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死生の巻
夢と幻
鋭い声の響きに、狗奴王は後ろを振り向いた。難斗米も、都市牛利や伊声耆も、他の誰もが、棺を納めた方を顧みる。すると踊り女たちがはらはらと左右に散って消え、火明かりの揺らめく中に、一つの人影が浮かぶ。絹の両端を胸に垂らした頭巾を玉飾りで押さえ、その奥に光る切れ長の眼。果下馬に跨がり、左はと見れば御者が轡を引き、右はと思うと従者が絢爛たる飾り旗を支えて、ぽっと現れる。いずれも魏の朝廷の服制に従った目にも綾なる礼装で、夢から抜け出たかの艶姿。
「大王は死なずにあられる」
「大王はこの世にあられる」
故老たちは泣き、大夫たちは迷う。
「おお、王は黄泉の坂よりお還りになられた!」
異変を察した対馬卑狗は墳丘に駆け上がり、一同をかき分けて前に進んで、先頭を切って跪拝をする。人々がそれに従って跪く中、狗奴王は茫然として立ち尽くす。返り血は夜風に触れて冷たく固まり始め、膝の裏には死ねない傷を負った弥馬獲支が熱い血を滴らせながら縋る。
「王たる者は、殺すと決めたら一思いに殺せなくてはならぬ」
姫氏王の声は繰り返した。
「無理だよ!」
狗奴王は血塗れた太刀を取り落とし、喉を絞る。息は絶え絶え、瞳は大きく震え、心は甦った姫氏王の影に惑われている。
「子犬だって殺せなかったのに……!」
篝火が燃え立てば、姫氏王の姿は、蜃気楼の如くに仄めく。仄めきながら、冷たい声を放つ。
「奪わざれば、奪われるのみだ」
狗奴王は、頭を抱えてウワーッと叫び、腰から崩れ落ちて、そのまま気を失った。倒れた体を、腹から血を滴らせた弥馬獲支や、死に装束の女たちが見下ろす。空に曙が射して、馬上の臺与を斜めに照らす。臺与も目を瞑っている。霞が山から沢に下り、野にも靄が広がる。誰もが夜通しの疲れを感じ、眠気を覚える。夜の幻は露と消え、朝の夢が瞼を包む。
朝靄に日が光を落として、昔の記憶を映し出す。
かつて邪馬臺王の女に、一女一男が生まれた。二人の孫の背丈が母親を超える頃、祖父はそれぞれに刀を与えた。家来に命じて庭に二匹の子犬を引き入れさせ、孫たちに語りかける。
「この犬どもはいずれ膳に上るもの、汝らの手で屠ってみよ」
姉は身じろぎもせず、子犬の綱を把んで一振りにその首を斬り落とした。弟は怖じて進めず、姉が再三促してやっと綱を握る。それでも手は戦いて切っ先は鋭からず、毛皮を傷って血を流させるも、ついに命を奪えずして家に逃げ隠れた。子犬は傷が膿んで苦しみ、哀しい声で鳴き続け、七日目に死んで、あたら若い肉を土に埋めさせた。祖父は言った。
「王たらんとする者は、殺すと決めれば、一思いに殺せなくてはならぬのだ」
やがて祖父は、姉の方を跡継ぎと決めた。
霧が走り、波が打つ。波の音と風の冷たさが、ぼうっとする狗古智卑狗の頭を漸々醒めさせる。どうやらここは海の上らしい。霧が濃くて、周りはよく視えない。筏に乗せられている。体が自由にならない。帆柱に縛り付けられているのだ。
「おう、これはどうしたことだ……」
筏からは綱が伸びて、もう一艘の舟に曳かれている。舟には難斗米が乗っている。難斗米の横で一人の従者が、黄色い飾り幢を支えている。張政が今度の旅で齎した物である。狗古智卑狗はやつれた顔で問う。
「斗米よ、斗米よ、おれを何とする」
難斗米は風の冷たさのままに答える。
「大王の命により、禁を破った廉で、公を北の海に流します」
狗古智卑狗は、ほっと息を吐いた。
「そうか、ああ、打ち首は免れたか。有り難いことだ」
難斗米は筏を曳く綱を持ち、刀を添える。
「ああ、斗米よ、教えてくれ」
刀はまだ綱を切らない。
