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59話 ピエルミレ・リプス
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アルセア歴1572年――春。
雪解け間もない季節、ゼレスティアにて一人の子が出生した。
その子の名はピエルミレ・リプス。
成長し29歳となった現在では愛称――というより略称で"エルミ"と周りからは呼ばれている。
エルミは国の精鋭部隊『親衛士団』の栄えある第9団士。
尋問や諜報活動に携わる事が多く、戦闘能力よりも情報収集力を買われて今の地位に就いたと言えよう。
一桁台の序列――当然"エリート中のエリート"と誉れるべき存在だ。
しかし、エルミがこの世に生まれ落ちてから現在に至るまでの歩んできた道程は、生半可なものでは無かったという。
――今回はそんなエルミの激動の半生について語るとしよう。
◇◆◇◆
スラム街の一角のとある荒家。
一般住宅のリビング程の間取りしかない木造の住宅に、二人の若い男女が住んでいた。
男は元兵士で、違法賭博への参加や武具の横流し等の度重なる規律違反によって除隊。その後マフィアに拾われ、組織の末端構成員となる。
女はドメイル市生まれドメイル市育ちの貴族令嬢だったが、上流階級特有の厳しい教育に嫌気が差し、家出を繰り返し次第に生活が荒むようになった。
身分違いの二人はマフィアが主催していたドラッグパーティーにて偶然出会い、お互いに惹かれ合う。
成就までの時間は短く、二人はすぐに交際を開始し、婚姻の契りを交わさずに駆け落ちると、女側の親から逃げ隠れるようにフルコタ市に居を構えたのだった。
やがて女は身籠り、十月十日の時を経ると、傾いた屋根の下でエルミは産声を上げた。
――が、それは望まれた命では無かった。
やっとの思いで初産を乗り切った母だったが、産湯に浸かる我が子の性別を助産士に確かめ『男の子』と答えられた途端、目の色が大きく変わったという。
そう、母はどうしても娘が欲しかったのだ。
注がれるはずの愛情の眼差しが、一瞬にして侮蔑へと変化した瞬間を、今でも脳裏に焼き付いて離れないとエルミは後に語る。
『何一つ祝福されぬまま生まれ落ちた子供』
生後0日から斯様な烙印を押されてしまったエルミだが、まだ未発達な脳ではその先に待ち受ける運命に対して危機感を持つことなどできなかった。
『――幼いながら何度運命を呪ったか』
と、本人が述べるほど、エルミの幼少期は過酷な環境だったという。
マフィアの構成員とはいえ無職同然の収入である父は賭博から負けて帰ってくると、決まって機嫌の悪さを暴力へと昇華し、母へ日常的に手をあげていた。
この時既に父から母へ向けての愛情は、エルミが生まれてから程なくして冷めきった物となり、何度も浮気を繰り返していたという。
そんな家庭内暴力の矛先が子へ向かわないのは、エルミが物心を付き始めた頃から父の顔色を伺い、観察し、見極め、機嫌を損なわせないようにする術を殴られる母を見て学んでいたからである。
『――今思えば私が尋問士たる由縁はそこに有るんでしょうね。今では対面した人物の感情、精神状態が手に取るように解ってしまうんです。嫌って言うほどに、ね』
と、エルミは語る。
一方で母は収入の無い父を盲目的に愛していたため、十代ながら娼館で働き、死に物狂いで金を稼いでいた。
しかしエルミが三歳を迎える頃には既に精神が病みきってしまい、当時フルコタ市で流行していた違法薬物に手を染め、敢えなく中毒となってしまう。
そんな二人の下で育ったエルミ。
まともな愛情どころか、満足に食事も与えられていなかったため、身体はひどく痩せ細っていたという。
更には服すら買い与えてもらえず、サイズの合わない親の古着を着て生活をしていたとか。
