碧の空

野部 悠愛

文字の大きさ
1 / 5

碧の空1

しおりを挟む
お願いだから……。
どうか、僕を置いていかないで……。

 朝、目が覚めて体を起こすと、
僕の目からは生ぬるい水、…涙がこぼれた。
何故なのか、理由はわからないけれど、
最近はたまにある。
 ちらりと時計に目をやると、もう起きなければならない時間だった。
本当は嫌だったけれど、制服に着替えてリビングに降りた。
 食卓の上には朝食が並んでいて、
母は仕事に行ったのかもう既にいなかった。
 1人で朝食を食べていると、窓の外に目が行った。
昨晩から降り続けている雪で地面が真っ白に染まっていた。
……悲しい記憶が蘇って、それを
振り払うようにご飯をかき込んで、片付けを済ませて、学校に行くために重い足を引きずるようにして家を出る。
外は真っ白で、心が余計に重くなった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

放課後、ゆっくりと歩きながら空を見上げる。
今日の空は濁っていて心が少し重くなる。
……そんな心を無視して、
さっきよりずっと速いスピードで歩く。
流れていく景色が、なんだかどんよりとして気持ち悪い。
この世界は、なんて汚れているんだろう?
ちょっと前までは本当に、綺麗な色をしていたのに。

病院の前で立ち止まる。
何度も、何度も深呼吸をして、
僕は病院の中に入った。
 もう何回通ったかもわからない廊下を歩いて、
とある部屋の前で止まって、扉を開ける。
この病室に入院しているのは1人だけ。
「空、げんきだった?」
声をかけても返事はない。
期待はしていなかったけれど、
泣きたくなった。
でも、それを堪えて僕は彼女の、空のベッドの隣に椅子を置いて、もう一度優しく声をかけながら座った。
……その顔に、表情は、ない。
  でも、だからこそ、僕は笑った。
できるだけ優しく、優しく笑った。
空の瞳が少しだけ揺れた。
その瞳には光が無く、
まるで深い森の奥で迷子になって、2度と帰れないかのように心細げで悲しげな色が浮かんでいた。
「ねぇ、碧。」
黙って僕をみていた彼女の口が言葉を紡いだ。
「私は、なんで生きてるの?」
空が僕を見つめる。
その瞳には、もはや僕も、何も、
映っていなかった。
空は感情のない声で、また話し始める。
「なんで、私を受け入れない世界にいなきゃいけないの?」
来なきゃ良かった。
……そんなことを思ってしまうのは、
きっと、僕が期待していたからだ。
今日は、あの日から初めて空が話をしてくれたから、今日こそは昔と同じ空に会えると、そう思っていたからだ。
そっと、空から離れる。
「ごめんね、今日はこの後用事があるから帰らないといけないんだ。」
 返事はない。
表情のない空を、希望のない言葉を吐く空を見たくなくて逃げるように病院を出た。

……少し、昔の話をしよう。
僕は、小さい時から泣き虫で、よくいじめられてた。
そんな、僕の隣には、いつも空がいて守ってくれてた。
空は、僕にとってのヒーローだった。
僕が泣いていると、いつだって彼女は僕の頭を撫でて優しい言葉で慰めてくれた。
強くて、優しい、暖かい、ヒーローみたいな女の子。

小学生のときも、中学に上がった一昨年も、それは変わらなかった。
その頃になると、少しだけ僕も強くなってて、
泣くことも減って、
「今度は空を僕が守るんだ。」
なんて張り切ってた。

暖かい空といる時間は優しいものだった。

でも、ある日、事件が起こった。
「あれ?……靴がない。」
一昨年の、中学1年の夏のことだった。
学校から帰ろうとしていた時、空が困ったように言った。
それから僕と空は学校内をたくさん、たくさん探し回ったけれど、結局見つからなくて、
ちょうどその日が金曜日だったのもあって、空は上履きで家に帰った。
空は笑っていた。
笑っていたけれど、その笑顔はどこか引きっつっていて鞄を持つ指先も小さく震えていた。

それから、毎日のように空の持ち物が無くなることが増えた。
その度に校内を2人で探し回ったけれど、見つかったものは落書きだらけだったり、ボロボロにされていたりした。
もちろん、先生にも相談はした。
その後しばらくは先生がクラスで犯人を探したけれど、誰も何も言わなかった。
結局、僕達が嘘をついていることにされた。
………学校はずるい。