「おれは夢を見ていた。長い夢だ。悪い夢だった。だが分からぬのだ。いつから眠っていたのかのう。どこからが夢であったのかのう」
難斗米は刀の柄に力を溜める。
「これから海に漂う間に、よく思い出されませ」
狗古智卑狗は何かを考える様に、項垂れて暫く口を結ぶ。難斗米も黙って待っている。一つ強い風が吹いて、太陽を垣間見せる。
「いや――、もう良い。何も分からなくて良い。もう何も思い出すまいぞ」
と言いつつ狗古智卑狗は、狗奴王となってからこちらの己を想った。権力を持つ事は恐ろしい。権力を持っても、権力を操れるとは限らない。寧ろ自分は操られていた。操られる事は恐ろしい。
「……もう何も思い出すまいぞ。さあ早く流してくれ」
難斗米は、刀を持つ手を引いた。筏は舟から離れる。筏はどんどん東へ流され、小さく小さくなって行き、波に揺られる木の葉ほどになって、ついに見えなくなった。見えなくなっても、難斗米はまだ舟を留まらせて、東の方を向いている。張政が声を掛ける。
「あの人はどうなるだろうか」
張政は、あの愚かしくも哀れで、大きくも弱い人が、海に沈むのを想像しなくなかった。倭人たちがこの海の東に在ると云う、伊那左の浜という所にでも漂い至れば良いと思う。
難斗米は、胸に溜めた息を、ほーっと吐く。
「大海の神に慈悲があれば、いずこの浜にか流れ着こう」
去った人への名残を断って、舟は舳を巡らす。伊都の港に戻ると、前線からの伝令が、戦況を報せに来ている。都市牛利や伊声耆が率いる邪馬臺の軍勢は、狗奴の王城を指して進んでいた。かつて姫氏王の訓練を受けた兵士たちは、常に五人一組で動く。もしその内の何人かが斃れれば、三人以下にはならない様に、他の組に合流する。王を失い、阿佐と迦佐も居ない今、主なき狗奴の兵は、統率なくただ勇猛を恃むだけで、各個撃破される。さしたる苦も無く邪馬臺国は勝利を得て、狗奴国は陥落し、斬首する者千人に及んだ。
その後、帯方から載斯と烏越が還り、梯儁から張政宛ての信書を伝えた。阿佐と迦佐の二人を、偽の倭王からの使者として捕らえ、獄に繋いだとの事であった。
「大王は死なずにあられる」
「大王はこの世にあられる」
故老たちは泣き、大夫たちは迷う。
「おお、王は黄泉の坂よりお還りになられた!」
異変を察した対馬卑狗は墳丘に駆け上がり、一同をかき分けて前に進んで、先頭を切って跪拝をする。人々がそれに従って跪く中、狗奴王は茫然として立ち尽くす。返り血は夜風に触れて冷たく固まり始め、膝の裏には死ねない傷を負った弥馬獲支が熱い血を滴らせながら縋る。
「王たる者は、殺すと決めたら一思いに殺せなくてはならぬ」
姫氏王の声は繰り返した。
「無理だよ!」
狗奴王は血塗れた太刀を取り落とし、喉を絞る。息は絶え絶え、瞳は大きく震え、心は甦った姫氏王の影に惑われている。
「子犬だって殺せなかったのに……!」
篝火が燃え立てば、姫氏王の姿は、蜃気楼の如くに仄めく。仄めきながら、冷たい声を放つ。
「奪わざれば、奪われるのみだ」
狗奴王は、頭を抱えてウワーッと叫び、腰から崩れ落ちて、そのまま気を失った。倒れた体を、腹から血を滴らせた弥馬獲支や、死に装束の女たちが見下ろす。空に曙が射して、馬上の臺与を斜めに照らす。臺与も目を瞑っている。霞が山から沢に下り、野にも靄が広がる。誰もが夜通しの疲れを感じ、眠気を覚える。夜の幻は露と消え、朝の夢が瞼を包む。
朝靄に日が光を落として、昔の記憶を映し出す。
かつて邪馬臺王の女に、一女一男が生まれた。二人の孫の背丈が母親を超える頃、祖父はそれぞれに刀を与えた。家来に命じて庭に二匹の子犬を引き入れさせ、孫たちに語りかける。
