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第二章 名もなき古話の神々は、漂泊の歌姫に祝福を与ふ
尾の長すぎる怪鳥は、眠れぬ恋を啄み呪う(25)里からの撤収
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──姫様や、どうせなら最初から、その歌を出してくだされば、宮を齧られずに済んだのでは?
回廊に落ちたネズミを翳でかき集めながら、志斐嫗が苦情を申し述べるのを聞いて、女皇帝は苦笑した。
──ムササビの如きものが我のところに飛んで来ぬうちは、使いどころがない歌だったのじゃよ。
地上では、歌で召喚された武人たちが駆け巡り、刃向かおうとする巫術師たちを次々と倒していた。
数箇所から火の手の上がっている臨殿は、もうすぐ地表に触れそうなところまで落ちていた。
武人に倒された巫術師たちの中に、臨殿に浮力を与える術式を担っているものがいたのだろう。
消化のために放水の魔術を使う者たちの姿も、見えなくなっていた。
──くだらぬ邪念を抱く者たちは、ほぼ眠ったようですな。
ミチザネは、志斐嫗がかき集めたネズミの式神を、小規模の電撃で紙切れに戻し、爽やかな顔で懐に入れていた。
──そんなものを、どうするのじゃ。
──書きつけに使うもよし、焚きつけに使うもよし。紙は貴重ですのでね。
ヒギンズは、回廊で倒れている巫術師たちに、何らかの魔術を施してから、まとめて地上に転移させた。
──あの者たちは、今後、サラに害をなしたりはせぬのか?
女皇帝の問いに、ヒギンズは曖昧な答えを返した。
「万が一、サラに害意を抱くようなものがいれば、死ぬより恐ろしい目にあうかもしれませんね」
それが、この回廊に飛んできた者たちに限らないのであろうことを、女皇帝は察した。
──なるほど、学者とは、恐ろしいものよの。
──恐ろしいのは学者ではなく、人の心の闇ですよ。まあ学者は、思い学んだものの重さだけ、闇の奥行きが深くなることもあるやもしれませんが。いかがかな、ヒギンズ殿。
「まあ、否定はしません。私は明るいところを好みますがね」
──それは私もですよ。
明るい学者たちと志斐嫗の働きで回廊の片付けがほぼ終わったころ、ミーノタウロスの雄叫びが、また聞こえてきた。
「にゃっにゃあーんにゃにゃ(下はほぼ片付いたから、臨殿でひと暴れするにゃ)!」
臨殿に身を躍らせるミーノタウロスに、ヒギンズは念話を飛ばした。
(臨殿の中に、サラの大切なものが囚われているらしいのだが、分かるか?)
「にゃにるん!にゃにゃっ(分かってるにゃ!それを取りに行くにゃ!)」
(ならば、それを回収したら合流して、サラのところへ向かおう)
「にゃにゃっ!(了解にゃ!)」
巫術師たちから読み取った記憶の中には、サラが幼少期から、反抗すれば精霊たちや先祖の魂を消滅させると脅されていたことなどもあった。
それを知ったヒギンズは、サラの心を巫術師の里の縛りから解放するために、脅しの材料を残さないと決めていた。
ミーノタウロスとのやり取りが終わると、女皇帝がヒギンズに声をかけた。
──ヒギンズよ、我が仮宮も、今宵はそろそろ引き上げ時のようじゃ。
ヒギンズは、女皇帝とミチザネ、志斐嫗に向かって、深く頭を下げた。
「力をお貸しいただいたことに、心から感謝したします。私だけの力では、これほどの短時間での制圧は不可能でした」
──礼など不要じゃ。汝とサラが我らの歌を見いだして、命の力を蘇らせてくれたからこそ、結ばれた縁なのだからな。これからも、よろしく頼むぞ。
女皇帝の言葉に、志斐嫗とミチザネも頷いた。
──お二人と出会ってから、姫様は幼き頃の溌剌としたご気性を取り戻しましてな、お仕えする私どもも、喜んでおりますのじゃ。
──私も久々に心の晴れる思いがいたしましたよ。雷親父になってみるのも、悪くありませんな。
「皆さんのお言葉を、サラにも伝えます。きっと喜ぶことでしょう」
──うむ。そうだ、ヒギンズよ、次の戦場で使えそうな歌を、一つ渡しておこう。
女皇帝に渡された絹布には、ヒギンズでは意味の読み取れない歌が書き付けられていた。
『吾背子が 犢鼻にする 円石の 吉野の山に 氷魚ぞ 懸有る』
「気のせいかもしれませんが、なぜか、素っ裸の男の、理解不能な痴態が目に浮かぶのですが……」
横から覗き込んだミチザネが、手で口を押さえて笑いを堪えている。
──我の詠んだ歌では無いぞ! 誤解するなよ! もしも、どうしても勝てそうにない敵が現れたときに、これをサラに歌わせるがよい。
──姫様、ご自分が歌うのが嫌で、押し付けましたな。
──こっ、ここでは使いどころがなかっただけじゃ!