四歳になった頃には元々あった父の浮気癖に拍車が掛かり、母が仕事で家を空けている間、家に他の女を連れ込みエルミが居るにも関わらず性交に及んでいたという。
行為の間中エルミは父にクローゼットへ押し込まれ、耳を塞ぎ、目を固く瞑りながら静かに時間が過ぎるのを待っていた。
『――地獄でしたね、あの時間は。"早く終わってくれ"と何億回祈ったことか』
母はというと、育児・仕事・家庭内暴力からくるストレス過多から少しでも逃れようと、薬物の使用量を更に増やし腕には注射の痕が絶えなかった。
エルミが五歳を迎えた年の、そんなある日のこと。
父の浮気が遂に発覚したのだった。
母は裏切られた愛情を追及の言葉に変え、烈火の如く捲し立てる。
しかし父は反省の色を一切見せずに、拳で無理矢理と母を黙らせた。
そしてそのまま家を飛び出し、二度と帰ってくることは無かったのだった。
『――頭頂から爪先に至るまでとことんクズな男でしたよ。まあ、もう何処かで野垂れ死んでいるんでしょうけど』
エルミが語るように、父のその後は20年以上経った現在でも消息が掴めていないとか。
取り残された母と子。
泣き崩れ、悲嘆に暮れる母。
一方のエルミは、父が出て行った事に対し、密かに喜んでいた。
もう怯えながらの生活をせずに済むのと、大好きな母と二人で暮らせると思ったからだ。
母から愛情など殆ど与えてもらっていなかったが、それでも最低限生きていく為の環境を整えてはくれた。
僅かながらの無償の愛によって、エルミは母にだけは好意を持っていたのだ。
しかし、父が出て行って一月程が過ぎたある日。
その日の母は仕事が休みで、朝から浴びるように酒を飲んでいた。
一瓶、また一瓶と栓が開けられていき、酔いが回り気が昂ったのか、エルミに対しふと本音を溢す。
『――アンタ、女に産まれてくれば良かったのにね』と。
その言葉は、我が子が生まれてきた事を否定するものだった。いくらエルミがまだ幼いとはいえ、言われた内容の意味は理解できただろう。
――だが、エルミは絶望しなかった。
それどころか、その言葉がエルミの暗澹とした人生に射し込まれた一筋の光――生きる希望となったのだ。
『――そうか、僕は女の子になればもっとお母さんに愛してもらえるんだ』
エルミにとって母の存在は親であり、神だ。
勝手に家から出る事を許されず、この狭い空間の中で、母の言いつけだけを守って生きてきた。
母が言う事は絶対だ。
そう信じて疑わなかったエルミは、その瞬間を境に、母から貰った言葉だけを便りに生きていこうと決めたのだった。
言葉を受けたエルミは、ふと思い付いたようにだぼついていた自身の服を鋏で刻み始めた。そしてそれをスカートのように見立ててみせると――。
『――お母さん、見てよ。女の子みたいでしょ?』
生まれてからほとんど動かすことのなかった表情筋で慣れない笑顔を作りながら、母へと自作の服を見せ付けるエルミ。
母は酒のおかげで陽気になっていたのか、笑ってくれた。
エルミに向けて初めて見せた笑顔といって良いだろう。
かつてない程の幸福感を覚えたエルミは、これが愛情なのか、と錯覚をする。
そして、その瞬間からエルミは、自身の性別を女だと思い込むようにしたのだ。
――全ては母を喜ばせ愛情を賜るため、という一途な思い。
今まで自らで切っていた髪を伸ばし、母の化粧品を拝借して化粧の練習を始めたり、見た目を少しでも女に近付けようとエルミは五歳ながら努力を続ける。
母はそんなエルミの姿を見て、なぜ急にそんな事をするようになったのか解らず、気でも狂ったのかとさえ思う。酔っている間の何気ない一言など記憶に無かったからだ。
結局それからしばらくの期間、エルミがどれだけ女の子らしく振る舞っても、母は喜ぶ素振り一つすら見せることは無かった。
が、エルミは疑問に思うことなく、ひたすら邁進する。
『――僕の努力が足りないからだ』
それもそのはず、根本の間違いに気付けず、それどころか自身を過度に追い込んでしまっていたのだ。
