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死生の巻
嵐の神の訪れ
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殯が続く間、臺与はずっと棺の側にいて、そこから離れたがらない。陵墓の近くには、やがて墓守り役の番人を住まわせる為に、小さい集落が作られつつある。難斗米はそこの建物のいくつかを前倒しで整えて、臺与が邑に還らずに過ごせる様にしてやった。大勢の侍女も付き従っている。
姫氏王の墓がほぼ完成すると、必要以上に多くの人員が動かされて、ゆっくりと造営を締め括る作業に掛かる。それはこの墓造りが、如何に盛大に行われたかを世に知らしめる、一種の儀式である。難斗米はその監督を都市牛利に任せて、邪州水を下る。川下からは狗奴王が上って来る。東の岸に、山から抜いた枝の多い常緑樹の、上の枝には鏡を懸け、下の枝には玉の飾りを架けて、歓迎の標識として立てる。狗奴王は家来を率いて着く。対馬卑狗や一支卑狗といった者たちは、早くから待ち構えていたが、しかし狗奴王は逸早く胡麻を擂ろうとする人々の間をすり抜けて、立礼の姿勢で構えている難斗米の前に来る。
「ああ斗米よ、良い酒だった。よく眠れて、旅の疲れも取れたわい」
難斗米は恭々しく再拝して、狗奴王を邪馬臺の王宮に迎え入れる。狗奴王が宮殿を視る面に、微妙な筋肉の動きを張政は認めた。懐かしさ、敬い、畏れ。それは複雑に入り乱れた感情を表している。殿舎の中を一通り見て回ると、やっと安堵した様に呟く。
「ああ、本当にいない……」
狗奴王は殿上で軒に臨んで座り、阿佐と迦佐が脇を固める。供回りの女官八人はその後ろに控え、近衛兵二十人は縁の前を護る。難斗米たちは、庭で土に膝を著けて男王と向き合う。そこで狗奴王の表情が、またさっと変わる。それは瞋りである。
「弥馬獲支」
狗奴王は、女性の名を呼んだ。この王宮に入れば、女王に仕えた侍女の姿を必ず見る。その総数は千人とも称されたが、実数にしても三百人は下らない。その内の半分が臺与に付いていたとしても、まだ多くの者がここに出仕している。弥馬獲支は、侍女の中でも最も位の高い一人で、かつてはいつも女王の脇に控えていた。
「知っているだろう。――おれの妻に毒を盛ったのは誰じゃ」
弥馬獲支は眉も動かさない。
「さて。お妃さまが亡くなられたのは難産の苦しみ。あの時も申し上げました」
「いや、いや、うそだ、うそだ! おれは知っているんだぞ」
酒紅の頬が、もっと赤くなる。
「ここの女どもを集めろ! 全員に問い詰めてやるから」
「それでどうなさいます」
「命には命で報わせてやろう」
ふっと弥馬獲支は声にならない笑みを浮かべる。
「徒事でございましょう」
そこで阿佐が口を挟む。
「王よ、回りくどいことをなさいますな」
「むむ、では何とする」
「千人皆殺しにしてしまいなされ」
「みんな、殺せと言うのか」
はっと狗奴王の血の気がに引く。
「どうせ悪い女ばかり、王に歓んで仕えはしますまい」
「いやいや、そこまでしては――」
と狗奴王が逡巡するのを見て、迦佐が口を開く。
「王よ、それよりまずは取るべき物をお取り下さい。女などいつでも殺せましょう」
「いやそれはいかん。耐えがたいことだ」
阿佐がまた奨める。
「ではみんな殺すしかありますまい」
「いいや、それもならん……」
憎しみ、恨みと、血を見る事への恐怖、矛盾した感情がその腹の底で渦を巻いている。
「そうだ、少しだけ待ってやろうではないか。よし斗米よ」
「はい」
「姉上の埋葬はいつになる」
「お望みならこの後すぐにでもいたしましょう」
「もうすっかり準備はできておるのか。さすがの手際よ。まあ今日では遅くなろう。では明日にしよう。さて」
弥馬獲支を睨み付けて、また恐い相に変わる。
「いいか、明日の陽が落ちるまでに、毒を盛った女が判ればその一人を殺す。もし誰も白状しなければ、一人残らず殺して墓の溝に捨ててやろう」
弥馬獲支は穏やかな低い声で、
「よろしゅうございます」
と言うと、徐かに場を去る。狗奴王の方は、ほーっと息を吐いて、怒らせていた肩を下ろす。阿佐と迦佐は狗奴王に何事かを促す。難斗米はちらと張政に目を送る。張政はうなずいて見せる。狗奴王は言いなずむ。二人の側近は重ねて促す。狗奴王は乃く言う。
「斗米よ、あの金印は持っているのか」
「将死の際には、確かに亡王の手ずからお預かりしました」
「では、それをここに出してくれるだろうな」
「恐れながら、もう臣は持っておりません」
えっ、何と言われる、と阿佐と迦佐。
そこで張政が立ち上がる。
「印綬は天子より賜るもの。天子のお聴しを得なくては相続はできぬ」
張政は胸に手を当てる。懐には紫色の小袋が入っている。
「何だ貴様、控えよ」
「狗奴王の御前であるぞ」
と阿佐と迦佐が言うと、
「そちらこそお控えなさい。このお方は勅使です」