──まあ、そういうことにしておきましょうか。
地上から、どーんという衝撃音が響いてきた。
──おお、敵の社が落ちたようじゃの。
白い壺のようなものをくわえたミーノタウロスが、欄干を越えて回廊に飛び込んできた。
「にゃーんにゃん(サラの大事ものを、回収したにゃん)!」
「よくやった。これでもう、ここに用はなくなったな」
「にゃーにゃ(サラのところへ行くにゃ)!」
──サラの行方は、汝とサラが分かち持つ日記を見れば、おのずと知れるはずじゃ。
ヒギンズは、持って来ていた交換日記を開き、新たに書き留められていた歌を読んだ。
『もののふの 八十宇治川の 網代木に いさよふ波の 行くへ知らずも』
文字列を目で追うヒギンズの脳裏に、赤土の荒野に流れる大河と、河の上に浮かぶ研究所の姿が写し出された。
「書き写された歌だが、歌力を帯びているな。現地でサラが口寄せをしたのか」
──見えたようだな。急ぎ、そこへ飛ぶがよい。事が無事済んだら、また会おう。
「では、ひとまずお別れいたします。ミーノタウロス、行くぞ」
「にゃ! にゃーにゃっ(了解にゃ! 歌のみんな、また遊ぼうにゃ)」
ヒギンズとミーノタウロスが転移してまもなく、巫術師の里の上空に浮かんでいた『さららの動く仮宮!』も、音もなく消えていった。
+-+-+-+-+-+-+-+-
ひかみ
「宴があると聞いてきたのだけど、ちょっと早かったかしら」
いおえ
「まだだけど、待ちきれなくて始めちゃってる人もいるみたいよ。ほら、ここにも」
ふひと
「淑気天下に光らい~~ 薫風海濱に扇る~~」
ひかみ
「まあ、ふひとちゃんが酔って浮かれてるわ。めずらしいこと」
いおえ
「でも和歌じゃなくて、漢詩なところが、浮かれきれてないよねー」
+-+-+-+-+-+-+-+-
*ひかみ……氷上娘(ひかみのいらつめ)。天武天皇の夫人。藤原鎌足の娘。不比等と五百娘の姉。
*ふひと……藤原不比等。藤原鎌足の息子だけど、実は天智天皇の御落胤だという説が古くからある。天武、持統、草壁皇子に仕えていた。
*いおえ……五百重娘(いおえのいらつめ)。天武天皇の夫人。不比等の異母妹で、のちに不比等の妻になる。
*「淑気天下に光らい 薫風海濱に扇る」
「懐風藻」(751年ごろに編纂された漢詩集)に掲載されている、藤原不比等の漢詩の一部。
【意訳】
和やかな気配が世の中に満ち満ちて、あたたかな風が、この広い海辺の浜をどこまでも吹きあおいでいる。いいねえ、気分は超ハッピーだねえ。
回廊に落ちたネズミを翳でかき集めながら、志斐嫗が苦情を申し述べるのを聞いて、女皇帝は苦笑した。
──ムササビの如きものが我のところに飛んで来ぬうちは、使いどころがない歌だったのじゃよ。
地上では、歌で召喚された武人たちが駆け巡り、刃向かおうとする巫術師たちを次々と倒していた。
数箇所から火の手の上がっている臨殿は、もうすぐ地表に触れそうなところまで落ちていた。
武人に倒された巫術師たちの中に、臨殿に浮力を与える術式を担っているものがいたのだろう。
消化のために放水の魔術を使う者たちの姿も、見えなくなっていた。
──くだらぬ邪念を抱く者たちは、ほぼ眠ったようですな。
ミチザネは、志斐嫗がかき集めたネズミの式神を、小規模の電撃で紙切れに戻し、爽やかな顔で懐に入れていた。
──そんなものを、どうするのじゃ。
