【完結】「お前を愛する者などいない」と笑われた夜、私は“本物の王子”に拾われた

波依 沙枝

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第四十二話

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悲鳴を上げそうになったのは、帳簿を見た瞬間だった。

数字が合わない。

合わないどころではない。
抜けている。抉られている。
“使われた”というより、“流された”量だ。

私は指先で帳簿の端を押さえ、もう一度、最初から追った。
書き間違いではない。
侍従が懐に入れた程度の誤差でもない。

離宮だ。

第二王子の離宮。

……リヒトが、湯水のように使っている。

酒。賭け事。女。
宴の残骸に金が変わり、金が屑のように散っている。

喉の奥が冷えた。

金は、権力と同じだ。
減れば、命令が効かなくなる。
減れば、口が回らなくなる。
減れば、扇の陰の囁きが、いつのまにかこちらを裁く。

私は立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。

——止めなければ。

リヒトを、謹慎させなければならない。
一人にするために離宮へ押し込めたのに、あれは“牢”ではなく“溜まり場”になっている。

誰が出入りしている。
どこの家の子息が入り浸っている。
どんな女が笑っている。

笑っている場合ではない。
あの離宮は、王家の腐臭として、必ず紙面に乗る。

私は侍従に言った。

「王に会う、準備を」

声は乱さない。
乱せば、負けになる。

けれど胸の内では、爪が掌に食い込むほど力が入っていた。

(……なぜ、止められない)

私が命じれば、従う。
従わせてきた。従わせるのが、私のやり方だった。

それなのに。

私が“作った獣”が、今は私の金を食い、私の時間を食い、私の立場まで食い始めている。

王宮の回廊を進む。

今日の視線は、冷たい。
礼はあるが従属がない。
封蝋の匂いがよそよそしいのと同じだ。

——王都はもう、こちらの顔色を伺っていない。

私は国王の執務室の前で足を止めた。
扉の向こうに、冷たい空気がある。

ここで言葉を誤れば、終わる。
だが、言わなければもっと早く終わる。

「陛下に、至急お目通りを」

侍従が扉を叩く。
返事がある。開く。

私は一歩、室内に入った。

国王は机上から目を上げただけだった。
迎えるでもない。拒むでもない。
ただ、“来たか”という目。

それが、いちばん腹に刺さる。

私は頭を下げた。
下げる角度は、いつも通り。
王妃としての形を崩さない。

「陛下。お願いがございます」

国王は短く言った。

「なんだ」

私は息を整えた。

「リヒトを——謹慎にしてください」

言い切った瞬間、口の中が苦くなる。
この言葉が、どれほど敗北の匂いを持つか分かっている。

「離宮での出費が、限度を越えております」
「王家の金が、王家の面子が……削られています」

“金が消えている”と叫びたいのを飲み込む。
叫べば、私はただの女になる。

国王の目が、ほんのわずかに細くなる。

「出費、か」

——その言い方。

金ではない。
国王にとっては、金より“統治”だ。
私がそこを外せば、話は終わる。

私は言い直す。

「離宮は、王宮の中にあるのに、王宮の外のようになっています」
「侍女も下働きも近づけません」
「出入りも——把握できません」

それはつまり、“王の領域に穴が開いている”ということだ。

国王の指先が、机を一度だけ叩いた。

「……どこまで荒れている」

私は答えた。
淡々と。余計な感情を挟まずに。

「酒と賭け事。女。貴族子息の出入り」
「そして、噂が噂ではなくなり始めています」

国王は黙った。
沈黙が長い。

私はその沈黙の意味を測った。

——これは、謹慎の話ではない。
処分の話になり得る。

胸の奥が冷える。
けれど私は、逃げ道を作れない。

私が望んだのは、“離宮で大人しく”だ。
処分ではない。
鎖の長さを短くすることだった。

だが、鎖はもう切れかけている。

私は最後に、決定打を置く。

「陛下」
「このままでは、明日には——王家が笑われます」

国王の目が、わずかに動いた。

笑われる。
それは国王にとって、最も面倒で、最も許せない事態だ。

私は頭を上げない。
上げれば、顔に焦りが出る。

ただ、待つ。

国王の声が落ちた。

「……分かった」

その一言で、背筋が少しだけ緩む。

だが、続く言葉が、私の喉を締めた。

「“謹慎”では足りん」

私は息を止めた。

国王は続ける。

「離宮は牢ではない」
「王宮の腐臭を、王宮の中に残すな」

冷たい。
合理的。
そして——王として正しい。

私は唇を噛んだ。

(違う)

私が頼んだのは、そんなことではない。

けれど、言い返せない。
今この場で言い返した瞬間、私が“リヒトと同じ”になる。

国王は淡々と命じた。

「処分を準備する」
「お前は戻れ」

私は立ち上がれなかった。
いや、立ち上がったが、足が一瞬遅れた。

——やり方を、間違えた。

その言葉が、胸の奥で音を立てる。

私はこんな女ではなかった。
もっと賢く、もっと正確に、誰もを顎で使って動かせたはずなのに。

いつから私は、こんなに考えが足りない女に——。

私は頭を下げた。
王妃としての形だけを守りながら。

「……承りました、陛下」
















━━━━━━━━

第二王子リヒトは、静かに僻地送りになった。

辞令は短かった。
名目は“王領北端の鉱山監督官”。
役職の響きだけは整っているが、そこに栄誉はない。

王宮の外の人間は、もう第二王子に興味がなかった。

「へえ」
「そう」

それで終わる話題になっていた。

婚約が解消され、王家名で非が明文化され、港の権益まで動いた。
王都の扇は、もう次の噂へ移っている。

第二王子は——終わった。
それが、王都の速度だった。

けれど。

もし誰かが知ったなら。
第二王子リヒトが、どんな姿で王都を出たのかを。

きっと——興味を持っただろう。

出立は夜明け前だった。
人目を避けた時刻。王宮の門が開く音だけが、冷たい空気に響く。

馬車は一台ではない。
護衛の数は“送る”というより“運ぶ”配置だった。

そして、その中心に——リヒトがいた。

暴れていた。
怒鳴っていた。
最後まで、自分が“処分される側”だと理解できない者の抵抗だった。

その腕には手枷。
足にも鉄の枷。
鎖が短く、歩幅を奪う。

口元は覆われていた。
叫びが形にならないように。
王宮の外へ、王家の恥を撒き散らさないように。

王子の衣は整えられていた。
だが整えられているほど、拘束具が際立つ。

——王子は、王子として“処理”された。

馬車に押し込まれる瞬間、誰かが目を逸らした。
侍従ではない。近衛でもない。
“王家の中の人間”だった。

見慣れているはずの者ほど、見たくないのだ。

そして門が閉まる。
閉まった瞬間、王宮は何事もなかったように朝へ戻った。

数日後。

僻地へ続く道は長い。
途中で降ろされることはない。途中で“外す”こともない。

枷が外れたのは、目的地に着いてからだった。

鉱山の監督官舎。
石と煤の匂い。冬の風。
人の目はあるが、王都の目はない。

そこで初めて、鉄が外された。

鎖が床に落ちる音が、やけに大きい。
外された手首と足首には、赤い跡が残る。

リヒトは——そこではじめて、息を吸った。

自由の息ではない。
“王都から切り離された”空気の味を、肺に入れただけだ。

ここで彼は監督官として働く。
働く、というより、働かされる。

命令を出す者ではない。
命令に従う者だ。

王都は忘れる。

だが、王都が忘れた頃——
第二王子は、まだここにいる。

枷を外された手首に残った跡だけが、
王家が彼をどう扱ったかを、冷たく語っていた。
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