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疑心暗鬼を生ず
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夫婦生活が長くなると顔を向けない会話が増えてしまいがちだ。ましてや共働きともなればすれ違いも多くなる、なおさらだ。顔を向けず、言葉だけを聞いて返事だけをする。
お互いが目を合わせることをしなくなってから、どれ程の月日が経つのかなどは考えたことさえ無かった。あの日までは……
「今日も遅くなるんだってよ。まったく今の仕事になってから定時に帰ったことなんてありゃしないんだから」
夜勤に出かけるところを母に呼び止められた。
「そう言うなって。こうやって働けるのも、母さんが娘を見てくれるからだって感謝していたよ」
「まぁあの子は素直でいい孫だし、困らせることなんてこれっぽっちも無いが、……こんなこと言いたくはないが、お前が夜勤の日にはいつも帰りが遅いんだ、何をしているんだか。ああ見えて端から見たら綺麗な人だ、あんたがしっかりしないと」
「しっかりしないとなんだ?」
妻の行動を疑ったことなどなかったが言われてみれば確かにそうだった。派遣社員をしていた頃は常に定時に仕事を終えていたから、食事の支度や家事の時間、娘をみてやる時間等は彼女なりに作れていたし、夜の営みだって。
今の仕事になってからはどうだ。当初パートでいた時分は然程気にならなかったが、念願の正社員に昇格した途端に会社の拘束時間がルーズになった。急遽残業を言い渡されたからと、帰宅が夜の10時を回るのも珍しいことではなかった。私も丁度、中間管理職に上がったばかりで、何時の間にやらお互いすれ違いの時間が増えた。仕事の忙しさにかまけてコミュニケーションを怠っていた、と言えば簡単な話だ。家の事は母に任せていたし、小学2年生の娘に手が掛かることは無くなった。
まさかな。夜勤のあいだ疑念が脳裏を渦巻いた。帰路につく頃には暗鬼が牙を剥き、私は、私が知らない妻の日常を見てみたくなった。
家に着くと気がつけば妻の洋服箪笥の前に立っていた。取っ手に指を掛けおもむろに開ける。見慣れぬ服ばかりが目にとまった。……いやいやそうだ、外回りの仕事だ仕方あるまい……
心を落ち着かせ苦笑いをしながら視線を落とすとジュエリーボックスが視界に映り開けてみた。中にはブランド物の小物が数点入っている、しかし其処には目を疑いたくなるものまであった。きらびやかな品に追いやられるかのように結婚指輪が奥の隅っこにじっと佇んでいた。
なぜ此処にある……自分の薬指を見やった。私は一度たりとも外したことなどないのに妻はなぜ。狼狽える私はチェストの引き出しを上から順番に開けていた、ただひとつの目的をもって。その行為が結果、己の心をどれ程傷つけようとかまやしない。暴走する猜疑を抑えることが出来ずにいた。
いちばん下にそれはあった。蓋付きの収納ボックスがひっそりと隠すように。大小の仕切りに合わせ色とりどりのそれらは納められていた。黒、赤、パープル、ピンク、花がら。間違わぬ様にと上下ペアで、それはそれは綺麗に並んでいたのだ。
震える手でパープルのショーツを取り出し、あの独特の滑らかな感触を確かめるかのように、指を這わせながら広げる。
なんて小さいんだ。鼠径部以外は前後が繊細なレースの透かし織り。ウエスト部分は左右が二本の紐になっている。カップを折り合わせた同色のブラも広げてみると同様にレースの細工が施されていた。
ふと脳裏にそれらをつけた妻の姿が浮かんだ。刹那、私の理性は闇に消え失せた。
妄りがましい紫を纏った妻は妖艶に微笑し、こちらに顔を向け近づいてくる。膝を曲げながら片足を上げゆっくりと。まるで、一本の白線に沿って歩を進めるかのように、動作に乱れ無く、音も立てずただゆっくり。その視線の先に映るのは、無論私ではない。振り返ると真っ黒な影が白い歯だけを見せながらニヤついていた。
私の横を素通りした彼女は黒い男の前に立つと、しなやかに伸びる両手をそいつの肩に乗せ、掌を返し、赭封蝋を垂らした如くメイクした爪先を肌に滑らせそっと下に落としながら、物欲しそうな目で誘っている。
疑念を孕んだ妄想というものは斯くも心の均衡を崩壊させてしまうものなのか。もと通りに下着を仕舞えたかなどは覚えていない。いわんや頭を抱え膝を折る私に、そんな意識などあろう筈もない。
その夜妻には何も聞けなかった。背中を向け眠る妻を横目に一晩中酒を浴びた。
妻は私の行動をわかっていたのであろうが何も聞いてはこなかった。明らかに証拠をその場に残していたし、仕事から帰った妻はそれを目の当たりにしている筈なのだ。が、私にとっての不都合な真実は闇の中に置去りにされたかのように、顔を合わさぬ会話、すれ違いの生活、これまで通りの日常が其処にはあった。ただひとつ変わったものは私の心に点った疑念の火。これだけは到底消すことなどできぬ。以後、妻の一挙手一投足に対し、異常なまでの関心をもって観察することとなった。