──書きつけに使うもよし、焚きつけに使うもよし。紙は貴重ですのでね。
ヒギンズは、回廊で倒れている巫術師たちに、何らかの魔術を施してから、まとめて地上に転移させた。
──あの者たちは、今後、サラに害をなしたりはせぬのか?
女皇帝の問いに、ヒギンズは曖昧な答えを返した。
「万が一、サラに害意を抱くようなものがいれば、死ぬより恐ろしい目にあうかもしれませんね」
それが、この回廊に飛んできた者たちに限らないのであろうことを、女皇帝は察した。
──なるほど、学者とは、恐ろしいものよの。
──恐ろしいのは学者ではなく、人の心の闇ですよ。まあ学者は、思い学んだものの重さだけ、闇の奥行きが深くなることもあるやもしれませんが。いかがかな、ヒギンズ殿。
「まあ、否定はしません。私は明るいところを好みますがね」
──それは私もですよ。
明るい学者たちと志斐嫗の働きで回廊の片付けがほぼ終わったころ、ミーノタウロスの雄叫びが、また聞こえてきた。
「にゃっにゃあーんにゃにゃ(下はほぼ片付いたから、臨殿でひと暴れするにゃ)!」
臨殿に身を躍らせるミーノタウロスに、ヒギンズは念話を飛ばした。
(臨殿の中に、サラの大切なものが囚われているらしいのだが、分かるか?)
「にゃにるん!にゃにゃっ(分かってるにゃ!それを取りに行くにゃ!)」
(ならば、それを回収したら合流して、サラのところへ向かおう)
「にゃにゃっ!(了解にゃ!)」
巫術師たちから読み取った記憶の中には、サラが幼少期から、反抗すれば精霊たちや先祖の魂を消滅させると脅されていたことなどもあった。
それを知ったヒギンズは、サラの心を巫術師の里の縛りから解放するために、脅しの材料を残さないと決めていた。
ミーノタウロスとのやり取りが終わると、女皇帝がヒギンズに声をかけた。
──ヒギンズよ、我が仮宮も、今宵はそろそろ引き上げ時のようじゃ。
ヒギンズは、女皇帝とミチザネ、志斐嫗に向かって、深く頭を下げた。
「力をお貸しいただいたことに、心から感謝したします。私だけの力では、これほどの短時間での制圧は不可能でした」
──礼など不要じゃ。汝とサラが我らの歌を見いだして、命の力を蘇らせてくれたからこそ、結ばれた縁なのだからな。これからも、よろしく頼むぞ。
女皇帝の言葉に、志斐嫗とミチザネも頷いた。
──お二人と出会ってから、姫様は幼き頃の溌剌としたご気性を取り戻しましてな、お仕えする私どもも、喜んでおりますのじゃ。
──私も久々に心の晴れる思いがいたしましたよ。雷親父になってみるのも、悪くありませんな。
「皆さんのお言葉を、サラにも伝えます。きっと喜ぶことでしょう」
──うむ。そうだ、ヒギンズよ、次の戦場で使えそうな歌を、一つ渡しておこう。
女皇帝に渡された絹布には、ヒギンズでは意味の読み取れない歌が書き付けられていた。
『吾背子が 犢鼻にする 円石の 吉野の山に 氷魚ぞ 懸有る』
「気のせいかもしれませんが、なぜか、素っ裸の男の、理解不能な痴態が目に浮かぶのですが……」
横から覗き込んだミチザネが、手で口を押さえて笑いを堪えている。
──我の詠んだ歌では無いぞ! 誤解するなよ! もしも、どうしても勝てそうにない敵が現れたときに、これをサラに歌わせるがよい。
──姫様、ご自分が歌うのが嫌で、押し付けましたな。
──こっ、ここでは使いどころがなかっただけじゃ!
