文字の大きさ
大
中
小
34 / 41
死生の巻
酒紅の相
虎の眼。獲物を狙う。鋭い輝き。闇を裂く光。恐ろしい程に澄んだ瞳……。それはもうこの世には無い。張政は、夢に姫氏王の眼神を感じる。久しぶりの邪馬臺で迎える朝。外では早起きの鳥が朝の挨拶を交わしている。
邪馬臺の邑のほとりを、北から南へ邪州水が流れている。これを下って主流の川に交わる辺りの集落に、難斗米は狗奴王を迎えた。六年前、若者らしい精悍さを帯びていた狗奴王の相貌は、昔とはすっかり変わっている。頬と鼻の頭は赤ばんで、瘡の跡がぼつぼつとしている。頬はむくんで垂れ、鼻には丸い瘤が膨らみ、眼はどこか澱んでいる。まだ三十代半ばなのに、ずっと老けて見える。
狗奴王は、巴琊斗と呼ばれる近衛兵二十二人に取り巻かれ、身の回りを世話する女官八人まで引き連れて来た。その護衛の一団は、阿佐と迦佐という兄弟が指揮している。二人はもともと、常に八十人を揃えたという巴琊斗の中では、地位が低い方であった。しかし先王の死に伴って、高位の者が殉死したり、引退したりしたので、急に出世をして、今では巴琊斗の頭領格になっている。以前からこうなる事を見越して、太子時代の狗奴王に媚びを売り、それで恩遇を得たのだと噂されている。狗奴王は二人に政治まで任せていると云う。
この村に難斗米は酒樽をいくつも備えさせておいたので、狗奴王は何日か留まる気になった。
難斗米は多忙である。陵墓を営繕し葬礼を準備する一方、各地から続々と訪れる客を迎接する。それに何より、後継体制を作るという重い任務が、その両肩にのしかかっている。
難斗米は、狗奴王の到着を前にして、諸国の有力者を夕食に招いた。対馬の領主対馬卑狗、一支の領主一支卑狗、末廬の頭領末母離、伊都の代官尓支、奴の代官兕馬觚、不弥の代官多模、投馬の惣領弥弥といった面々である。それに難斗米の副官都市牛利、邪馬臺の大夫伊声耆、掖邪狗らも出席する。難斗米は都市牛利と伊声耆に何事かを含ませる。張政はその意図を察した。
日はとうに沈んで暗く、食事を終えて別れようとする時、都市牛利が全員に声を掛ける。
「さて亡王のお葬式もすまぬところではあるが、政事に乱れがあってはいけない。お世継ぎについていずれ決めなければならぬ。誰か申すべきことあれば述べられたい」
むぐと押し黙って、誰も答える人がいない。重ねて問う。答える者なし。都市牛利が言う。
「臺与さまをお世継ぎにとは亡王の思し召し。諸卿らも存知置きのことと思う。さればすぐにでも共に立てて王としたいが、どう思われるか」
一同、事の大きさに怖じて、答えない。そこで伊声耆が口を開く。
「どうでしょう。臺与さまはまだ十三になられるばかり。王が務まるものでしょうか」
「ああ皆もそれがご心配とみえる。それで」
「それに兄が死ねば弟が跡を継ぐのが世の習い。歳の順ということがございます。狗奴の若王をお迎えして王とすべきではないですか」
やっと対馬卑狗が声を出す。
「うむ、そうじゃ。臺与さまはまだ幼くていらっしゃる。この際は弟君をお迎えするのがよかろう」
一支卑狗も唱和する。
「おう、その通り。さすれば争わずして邪馬臺と狗奴は一つになる。それこそ亡王の望まれたこと」
末母離も言う。
「争うのが何より良くない。もし戦になれば、野蛮な狗奴の奴らと闘うのは骨が折れるではないか」
掖邪狗は言い遮る。
「それでは、臺与さまはいかにたてまつる。亡王の墓前にも何と申し上げるのだ」
弥弥が間に入る。
「まあまあ……。臺与さまは弟君の跡目ということになるであろう。亡王のご遺志に背くとは必ずしも言えまい。それで一つ手を打ってはいかがか」
衆議の向かおうとする先は明らかであった。姫氏王が死んだ今、狗奴国と争うのはやめにしたい。とにかく波風を立てず、穏便に、苦労は少ない方が望ましい。狗奴王が相続権を主張するなら、それで都合が良いではないか。幼君を守り立てようという意見は少ない。難斗米は議論を打ち切らせる。
「みんなの意見はよく分かった。狗奴王とは吾が話す。王の位は重きことゆえ、諸卿は他で人と会っても輒く口にしないよう願いたい」