『――どうすれば、どうすれば喜んでもらえるのだろう』
その歪んだ努力はやがて、悲劇を呼ぶ引き金となってしまう――。
――エルミが六歳を迎えた春。
髪を伸ばし、化粧も覚え、自作の女児服に身を包んだ少年。試行錯誤の果てとはいえ、常軌を逸した行動に出る――。
その日は母が仕事だった。
エルミは"ある"考えを携え、母の帰りを心待ちにしていた。
そして母が帰宅をすると、エルミはおもむろに下半身に着用していた衣服を脱ぐ。
母は息子の奇行に怪訝な表情を浮かべるが、エルミはお構い無しと言った風に意気揚々と手に持っていた鋏を陰部に近付け――。
――切断してみせたのだ、男性の象徴とも言うべき部位を。
筆舌に尽くしがたい激痛。
断面からは鮮血が勢い良く――。
普段は我が子に対し全く関心を示さなかった母だが、今回ばかりは違った。
息子の奇行――いや、凶行とも言える行為に対し、どうしていいかわからずパニックに陥る。
しかし当の本人であるエルミは泣き叫んだりする事なく、目の端に涙を浮かばせながら、母に向けて震えた声で――。
『――お母さん。これで僕、女の子になれたよ』
激痛を堪え、精一杯の笑顔を振り撒く。
そして息子のその言葉で、母は全てを悟る――というより、気付いてしまう。
息子に"ここまで"させたのは他ならぬ、自分だ。
碌に愛情も与えず、関心も持たず、ただ傍に置いているだけ。
望んで身籠ったわけではない。それどころか、出て行ったあの男に愛想を尽かされたのも妊娠をしたからだとさえ思っていた。
娘が欲しかったというのも、好色家や娼館へ高額で売り飛ばすつもりだったからだ。
――何故、もっと優しく、もっと愛してあげれなかったのだろう。
一斉に去来した後悔と反省。
母はエルミを強く抱き締め、泣いた。
ごめんなさい、ごめんなさいと。
何度でも、何度でも。
その後、エルミは病院に搬送された。
治療を終えると医士から命に別状は無いと診断され、数日の入院で傷は癒えるとのこと。
しかし、切除された男性器を元に戻すことは叶わず、母は悲嘆する。
一方でエルミは、これからは母と仲良く暮らせると楽観視し、退院を心待ちにしていた。
そして数日後、病院のベッドの上で数日を過ごしたエルミは退院日を迎える。
だが、自宅から数百ヤールト程しか離れていない病院にも関わらず、母は迎えに来なかった。
営業時間を過ぎても母は現れず、病院側は仕方ないと判断し、看護士を一人付き添わせてエルミを自宅へと送る。
夜が浅い時間帯。家の前まで送られたエルミは、看護士を背に玄関の扉を開く。
家の中は薄暗く、誰かが居る気配は無い。
きっと仕事中なのだろうとエルミは判断したが、一つしかない部屋まで進んでみると、何かが天井からぶら下がっているのが窺えた。
灯飾を点けると、その"何か"の正体が判明する。
――天井からぶら下がっていたのは、ロープで首を吊った母だった。
玄関に立っていた看護士が悲鳴を上げる。
しかし、エルミは無言で冷たくなった母を虚ろな眼差しで見据えるだけ。
『――不思議と、悲しくなかったんですよね。どうして、とも思いませんでしたし、本当に思考が"無"になっちゃったんですよ。それが何故なのかはわかりませんが……』
当時を振り返り、彼は語る。
『――結局私って、母が好きだったのではなく、ただ愛情に飢えていただけなんでしょうね』
『――今? 今は……そうですね。"人間"は大好きですよ。個人毎に多種多様な性格、独特な癖や仕草、尋問時に於ける僅かな機敏などを観察するのは楽しくて仕方がありませんからね』
母の亡き後、エルミは孤児となり、施設での生活を余儀なくされる。
性器を失った影響か心境の変化によるものなのかは定かでは無いが、成長期に至ったエルミはホルモンバランスの狂いから身体が華奢に成長し、顔立ちも女の子らしく変化していってしまう。