それから、空は何も言わなかった。
何も言わずにただ、笑って毎日を普通に過ごした。泣いてはダメだから、犯人を喜ばせることになるから。と言っていた。

そのまま季節は流れて、気が付けば冬になっていた。
空への嫌がらせはずっと続いていた。
空は用事があるからと先に帰ることが増えた。
僕はそれを怪しいと思ったけれど、直接聞く勇気もなくて、ある日空のあとをつけた。
でも、途中で見失って、慌てて探した。
走って、走ってやっと見つけた空は、
数人の女子と大きな道路のそばで何かを話しているようだった。
……なんだ、友達と帰るなら言ってくれれば良かったのに。
そう思って帰ろうとしたその時、
女子の1人が車通りの多い道路に向かって空を突き飛ばした。
急ブレーキの音と激しい衝突音がして、空の細い身体が宙に浮いて、勢いよく地面に落下した。その様子はあまりに衝撃的で、スローモーションのようにやたらとゆっくりに見えた。
 ハッとして駆け寄ると、空の頭からは鮮やかな赤い、紅い血が流れ出て雪の積もった白い地面を真っ赤に染めていた。
ぶつかった車のドライバーが警察に電話をかけている声が遠くに聴こえた。
この場に居たはずの女子達は、気づけば居なくなっていた。
 「空、そら、そら……」
僕はどうして良いかわからずに、赤に染まった空を抱きしめた。
冷たくなっていく空に熱を分けるように、
それしか、出来なかった。
そのまま何分たっただろう。救急車が来て、僕を引き剥がして空を乗せてゆく。
僕は事故の目撃者だからと空と一緒に病院に連れて行かれて空の手術が終わるまでの間、警察から事情を聞かれた。
僕は、空がされていた嫌がらせの内容から、今日見たことまでを全部隠さずに話した。
全部話したあと、僕の目からは大量の涙が溢れた。警察の人は「よく頑張ったね。」なんて言ってくれたけど、違う。
僕は何も出来なかった。空はずっと、僕を守ってくれてたのに、僕は空を守れなかった。
悔しかった。
僕は学校をずるいと思ったけれど、ずるいのは僕も一緒だった。知っていたのに、空が辛い思いをしていることも、誰も見てない時に泣いていたことも、なのに、何も出来なかった。
怖かった。怖かったから動けなかった。

手術が終わっても空の意識は戻らなかった。
慌てて病院に駆けつけた空の両親は、泣いていた。
僕はただ、ただ謝ることしか出来なかった。
最後は空のお母さんに抱きしめられて、一緒に泣いた。
その後、迎えに来た母さんの車の中でも、僕はただ泣いていた。母さんは何も言わなかった。
何も言わなかったけれど、家に着いてもずっと、静かに僕の側にいてくれた。

次の日、学校で何人かの女子が呼び出された。
その中には昨日、空を突き飛ばした女子もいた。そいつらは逃げたけれど、ぶつかった車のドライブレコーダーにしっかり顔が映っていたそうだ。
 学校の対応は早かった。
突き飛ばした女子の家に慰謝料を払わせ、謝罪をさせて退学処分にした。
他の女子は停学と言われていたけれど、
もう戻ってこなかった。
それから、保護者説明会が開かれて、女子の1人が空を突き飛ばしたことや、それに関する教育の足りなさ、今後の対策を発表したそうだが、いじめについては何もなかったことにされていた。
僕はずるいと思った。見て見ぬふりをしていたクラスメイトも、転校していった女子達も、責任逃れをする学校も、
……そして、空の側にいたのに何も出来なかった僕も、きっと、ずるい。

それから数ヶ月経って、空の意識が戻った。
面会が許可されてから毎日のように病院に通っていた僕は、意識が戻ったことに安堵して、空のお母さんと一緒にまた泣いた。

だけど、喜びを感じたのは一瞬のことだった。
なぜなら、空は全く言葉を発さなかったからだ。
空はただ、遠くを見つめてぼーっとしていた。
そんな状態が半年以上続いた。