最後に一献を酌み交わし、客は宿に戻る。火明かりが揺らめく会堂に、張政は残った。張政は難斗米と少し話しがしたいと思う。とそこで、それまで隅で黙っていた禿骨鋭が声を発する。
「難斗米さん、馬鹿なことをお考えではあるまいな」
難斗米は口をへの字に結んだまま、先生を見る。
「おれも今日、狗奴王さんのご機嫌を伺ってきたが、あんな顔をしているのは何年も酒を呑みすぎるからだ。おれは方々に旅をして、いろいろな国のお偉方を観察したものだが、酒紅の相を浮かべてよく国を保った例はありゃしませんぞ」
先生ご助言痛み入ります、と答えて難斗米は張政の席に膝を寄せる。
「張政さん、これを預かってもらいたい」
難斗米は懐から、紫色の小袋を出す。巾着の口からは紫色の綬が垂れている。それは紛れもなく、あの〔親魏倭王〕の金印である。
「おれは侍臣として、主筋のお方には義理がある。もし求められれば渡してしまうかもしれない。張政さんは天子に仕える身だ。おれに構わずその立場で行動してくれ」
張政もその話しがしたかった。張政は皇帝の官吏として、天子に朝貢する者が治める土地の秩序が保たれる様に、必要とあれば介入する使命を帯びている。だがどうするのが最も良いか、これはなかなか難しい問題を含んでいる。張政はひとまず金印を預かった。
邪馬臺の邑のほとりを、北から南へ邪州水が流れている。これを下って主流の川に交わる辺りの集落に、難斗米は狗奴王を迎えた。六年前、若者らしい精悍さを帯びていた狗奴王の相貌は、昔とはすっかり変わっている。頬と鼻の頭は赤ばんで、瘡の跡がぼつぼつとしている。頬はむくんで垂れ、鼻には丸い瘤が膨らみ、眼はどこか澱んでいる。まだ三十代半ばなのに、ずっと老けて見える。
狗奴王は、巴琊斗と呼ばれる近衛兵二十二人に取り巻かれ、身の回りを世話する女官八人まで引き連れて来た。その護衛の一団は、阿佐と迦佐という兄弟が指揮している。二人はもともと、常に八十人を揃えたという巴琊斗の中では、地位が低い方であった。しかし先王の死に伴って、高位の者が殉死したり、引退したりしたので、急に出世をして、今では巴琊斗の頭領格になっている。以前からこうなる事を見越して、太子時代の狗奴王に媚びを売り、それで恩遇を得たのだと噂されている。狗奴王は二人に政治まで任せていると云う。
この村に難斗米は酒樽をいくつも備えさせておいたので、狗奴王は何日か留まる気になった。
難斗米は多忙である。陵墓を営繕し葬礼を準備する一方、各地から続々と訪れる客を迎接する。それに何より、後継体制を作るという重い任務が、その両肩にのしかかっている。
難斗米は、狗奴王の到着を前にして、諸国の有力者を夕食に招いた。対馬の領主対馬卑狗、一支の領主一支卑狗、末廬の頭領末母離、伊都の代官尓支、奴の代官兕馬觚、不弥の代官多模、投馬の惣領弥弥といった面々である。それに難斗米の副官都市牛利、邪馬臺の大夫伊声耆、掖邪狗らも出席する。難斗米は都市牛利と伊声耆に何事かを含ませる。張政はその意図を察した。
日はとうに沈んで暗く、食事を終えて別れようとする時、都市牛利が全員に声を掛ける。
「さて亡王のお葬式もすまぬところではあるが、政事に乱れがあってはいけない。お世継ぎについていずれ決めなければならぬ。誰か申すべきことあれば述べられたい」
むぐと押し黙って、誰も答える人がいない。重ねて問う。答える者なし。都市牛利が言う。
「臺与さまをお世継ぎにとは亡王の思し召し。諸卿らも存知置きのことと思う。さればすぐにでも共に立てて王としたいが、どう思われるか」
一同、事の大きさに怖じて、答えない。そこで伊声耆が口を開く。
「どうでしょう。臺与さまはまだ十三になられるばかり。王が務まるものでしょうか」
「ああ皆もそれがご心配とみえる。それで」
「それに兄が死ねば弟が跡を継ぐのが世の習い。歳の順ということがございます。狗奴の若王をお迎えして王とすべきではないですか」
やっと対馬卑狗が声を出す。
「うむ、そうじゃ。臺与さまはまだ幼くていらっしゃる。この際は弟君をお迎えするのがよかろう」
一支卑狗も唱和する。
「おう、その通り。さすれば争わずして邪馬臺と狗奴は一つになる。それこそ亡王の望まれたこと」