孤児施設へ入所してから約一年半、エルミは年齢に見合った学力と、今まで親から一切教わってこなかった一般教養や道徳を身に付ける。
エルミの学習能力は凄まじく、施設に勤める教士役の人物が目を見張る程だったという。
そして、本来なら六歳で入学の義務がある学園へ、エルミは八歳から入学する。
施設に入るまで他人とのコミュニケーションを一切して来なかったのと、その特異な見た目のおかげもあり人間関係の構築に若干戸惑ってはいたが、トップクラスの成績で無事に卒業を迎えることができた。
卒業後は軍へは入隊せず、"心療士"という、病人へのメンタルケアを主としたカウンセラーの資格を取得し、ひっそりと働く。
が、人間の心理を知り尽くしたその類い稀なる観察眼は訪れた患者を通じて徐々に話題となり、ゼレスティア軍の者の耳へと届くことに。
ヘッドハンティングに対し二つ返事で快く応じた彼は、19の若さで軍お抱えの心療士と栄転する。
しかしエルミの観察眼は既に心療士としての枠に収まりきらず、尋問士への転向を軍の上層部から奨められ、彼は素直に応じた。
そして27歳になった年。親衛士団が発足され、エルミは諜報を生業とする身でありながら、団員に見事抜擢される快挙を成し遂げたのだ。
『――そこから先は皆さんのご存知の通り、"嫌われ者のエルミ"の誕生ですよ』
『――まあ、嫌われる事に関しては慣れてますし、いいんですけどね』
『――今までの人生ですか? そうですね……色々紆余曲折ありましたが……』
『――私は幸せですよ。"生きて"ますから』
以上が、ピエルミレ・リプスの半生となる――。
雪解け間もない季節、ゼレスティアにて一人の子が出生した。
その子の名はピエルミレ・リプス。
成長し29歳となった現在では愛称――というより略称で"エルミ"と周りからは呼ばれている。
エルミは国の精鋭部隊『親衛士団』の栄えある第9団士。
尋問や諜報活動に携わる事が多く、戦闘能力よりも情報収集力を買われて今の地位に就いたと言えよう。
一桁台の序列――当然"エリート中のエリート"と誉れるべき存在だ。
しかし、エルミがこの世に生まれ落ちてから現在に至るまでの歩んできた道程は、生半可なものでは無かったという。
――今回はそんなエルミの激動の半生について語るとしよう。
◇◆◇◆
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一般住宅のリビング程の間取りしかない木造の住宅に、二人の若い男女が住んでいた。
男は元兵士で、違法賭博への参加や武具の横流し等の度重なる規律違反によって除隊。その後マフィアに拾われ、組織の末端構成員となる。
女はドメイル市生まれドメイル市育ちの貴族令嬢だったが、上流階級特有の厳しい教育に嫌気が差し、家出を繰り返し次第に生活が荒むようになった。
身分違いの二人はマフィアが主催していたドラッグパーティーにて偶然出会い、お互いに惹かれ合う。
成就までの時間は短く、二人はすぐに交際を開始し、婚姻の契りを交わさずに駆け落ちると、女側の親から逃げ隠れるようにフルコタ市に居を構えたのだった。
やがて女は身籠り、十月十日の時を経ると、傾いた屋根の下でエルミは産声を上げた。
――が、それは望まれた命では無かった。
やっとの思いで初産を乗り切った母だったが、産湯に浸かる我が子の性別を助産士に確かめ『男の子』と答えられた途端、目の色が大きく変わったという。
そう、母はどうしても娘が欲しかったのだ。
注がれるはずの愛情の眼差しが、一瞬にして侮蔑へと変化した瞬間を、今でも脳裏に焼き付いて離れないとエルミは後に語る。
『何一つ祝福されぬまま生まれ落ちた子供』
生後0日から斯様な烙印を押されてしまったエルミだが、まだ未発達な脳ではその先に待ち受ける運命に対して危機感を持つことなどできなかった。
『――幼いながら何度運命を呪ったか』