了
お互いが目を合わせることをしなくなってから、どれ程の月日が経つのかなどは考えたことさえ無かった。あの日までは……
「今日も遅くなるんだってよ。まったく今の仕事になってから定時に帰ったことなんてありゃしないんだから」
夜勤に出かけるところを母に呼び止められた。
「そう言うなって。こうやって働けるのも、母さんが娘を見てくれるからだって感謝していたよ」
「まぁあの子は素直でいい孫だし、困らせることなんてこれっぽっちも無いが、……こんなこと言いたくはないが、お前が夜勤の日にはいつも帰りが遅いんだ、何をしているんだか。ああ見えて端から見たら綺麗な人だ、あんたがしっかりしないと」
「しっかりしないとなんだ?」
妻の行動を疑ったことなどなかったが言われてみれば確かにそうだった。派遣社員をしていた頃は常に定時に仕事を終えていたから、食事の支度や家事の時間、娘をみてやる時間等は彼女なりに作れていたし、夜の営みだって。
今の仕事になってからはどうだ。当初パートでいた時分は然程気にならなかったが、念願の正社員に昇格した途端に会社の拘束時間がルーズになった。急遽残業を言い渡されたからと、帰宅が夜の10時を回るのも珍しいことではなかった。私も丁度、中間管理職に上がったばかりで、何時の間にやらお互いすれ違いの時間が増えた。仕事の忙しさにかまけてコミュニケーションを怠っていた、と言えば簡単な話だ。家の事は母に任せていたし、小学2年生の娘に手が掛かることは無くなった。
まさかな。夜勤のあいだ疑念が脳裏を渦巻いた。帰路につく頃には暗鬼が牙を剥き、私は、私が知らない妻の日常を見てみたくなった。
家に着くと気がつけば妻の洋服箪笥の前に立っていた。取っ手に指を掛けおもむろに開ける。見慣れぬ服ばかりが目にとまった。……いやいやそうだ、外回りの仕事だ仕方あるまい……
心を落ち着かせ苦笑いをしながら視線を落とすとジュエリーボックスが視界に映り開けてみた。中にはブランド物の小物が数点入っている、しかし其処には目を疑いたくなるものまであった。きらびやかな品に追いやられるかのように結婚指輪が奥の隅っこにじっと佇んでいた。
なぜ此処にある……自分の薬指を見やった。私は一度たりとも外したことなどないのに妻はなぜ。狼狽える私はチェストの引き出しを上から順番に開けていた、ただひとつの目的をもって。その行為が結果、己の心をどれ程傷つけようとかまやしない。暴走する猜疑を抑えることが出来ずにいた。
いちばん下にそれはあった。蓋付きの収納ボックスがひっそりと隠すように。大小の仕切りに合わせ色とりどりのそれらは納められていた。黒、赤、パープル、ピンク、花がら。間違わぬ様にと上下ペアで、それはそれは綺麗に並んでいたのだ。
震える手でパープルのショーツを取り出し、あの独特の滑らかな感触を確かめるかのように、指を這わせながら広げる。
なんて小さいんだ。鼠径部以外は前後が繊細なレースの透かし織り。ウエスト部分は左右が二本の紐になっている。カップを折り合わせた同色のブラも広げてみると同様にレースの細工が施されていた。
ふと脳裏にそれらをつけた妻の姿が浮かんだ。刹那、私の理性は闇に消え失せた。
妄りがましい紫を纏った妻は妖艶に微笑し、こちらに顔を向け近づいてくる。膝を曲げながら片足を上げゆっくりと。まるで、一本の白線に沿って歩を進めるかのように、動作に乱れ無く、音も立てずただゆっくり。その視線の先に映るのは、無論私ではない。振り返ると真っ黒な影が白い歯だけを見せながらニヤついていた。
私の横を素通りした彼女は黒い男の前に立つと、しなやかに伸びる両手をそいつの肩に乗せ、掌を返し、赭封蝋を垂らした如くメイクした爪先を肌に滑らせそっと下に落としながら、物欲しそうな目で誘っている。
疑念を孕んだ妄想というものは斯くも心の均衡を崩壊させてしまうものなのか。もと通りに下着を仕舞えたかなどは覚えていない。いわんや頭を抱え膝を折る私に、そんな意識などあろう筈もない。
その夜妻には何も聞けなかった。背中を向け眠る妻を横目に一晩中酒を浴びた。
妻は私の行動をわかっていたのであろうが何も聞いてはこなかった。明らかに証拠をその場に残していたし、仕事から帰った妻はそれを目の当たりにしている筈なのだ。が、私にとっての不都合な真実は闇の中に置去りにされたかのように、顔を合わさぬ会話、すれ違いの生活、これまで通りの日常が其処にはあった。ただひとつ変わったものは私の心に点った疑念の火。これだけは到底消すことなどできぬ。以後、妻の一挙手一投足に対し、異常なまでの関心をもって観察することとなった。
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