と難斗米が返す。狗奴王は、
「ああ、そうか」
と遠い物を見る様な目をする。
「斗米は洛陽とやらいう所に行ってきたのだったな。それでそんな立派な男になったのだ。おれがここに住んでいた頃とは違っているものなあ」
阿佐と迦佐はまずそうな皺を寄せる。
姫氏王の墓がほぼ完成すると、必要以上に多くの人員が動かされて、ゆっくりと造営を締め括る作業に掛かる。それはこの墓造りが、如何に盛大に行われたかを世に知らしめる、一種の儀式である。難斗米はその監督を都市牛利に任せて、邪州水を下る。川下からは狗奴王が上って来る。東の岸に、山から抜いた枝の多い常緑樹の、上の枝には鏡を懸け、下の枝には玉の飾りを架けて、歓迎の標識として立てる。狗奴王は家来を率いて着く。対馬卑狗や一支卑狗といった者たちは、早くから待ち構えていたが、しかし狗奴王は逸早く胡麻を擂ろうとする人々の間をすり抜けて、立礼の姿勢で構えている難斗米の前に来る。
「ああ斗米よ、良い酒だった。よく眠れて、旅の疲れも取れたわい」
難斗米は恭々しく再拝して、狗奴王を邪馬臺の王宮に迎え入れる。狗奴王が宮殿を視る面に、微妙な筋肉の動きを張政は認めた。懐かしさ、敬い、畏れ。それは複雑に入り乱れた感情を表している。殿舎の中を一通り見て回ると、やっと安堵した様に呟く。
「ああ、本当にいない……」
狗奴王は殿上で軒に臨んで座り、阿佐と迦佐が脇を固める。供回りの女官八人はその後ろに控え、近衛兵二十人は縁の前を護る。難斗米たちは、庭で土に膝を著けて男王と向き合う。そこで狗奴王の表情が、またさっと変わる。それは瞋りである。
「弥馬獲支」
狗奴王は、女性の名を呼んだ。この王宮に入れば、女王に仕えた侍女の姿を必ず見る。その総数は千人とも称されたが、実数にしても三百人は下らない。その内の半分が臺与に付いていたとしても、まだ多くの者がここに出仕している。弥馬獲支は、侍女の中でも最も位の高い一人で、かつてはいつも女王の脇に控えていた。
「知っているだろう。――おれの妻に毒を盛ったのは誰じゃ」
弥馬獲支は眉も動かさない。
「さて。お妃さまが亡くなられたのは難産の苦しみ。あの時も申し上げました」
「いや、いや、うそだ、うそだ! おれは知っているんだぞ」
酒紅の頬が、もっと赤くなる。
「ここの女どもを集めろ! 全員に問い詰めてやるから」
「それでどうなさいます」
「命には命で報わせてやろう」
ふっと弥馬獲支は声にならない笑みを浮かべる。
「徒事でございましょう」
そこで阿佐が口を挟む。
「王よ、回りくどいことをなさいますな」
「むむ、では何とする」
「千人皆殺しにしてしまいなされ」
「みんな、殺せと言うのか」
はっと狗奴王の血の気がに引く。
「どうせ悪い女ばかり、王に歓んで仕えはしますまい」
「いやいや、そこまでしては――」
と狗奴王が逡巡するのを見て、迦佐が口を開く。
「王よ、それよりまずは取るべき物をお取り下さい。女などいつでも殺せましょう」
「いやそれはいかん。耐えがたいことだ」
阿佐がまた奨める。
「ではみんな殺すしかありますまい」
「いいや、それもならん……」
憎しみ、恨みと、血を見る事への恐怖、矛盾した感情がその腹の底で渦を巻いている。
「そうだ、少しだけ待ってやろうではないか。よし斗米よ」
「はい」
「姉上の埋葬はいつになる」
「お望みならこの後すぐにでもいたしましょう」
「もうすっかり準備はできておるのか。さすがの手際よ。まあ今日では遅くなろう。では明日にしよう。さて」
弥馬獲支を睨み付けて、また恐い相に変わる。
「いいか、明日の陽が落ちるまでに、毒を盛った女が判ればその一人を殺す。もし誰も白状しなければ、一人残らず殺して墓の溝に捨ててやろう」
弥馬獲支は穏やかな低い声で、
「よろしゅうございます」
と言うと、徐かに場を去る。狗奴王の方は、ほーっと息を吐いて、怒らせていた肩を下ろす。阿佐と迦佐は狗奴王に何事かを促す。難斗米はちらと張政に目を送る。張政はうなずいて見せる。狗奴王は言いなずむ。二人の側近は重ねて促す。狗奴王は乃く言う。
「斗米よ、あの金印は持っているのか」
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「では、それをここに出してくれるだろうな」
「恐れながら、もう臣は持っておりません」
えっ、何と言われる、と阿佐と迦佐。
そこで張政が立ち上がる。
「印綬は天子より賜るもの。天子のお聴しを得なくては相続はできぬ」
張政は胸に手を当てる。懐には紫色の小袋が入っている。
「何だ貴様、控えよ」
「狗奴王の御前であるぞ」
と阿佐と迦佐が言うと、
「そちらこそお控えなさい。このお方は勅使です」
と難斗米が返す。狗奴王は、
「ああ、そうか」
と遠い物を見る様な目をする。
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