と、本人が述べるほど、エルミの幼少期は過酷な環境だったという。
マフィアの構成員とはいえ無職同然の収入である父は賭博から負けて帰ってくると、決まって機嫌の悪さを暴力へと昇華し、母へ日常的に手をあげていた。
この時既に父から母へ向けての愛情は、エルミが生まれてから程なくして冷めきった物となり、何度も浮気を繰り返していたという。
そんな家庭内暴力の矛先が子へ向かわないのは、エルミが物心を付き始めた頃から父の顔色を伺い、観察し、見極め、機嫌を損なわせないようにする術を殴られる母を見て学んでいたからである。
『――今思えば私が尋問士たる由縁はそこに有るんでしょうね。今では対面した人物の感情、精神状態が手に取るように解ってしまうんです。嫌って言うほどに、ね』
と、エルミは語る。
一方で母は収入の無い父を盲目的に愛していたため、十代ながら娼館で働き、死に物狂いで金を稼いでいた。
しかしエルミが三歳を迎える頃には既に精神が病みきってしまい、当時フルコタ市で流行していた違法薬物に手を染め、敢えなく中毒となってしまう。
そんな二人の下で育ったエルミ。
まともな愛情どころか、満足に食事も与えられていなかったため、身体はひどく痩せ細っていたという。
更には服すら買い与えてもらえず、サイズの合わない親の古着を着て生活をしていたとか。
四歳になった頃には元々あった父の浮気癖に拍車が掛かり、母が仕事で家を空けている間、家に他の女を連れ込みエルミが居るにも関わらず性交に及んでいたという。
行為の間中エルミは父にクローゼットへ押し込まれ、耳を塞ぎ、目を固く瞑りながら静かに時間が過ぎるのを待っていた。
『――地獄でしたね、あの時間は。"早く終わってくれ"と何億回祈ったことか』
母はというと、育児・仕事・家庭内暴力からくるストレス過多から少しでも逃れようと、薬物の使用量を更に増やし腕には注射の痕が絶えなかった。
エルミが五歳を迎えた年の、そんなある日のこと。
父の浮気が遂に発覚したのだった。
母は裏切られた愛情を追及の言葉に変え、烈火の如く捲し立てる。
しかし父は反省の色を一切見せずに、拳で無理矢理と母を黙らせた。
そしてそのまま家を飛び出し、二度と帰ってくることは無かったのだった。
『――頭頂から爪先に至るまでとことんクズな男でしたよ。まあ、もう何処かで野垂れ死んでいるんでしょうけど』
エルミが語るように、父のその後は20年以上経った現在でも消息が掴めていないとか。
取り残された母と子。
泣き崩れ、悲嘆に暮れる母。
一方のエルミは、父が出て行った事に対し、密かに喜んでいた。
もう怯えながらの生活をせずに済むのと、大好きな母と二人で暮らせると思ったからだ。
母から愛情など殆ど与えてもらっていなかったが、それでも最低限生きていく為の環境を整えてはくれた。
僅かながらの無償の愛によって、エルミは母にだけは好意を持っていたのだ。
しかし、父が出て行って一月程が過ぎたある日。
その日の母は仕事が休みで、朝から浴びるように酒を飲んでいた。
一瓶、また一瓶と栓が開けられていき、酔いが回り気が昂ったのか、エルミに対しふと本音を溢す。
『――アンタ、女に産まれてくれば良かったのにね』と。
その言葉は、我が子が生まれてきた事を否定するものだった。いくらエルミがまだ幼いとはいえ、言われた内容の意味は理解できただろう。
――だが、エルミは絶望しなかった。
それどころか、その言葉がエルミの暗澹とした人生に射し込まれた一筋の光――生きる希望となったのだ。
『――そうか、僕は女の子になればもっとお母さんに愛してもらえるんだ』
エルミにとって母の存在は親であり、神だ。
勝手に家から出る事を許されず、この狭い空間の中で、母の言いつけだけを守って生きてきた。
母が言う事は絶対だ。
そう信じて疑わなかったエルミは、その瞬間を境に、母から貰った言葉だけを便りに生きていこうと決めたのだった。