そして、中学3年の冬現在。
譫言や、呟きで無く他人に向けて初めて発された言葉が「なんで生きてるの?」だったのだ。

病院から家に帰りついた僕は、着替える気力も無く、制服のままベッドに仰向けに寝転がった。
母はまだ帰宅していないようだった。
父は離婚して出ていったので元々居ないため今は家に僕1人だけだ。
 課題も休み時間のうちに終わらせたのでやることも無く、ぼーっとしていた。
思い出すのは空のことで、どうにもならないモヤモヤが胸を締め付ける。
……その時、電話が鳴った。
「もしもし?」
『あ~、もしもし?お母さんよ。』
名乗らなくても声でわかるよ。そう思ったが言葉にはしなかった。
「何かあった?」
『ごめんねぇ、残業で帰りが遅くなるから、今日の夕飯は……』
「僕が作るよ。」
『そう?ありがとう。冷蔵庫の買いだめした食材、好きに使っていいからお願いね。……多分21時頃には帰れると思うから。』
「うん、わかった。仕事頑張って。」
母はよろしくと言って電話を切った。
僕は早速下のキッチンに下りて冷蔵庫の中身を確認した。ひき肉と、野菜室には玉ねぎと人参が入っていたので、今日は母の好きなハンバーグにしようと決めた。
ハンバーグを作る前に米を洗って21時頃炊けるようにセットした炊飯器に入れた。
ハンバーグのたねを作っている間に、じゃがいもと人参をコンソメで茹でておく、付け合わせはポテトサラダにしよう。
テキパキと料理を作り終えて、時計を見るとまだ19時半だった。
やることもないので適当にテレビをつけた。
やっているのは国会中継で、特に見たい番組もないのでそのまま眺めていると、どうやら何人かで1人の議員を責めているようだ。
くだらない。僕はテレビを消した。
子供達にいじめはいけないと教えているはずの大人が何故テレビ中継でいじめのようなことをしているのか、理解に苦しむ。
ああやって野次を飛ばす奴に限って何もしないのだ。
「学校は社会の縮図だ」
なんてよく言うけれど、今になってその意味がわかった気がする。
社会は学校より広くて、でも学校と同じで大人数で少人数を倒して喜ぶ。
そんな世界なら……消えてしまえばいいのに……。
大人も、誰も彼も大人数の方の味方だ。
そう考えると、学校でひとりぼっちの僕には味方なんかいないのだろう。
悲しくは…….ない。
学校に味方がいなくても良い。
母や空の両親は違うから。
空のいじめの件で学校に何度も訴えかけてくれた母達は味方だと思ってる。
それに、学校に味方がいないのは、僕にとっての普通だから。
いつでも僕のことを守ってくれたヒーローは、神様はもう居ない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

考え事をしていたらいつの間にか寝てしまっていたようで、時計を見るともう20時半をすぎていた。
あと30分で母が帰ってくる時間だ。
ソファから立ち上がって、キッチンの冷蔵庫に入れてあったハンバーグを焼き始めた。
フライパンの上の肉のジュージューという音がやけに耳に響いた。
両面に焼き目をつけたらオーブンでしっかり火をとおして、皿に付け合せのポテトサラダと共に盛り付けたところでちょうど母が帰ってきた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

【完結】ドアマットに気付かない系夫の謝罪は死んだ妻には届かない 

堀 和三盆
恋愛
 一年にわたる長期出張から戻ると、愛する妻のシェルタが帰らぬ人になっていた。流行病に罹ったらしく、感染を避けるためにと火葬をされて骨になった妻は墓の下。  信じられなかった。  母を責め使用人を責めて暴れ回って、僕は自らの身に降りかかった突然の不幸を嘆いた。まだ、結婚して3年もたっていないというのに……。  そんな中。僕は遺品の整理中に隠すようにして仕舞われていた妻の日記帳を見つけてしまう。愛する妻が最後に何を考えていたのかを知る手段になるかもしれない。そんな軽い気持ちで日記を開いて戦慄した。  日記には妻がこの家に嫁いでから病に倒れるまでの――母や使用人からの壮絶な嫌がらせの数々が綴られていたのだ。

冷徹公爵の誤解された花嫁

柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。 冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。 一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...