末母離も言う。
「争うのが何より良くない。もし戦になれば、野蛮な狗奴の奴らと闘うのは骨が折れるではないか」
掖邪狗は言い遮る。
「それでは、臺与さまはいかにたてまつる。亡王の墓前にも何と申し上げるのだ」
弥弥が間に入る。
「まあまあ……。臺与さまは弟君の跡目ということになるであろう。亡王のご遺志に背くとは必ずしも言えまい。それで一つ手を打ってはいかがか」
衆議の向かおうとする先は明らかであった。姫氏王が死んだ今、狗奴国と争うのはやめにしたい。とにかく波風を立てず、穏便に、苦労は少ない方が望ましい。狗奴王が相続権を主張するなら、それで都合が良いではないか。幼君を守り立てようという意見は少ない。難斗米は議論を打ち切らせる。
「みんなの意見はよく分かった。狗奴王とは吾が話す。王の位は重きことゆえ、諸卿は他で人と会っても輒く口にしないよう願いたい」
最後に一献を酌み交わし、客は宿に戻る。火明かりが揺らめく会堂に、張政は残った。張政は難斗米と少し話しがしたいと思う。とそこで、それまで隅で黙っていた禿骨鋭が声を発する。
「難斗米さん、馬鹿なことをお考えではあるまいな」
難斗米は口をへの字に結んだまま、先生を見る。
「おれも今日、狗奴王さんのご機嫌を伺ってきたが、あんな顔をしているのは何年も酒を呑みすぎるからだ。おれは方々に旅をして、いろいろな国のお偉方を観察したものだが、酒紅の相を浮かべてよく国を保った例はありゃしませんぞ」
先生ご助言痛み入ります、と答えて難斗米は張政の席に膝を寄せる。
「張政さん、これを預かってもらいたい」
難斗米は懐から、紫色の小袋を出す。巾着の口からは紫色の綬が垂れている。それは紛れもなく、あの〔親魏倭王〕の金印である。
「おれは侍臣として、主筋のお方には義理がある。もし求められれば渡してしまうかもしれない。張政さんは天子に仕える身だ。おれに構わずその立場で行動してくれ」
張政もその話しがしたかった。張政は皇帝の官吏として、天子に朝貢する者が治める土地の秩序が保たれる様に、必要とあれば介入する使命を帯びている。だがどうするのが最も良いか、これはなかなか難しい問題を含んでいる。張政はひとまず金印を預かった。
感想 0
あなたにおすすめの小説
【完結】上海新選組 原田左之助 山崎烝 明治冒険譚 ──Shanghai samurai dad&son──
小海倫明治。死んだはずの新選組十番隊長・原田左之助は、大陸の租界・上海にいた。
その傍らには、京都新選組時代の諜報に利用し、奇怪な家伝の秘薬の副作用で幼い子供の姿となってしまった元新選組監察・山崎烝。
二人は偽りの「実業家 松山誠親子」として暮らしながら、大陸の租界を彷徨い、謎を追う──
洋装で槍を振るいつつ【坂本龍馬殺害】の濡れ衣に追われる原田。
大人の意識を保ち、手には武器の毒針、推理に鋭い頭脳を働かながら、肉体が少しずつ幼くなっていく恐怖に怯える山崎。
租界都市・上海からサイゴン、漢口。
そして天津での「ラスボス対決」へ。
果たして彼等2人を追うラスボスとはいったい誰なのか?
過去の史実エピソードやアクション、ミステリー要素を含めた新選組の生き残りたちが辿る、歴史伝奇冒険譚!
永倉新八、土方歳三も登場。
完結済。
黄金の艦隊 マネー・パワーで歴史を変える男
俊也「平和を金で買えるなら、それに越したことはない。
戦争が避けられないなら、せめて日本が負けない力を金で買おう」
1930年代より世界経済の混乱に乗じて自らの海運会社を急成長、新興財閥を立ち上げた男の、重課金架空戦記!??
姉妹作
「零戦戦記」
「総統戦記」
も、よろしくお願いします。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
日露戦争の真実
蔵屋 私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この小説は第12回歴史・時代小説大賞のエントリー作品です。
どうか皆様のご支援をお願い申し上げます。
また、この作品を最後までお読み頂き、皆様のお役に立てれば幸いです。
蔵屋日唱