言葉を受けたエルミは、ふと思い付いたようにだぼついていた自身の服を鋏で刻み始めた。そしてそれをスカートのように見立ててみせると――。
『――お母さん、見てよ。女の子みたいでしょ?』
生まれてからほとんど動かすことのなかった表情筋で慣れない笑顔を作りながら、母へと自作の服を見せ付けるエルミ。
母は酒のおかげで陽気になっていたのか、笑ってくれた。
エルミに向けて初めて見せた笑顔といって良いだろう。
かつてない程の幸福感を覚えたエルミは、これが愛情なのか、と錯覚をする。
そして、その瞬間からエルミは、自身の性別を女だと思い込むようにしたのだ。
――全ては母を喜ばせ愛情を賜るため、という一途な思い。
今まで自らで切っていた髪を伸ばし、母の化粧品を拝借して化粧の練習を始めたり、見た目を少しでも女に近付けようとエルミは五歳ながら努力を続ける。
母はそんなエルミの姿を見て、なぜ急にそんな事をするようになったのか解らず、気でも狂ったのかとさえ思う。酔っている間の何気ない一言など記憶に無かったからだ。
結局それからしばらくの期間、エルミがどれだけ女の子らしく振る舞っても、母は喜ぶ素振り一つすら見せることは無かった。
が、エルミは疑問に思うことなく、ひたすら邁進する。
『――僕の努力が足りないからだ』
それもそのはず、根本の間違いに気付けず、それどころか自身を過度に追い込んでしまっていたのだ。
『――どうすれば、どうすれば喜んでもらえるのだろう』
その歪んだ努力はやがて、悲劇を呼ぶ引き金となってしまう――。
――エルミが六歳を迎えた春。
髪を伸ばし、化粧も覚え、自作の女児服に身を包んだ少年。試行錯誤の果てとはいえ、常軌を逸した行動に出る――。
その日は母が仕事だった。
エルミは"ある"考えを携え、母の帰りを心待ちにしていた。
そして母が帰宅をすると、エルミはおもむろに下半身に着用していた衣服を脱ぐ。
母は息子の奇行に怪訝な表情を浮かべるが、エルミはお構い無しと言った風に意気揚々と手に持っていた鋏を陰部に近付け――。
――切断してみせたのだ、男性の象徴とも言うべき部位を。
筆舌に尽くしがたい激痛。
断面からは鮮血が勢い良く――。
普段は我が子に対し全く関心を示さなかった母だが、今回ばかりは違った。
息子の奇行――いや、凶行とも言える行為に対し、どうしていいかわからずパニックに陥る。
しかし当の本人であるエルミは泣き叫んだりする事なく、目の端に涙を浮かばせながら、母に向けて震えた声で――。
『――お母さん。これで僕、女の子になれたよ』
激痛を堪え、精一杯の笑顔を振り撒く。
そして息子のその言葉で、母は全てを悟る――というより、気付いてしまう。
息子に"ここまで"させたのは他ならぬ、自分だ。
碌に愛情も与えず、関心も持たず、ただ傍に置いているだけ。
望んで身籠ったわけではない。それどころか、出て行ったあの男に愛想を尽かされたのも妊娠をしたからだとさえ思っていた。
娘が欲しかったというのも、好色家や娼館へ高額で売り飛ばすつもりだったからだ。
――何故、もっと優しく、もっと愛してあげれなかったのだろう。
一斉に去来した後悔と反省。
母はエルミを強く抱き締め、泣いた。
ごめんなさい、ごめんなさいと。
何度でも、何度でも。
その後、エルミは病院に搬送された。
治療を終えると医士から命に別状は無いと診断され、数日の入院で傷は癒えるとのこと。
しかし、切除された男性器を元に戻すことは叶わず、母は悲嘆する。
一方でエルミは、これからは母と仲良く暮らせると楽観視し、退院を心待ちにしていた。
そして数日後、病院のベッドの上で数日を過ごしたエルミは退院日を迎える。
だが、自宅から数百ヤールト程しか離れていない病院にも関わらず、母は迎えに来なかった。
営業時間を過ぎても母は現れず、病院側は仕方ないと判断し、看護士を一人付き添わせてエルミを自宅へと送る。
