殯の宮はなんとか八月に設営なったとはいえ、葬喪の儀式は進まなかった。
寒い風が吹き始める季節に、人々の関心は空いた王座にあった。押坂王子は俊才として期待されているが、位を継ぐにはまだ若い。他田王の兄弟の誰かが、新たな倭王になるだろう。歳からいって順当なのは、炊屋姫と同じ堅塩媛の子、橘王子だが、伝えられるところによれば、病弱な身であるらしい。その点、次に考えられる穴穂部王子は健康だという。橘王子か、穴穂部王子かと、人々は家の戸の内で噂話をしている。それが判るのは、早くても来年の春になるだろうか。
当の穴穂部王子は、倭王になるのは自分に違いないと思っていた。穴穂部とと同じく小姉君に生まれた弟に、泊瀬部王子があって、顔はよく見間違えられるほど似ている。ただ性格は違っていて、弟は政治に関心を持たないのに対して、兄はいつか必ず王位に即きたいという野心を持っていた。穴穂部の知るところでは、橘は確かに体が弱い。それどころか、このごろ瘡の病に罹ったらしいとも、人づてにほのかに聞いている。家来をやって探らせてみると、どうもそれは確かだという。穴穂部の王位への欲望は弥が上にも高まるのであった。
ところが穴穂部の期待は、思いがけず早くに裏切られた。九月、炊屋姫は独断で、倭王の印綬を橘王子に与えてしまった。もっとも流行り病のために、朝議が開かれることさえ希になっていたから、異議が申し出されることもなかった。守屋もまだ、病後の療養として、家にこもっているし、卿士大夫はみな感染を恐れて、互いの屋敷を訪れることもしない。まあ歳の順だから悪いことはないではないか、と人々がささやくなかで、穴穂部にはどうするという手とてない。橘王子は、磐余の池辺宮で王位に即いた。穴穂部にとっては皮肉なことに、橘王の正妃は、同腹の姉の間人王女である。不満を募らせないということはない。
「父の時に祭りし仏神の心に祟れり」
という結果を得たとして、馬子は使者を立てて王に申し伝えた。仏を海に流したのが良くなかったというのである。そこで王は、大臣がもう死にそうなのだと考えて、最期の願いは叶えてやろうと、
「卜部の言によりて、前の大臣の祀りし仏に祭ることを聴す」
と命じようとした。こんなことを快く思わないのは、やはり物部守屋大連である。白々しい奴、仮病に違いない、と守屋は思っている。
「何故にか臣が父の計を用いたまわざるや。先帝よりわが王に至るまで、疫病の遍く発りて、民どもも絶ゆべきこと、蘇我臣が仏法を興し行うにこそよらざるや」
馬子の建てた仏殿や塔を燃やし、仏像を棄てるべしと訴えた。物部はただの貴族ではない、王室より古い氏柄、由緒正しい血筋を誇る守屋にこう凄まれては、馬子への同情に傾いていた朝議の雰囲気も変わる。先代からの政策の維持を原則としてきた王としても、
「理路灼然なれば、そのとおりにせよ」
と聴すほかない。王は家臣の三輪君逆を馬子の家に遣わして、朝議の決定を伝えた。瘡の病だと思われている馬子は、もちろん誰とも会わない。東漢池辺直氷田が逆を迎接する。逆は仏像の引き渡しを求めたが、氷田は馬子の病気を理由にして、日限の先送りを請う。馬子も炊屋姫の方から手を回して、守屋に反撃する第二、第三の策を用意していた。しかしその策は用いられる機会がなかった。ほどなくして王と守屋も相次いで瘡の病に罹り、そのために廃仏の命令は実行されないままになった。
他田王と、物部守屋大連、蘇我馬子大臣、政治を司る三人が三人とも病気になったので、朝臣たちは王妃炊屋姫尊に命令を仰いだ。炊屋姫はよく政事を代行し、国に混乱が起こらないようにした。王と守屋は、幸い死は免れたと思われたものの、まだ体が弱っている。守屋が朝議に復帰しないうちに、馬子は再び使者を立てて、
「臣の病は重態りて、今に至るだに癒えずにあり。仏の利益を蒙りたしや。さもあらねば救い治むべきことぞ難し」
と悲愴な申し出をした。王はついに馬子の請いを聴して、
「汝の一族のみ仏法を行うべし」
と詔した。それは病の床で、王が口ずから発したのだと伝えられた。それが、他田王の最後の命令になった。夏四月六日、王は容態が変わって、とうとう息を絶やした。炊屋姫は、殯の宮を、王の旧居に近い葛城の広瀬に設けると決めたが、準備は遅れた。王の死によって、人々は一層この疫病を恐れた。卿士大夫は家の戸を閉めて他人に会わなかったし、庶民も外出を控えて、稲や粟をむざと枯らす田も見られるほどだった。瘡の病による死を免れて治った者だけが、再び罹ることを恐れなかった。殯の宮はなんとか八月に設営なったとはいえ、葬喪の儀式は進まなかった。
寒い風が吹き始める季節に、人々の関心は空いた王座にあった。押坂王子は俊才として期待されているが、位を継ぐにはまだ若い。他田王の兄弟の誰かが、新たな倭王になるだろう。歳からいって順当なのは、炊屋姫と同じ堅塩媛の子、橘王子だが、伝えられるところによれば、病弱な身であるらしい。その点、次に考えられる穴穂部王子は健康だという。橘王子か、穴穂部王子かと、人々は家の戸の内で噂話をしている。それが判るのは、早くても来年の春になるだろうか。
当の穴穂部王子は、倭王になるのは自分に違いないと思っていた。穴穂部とと同じく小姉君に生まれた弟に、泊瀬部王子があって、顔はよく見間違えられるほど似ている。ただ性格は違っていて、弟は政治に関心を持たないのに対して、兄はいつか必ず王位に即きたいという野心を持っていた。穴穂部の知るところでは、橘は確かに体が弱い。それどころか、このごろ瘡の病に罹ったらしいとも、人づてにほのかに聞いている。家来をやって探らせてみると、どうもそれは確かだという。穴穂部の王位への欲望は弥が上にも高まるのであった。
ところが穴穂部の期待は、思いがけず早くに裏切られた。九月、炊屋姫は独断で、倭王の印綬を橘王子に与えてしまった。もっとも流行り病のために、朝議が開かれることさえ希になっていたから、異議が申し出されることもなかった。守屋もまだ、病後の療養として、家にこもっているし、卿士大夫はみな感染を恐れて、互いの屋敷を訪れることもしない。まあ歳の順だから悪いことはないではないか、と人々がささやくなかで、穴穂部にはどうするという手とてない。橘王子は、磐余の池辺宮で王位に即いた。穴穂部にとっては皮肉なことに、橘王の正妃は、同腹の姉の間人王女である。不満を募らせないということはない。
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