「この犬どもはいずれ膳に上るもの、汝らの手で屠ってみよ」
姉は身じろぎもせず、子犬の綱を把んで一振りにその首を斬り落とした。弟は怖じて進めず、姉が再三促してやっと綱を握る。それでも手は戦いて切っ先は鋭からず、毛皮を傷って血を流させるも、ついに命を奪えずして家に逃げ隠れた。子犬は傷が膿んで苦しみ、哀しい声で鳴き続け、七日目に死んで、あたら若い肉を土に埋めさせた。祖父は言った。
「王たらんとする者は、殺すと決めれば、一思いに殺せなくてはならぬのだ」
やがて祖父は、姉の方を跡継ぎと決めた。
霧が走り、波が打つ。波の音と風の冷たさが、ぼうっとする狗古智卑狗の頭を漸々醒めさせる。どうやらここは海の上らしい。霧が濃くて、周りはよく視えない。筏に乗せられている。体が自由にならない。帆柱に縛り付けられているのだ。
「おう、これはどうしたことだ……」
筏からは綱が伸びて、もう一艘の舟に曳かれている。舟には難斗米が乗っている。難斗米の横で一人の従者が、黄色い飾り幢を支えている。張政が今度の旅で齎した物である。狗古智卑狗はやつれた顔で問う。
「斗米よ、斗米よ、おれを何とする」
難斗米は風の冷たさのままに答える。
「大王の命により、禁を破った廉で、公を北の海に流します」
狗古智卑狗は、ほっと息を吐いた。
「そうか、ああ、打ち首は免れたか。有り難いことだ」
難斗米は筏を曳く綱を持ち、刀を添える。
「ああ、斗米よ、教えてくれ」
刀はまだ綱を切らない。
「おれは夢を見ていた。長い夢だ。悪い夢だった。だが分からぬのだ。いつから眠っていたのかのう。どこからが夢であったのかのう」
難斗米は刀の柄に力を溜める。
「これから海に漂う間に、よく思い出されませ」
狗古智卑狗は何かを考える様に、項垂れて暫く口を結ぶ。難斗米も黙って待っている。一つ強い風が吹いて、太陽を垣間見せる。
「いや――、もう良い。何も分からなくて良い。もう何も思い出すまいぞ」
と言いつつ狗古智卑狗は、狗奴王となってからこちらの己を想った。権力を持つ事は恐ろしい。権力を持っても、権力を操れるとは限らない。寧ろ自分は操られていた。操られる事は恐ろしい。
「……もう何も思い出すまいぞ。さあ早く流してくれ」
難斗米は、刀を持つ手を引いた。筏は舟から離れる。筏はどんどん東へ流され、小さく小さくなって行き、波に揺られる木の葉ほどになって、ついに見えなくなった。見えなくなっても、難斗米はまだ舟を留まらせて、東の方を向いている。張政が声を掛ける。
「あの人はどうなるだろうか」
張政は、あの愚かしくも哀れで、大きくも弱い人が、海に沈むのを想像しなくなかった。倭人たちがこの海の東に在ると云う、伊那左の浜という所にでも漂い至れば良いと思う。
難斗米は、胸に溜めた息を、ほーっと吐く。
「大海の神に慈悲があれば、いずこの浜にか流れ着こう」
去った人への名残を断って、舟は舳を巡らす。伊都の港に戻ると、前線からの伝令が、戦況を報せに来ている。都市牛利や伊声耆が率いる邪馬臺の軍勢は、狗奴の王城を指して進んでいた。かつて姫氏王の訓練を受けた兵士たちは、常に五人一組で動く。もしその内の何人かが斃れれば、三人以下にはならない様に、他の組に合流する。王を失い、阿佐と迦佐も居ない今、主なき狗奴の兵は、統率なくただ勇猛を恃むだけで、各個撃破される。さしたる苦も無く邪馬臺国は勝利を得て、狗奴国は陥落し、斬首する者千人に及んだ。
その後、帯方から載斯と烏越が還り、梯儁から張政宛ての信書を伝えた。阿佐と迦佐の二人を、偽の倭王からの使者として捕らえ、獄に繋いだとの事であった。
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