夜が浅い時間帯。家の前まで送られたエルミは、看護士を背に玄関の扉を開く。
家の中は薄暗く、誰かが居る気配は無い。
きっと仕事中なのだろうとエルミは判断したが、一つしかない部屋まで進んでみると、何かが天井からぶら下がっているのが窺えた。
灯飾を点けると、その"何か"の正体が判明する。
――天井からぶら下がっていたのは、ロープで首を吊った母だった。
玄関に立っていた看護士が悲鳴を上げる。
しかし、エルミは無言で冷たくなった母を虚ろな眼差しで見据えるだけ。
『――不思議と、悲しくなかったんですよね。どうして、とも思いませんでしたし、本当に思考が"無"になっちゃったんですよ。それが何故なのかはわかりませんが……』
当時を振り返り、彼は語る。
『――結局私って、母が好きだったのではなく、ただ愛情に飢えていただけなんでしょうね』
『――今? 今は……そうですね。"人間"は大好きですよ。個人毎に多種多様な性格、独特な癖や仕草、尋問時に於ける僅かな機敏などを観察するのは楽しくて仕方がありませんからね』
母の亡き後、エルミは孤児となり、施設での生活を余儀なくされる。
性器を失った影響か心境の変化によるものなのかは定かでは無いが、成長期に至ったエルミはホルモンバランスの狂いから身体が華奢に成長し、顔立ちも女の子らしく変化していってしまう。
孤児施設へ入所してから約一年半、エルミは年齢に見合った学力と、今まで親から一切教わってこなかった一般教養や道徳を身に付ける。
エルミの学習能力は凄まじく、施設に勤める教士役の人物が目を見張る程だったという。
そして、本来なら六歳で入学の義務がある学園へ、エルミは八歳から入学する。
施設に入るまで他人とのコミュニケーションを一切して来なかったのと、その特異な見た目のおかげもあり人間関係の構築に若干戸惑ってはいたが、トップクラスの成績で無事に卒業を迎えることができた。
卒業後は軍へは入隊せず、"心療士"という、病人へのメンタルケアを主としたカウンセラーの資格を取得し、ひっそりと働く。
が、人間の心理を知り尽くしたその類い稀なる観察眼は訪れた患者を通じて徐々に話題となり、ゼレスティア軍の者の耳へと届くことに。
ヘッドハンティングに対し二つ返事で快く応じた彼は、19の若さで軍お抱えの心療士と栄転する。
しかしエルミの観察眼は既に心療士としての枠に収まりきらず、尋問士への転向を軍の上層部から奨められ、彼は素直に応じた。
そして27歳になった年。親衛士団が発足され、エルミは諜報を生業とする身でありながら、団員に見事抜擢される快挙を成し遂げたのだ。
『――そこから先は皆さんのご存知の通り、"嫌われ者のエルミ"の誕生ですよ』
『――まあ、嫌われる事に関しては慣れてますし、いいんですけどね』
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国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。
そして宣言される、前代未聞のルール。
支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。
処刑台は舞台へ。
断罪はエンタメへ。
悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。
これは、
処刑されるはずだった悪役令嬢が、
“ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。
支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、
それとも――自由か。
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