──まあ、そういうことにしておきましょうか。
地上から、どーんという衝撃音が響いてきた。
──おお、敵の社が落ちたようじゃの。
白い壺のようなものをくわえたミーノタウロスが、欄干を越えて回廊に飛び込んできた。
「にゃーんにゃん(サラの大事ものを、回収したにゃん)!」
「よくやった。これでもう、ここに用はなくなったな」
「にゃーにゃ(サラのところへ行くにゃ)!」
──サラの行方は、汝とサラが分かち持つ日記を見れば、おのずと知れるはずじゃ。
ヒギンズは、持って来ていた交換日記を開き、新たに書き留められていた歌を読んだ。
『もののふの 八十宇治川の 網代木に いさよふ波の 行くへ知らずも』
文字列を目で追うヒギンズの脳裏に、赤土の荒野に流れる大河と、河の上に浮かぶ研究所の姿が写し出された。
「書き写された歌だが、歌力を帯びているな。現地でサラが口寄せをしたのか」
──見えたようだな。急ぎ、そこへ飛ぶがよい。事が無事済んだら、また会おう。
「では、ひとまずお別れいたします。ミーノタウロス、行くぞ」
「にゃ! にゃーにゃっ(了解にゃ! 歌のみんな、また遊ぼうにゃ)」
ヒギンズとミーノタウロスが転移してまもなく、巫術師の里の上空に浮かんでいた『さららの動く仮宮!』も、音もなく消えていった。
+-+-+-+-+-+-+-+-
ひかみ
「宴があると聞いてきたのだけど、ちょっと早かったかしら」
いおえ
「まだだけど、待ちきれなくて始めちゃってる人もいるみたいよ。ほら、ここにも」
ふひと
「淑気天下に光らい~~ 薫風海濱に扇る~~」
ひかみ
「まあ、ふひとちゃんが酔って浮かれてるわ。めずらしいこと」
いおえ
「でも和歌じゃなくて、漢詩なところが、浮かれきれてないよねー」
+-+-+-+-+-+-+-+-
*ひかみ……氷上娘(ひかみのいらつめ)。天武天皇の夫人。藤原鎌足の娘。不比等と五百娘の姉。
*ふひと……藤原不比等。藤原鎌足の息子だけど、実は天智天皇の御落胤だという説が古くからある。天武、持統、草壁皇子に仕えていた。
*いおえ……五百重娘(いおえのいらつめ)。天武天皇の夫人。不比等の異母妹で、のちに不比等の妻になる。
*「淑気天下に光らい 薫風海濱に扇る」
「懐風藻」(751年ごろに編纂された漢詩集)に掲載されている、藤原不比等の漢詩の一部。
【意訳】
和やかな気配が世の中に満ち満ちて、あたたかな風が、この広い海辺の浜をどこまでも吹きあおいでいる。いいねえ、気分は超ハッピーだねえ。
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