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1972年8月 銀座
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真夏の夕刻、東の空が藍色に染まる頃、夜の街が目を覚ます。銀座の街に灯りが灯り始めていた。
贅沢に冷房を効かせた高級クラブ胡蝶のホールでは開店準備が進んでいた。
「今夜は、商談のお客様が二組入られてます。わたくしもテーブルに着きますが、園子ちゃん、美菜子ちゃん、よろしくお願いしますね」
「はい」
「承知いたしました」
「それからーー」
浅葱色の紗袷わせの着物を着たエミコママの姿に場は締まる。業務連絡をする澄んだ美しい声が、ホール内に柔らかに響き、着飾ったホステス達は真剣な表情でママの話を聞いていた。
「最近、同伴が増えました。同伴は確かに個人の売上に直結します。だからといって、決して自分を安売りしてはいけません。あなた達は大事はこの店のスタッフで、わたくしの大切な娘達です。自分を大切にする事は忘れないでくださいね」
しめやかに優しく響くママの言葉にホステス達は深く頷いていた。
「では、今夜もいらしてくださったお客様に夢をお見せしましょう」
ホステス達の「はい」という返事があり、華やかな声がホールに満たされると、ボーイの一人がエミコママに耳打ちした。
「ママ、お電話です。事務所の直通に掛かってきました」
「事務所に? どなた?」
「女性の方で、津田と名乗られました」
ママの顔色がサッと変わった。
「ちょっと外します。園子ちゃんにお願いしておいて」
「かしこまりました」
恭しく礼をするボーイに軽く会釈してママはホールから下がった。
「ママ、ごめんなさい。私です、舞花です」
「舞花……」
三年前、許されざる相手と駆け落ちし縁切れ状態に近かった娘からの電話だった。話したい事は山ほどあった。けれど今はまず、とエミコは深呼吸した。
「元気にしてるの。生活は大丈夫なの」
怒られるか、電話を切られるかと思っていたのだろう。舞花はエミコの思いがけない優しい声と言葉に電話口で泣き出した。
エミコは、ふぅ、とため息を吐く。
「舞花は、どんな事があってもわたくしの娘よ。出て行く時にそう話したでしょう。離れていても、音沙汰無くても、ずっと気にかけている。親というのはそういうものよ」
〝親というのは〟
エミコと舞花の間でその言葉は特に大きな意味を持っていた。
「ありがとう、ママ、ありがとう」
舞花の涙声を聞きながらエミコは優しく続けた。
「恵太さんは、元気にしている? あなた達、生活は?」
泣いた事による声の震えとしゃっくりを抑えながら舞花はゆっくり応えていく。
「恵太さんは元気よ。本当に逞しい。頭も良いから、今では村のみんなが恵太さんの知恵を借りに来るくらい。お陰で、役場で使って貰えるようになったのよ。凄いでしょう」
舞花が心から愛し尊敬する相手との暮らしをしている様子が伝わり、エミコは微かな安堵を覚えた。
津田恵太と舞花の婚姻関係は決して許されないものだ。今でも手放しに認めている訳ではない。
だけど、実父の認知もなく実母もいない舞花が幸せに暮らせるのなら、とエミコは思い始めていた。
「あなただって恵太さんと同じ血を引いているのだから、自信をお持ちなさい」
遠回しではあるが、忘れてはいけない事実はさり気なく伝えておく。舞花は静かに「はい」と応えた。
聡明な娘なら言いたい事は分かるだろう。
「それで、今日は大事な話があるから電話をしてきたのね」
エミコは、舞花が話しやすいよう会話を切り替えた。電話の向こうでゴクリと固唾を吞む気配があった。恐らく、切り出すのに勇気がいる内容なのだろう。
何だろう。胸騒ぎがする。
エミコは受話器を握り直した。
「ママ、落ち着いて聞いてね。先ず、結論から話すね」
話す事は一つではないのか。身構えたエミコは目を閉じ舞花の声を聞く。
「姫花が、赤ちゃんを産みました」
姫花とは、エミコのもう一人の娘だ。その娘が子供を産んだ。それだけで衝撃なのに、これ以上何が、と急く鼓動を抑えるエミコに舞花は言葉を選びながら話し始めた。
「その子供は、私が引き取って育てる事になりました。これは、血の繋がらない私を舞花と分け隔てなく育ててくれたママへの恩返しの意味もあるの。返しても返し切れないママへの恩はこんな形でもないと返せない。だから、私は姫花の子供を引き取る事に決めたの」
恩なんて感じなくていい、と言いたかったエミコだが、それ以上に引っ掛かる部分が大き過ぎた。
「姫花は、どうして自分の子を自分で育てないの?」
言いながら、何かを予感していた。
同じなのではないのか、舞花を引き取った状況と。
舞花の答えまでに、間があった。重い沈黙だった。エミコは覚悟する。
「姫花は、育てられなくなってしまったから。ママ、あのねーー」
涙に震える声が、エミコの中に落とされていった。
贅沢に冷房を効かせた高級クラブ胡蝶のホールでは開店準備が進んでいた。
「今夜は、商談のお客様が二組入られてます。わたくしもテーブルに着きますが、園子ちゃん、美菜子ちゃん、よろしくお願いしますね」
「はい」
「承知いたしました」
「それからーー」
浅葱色の紗袷わせの着物を着たエミコママの姿に場は締まる。業務連絡をする澄んだ美しい声が、ホール内に柔らかに響き、着飾ったホステス達は真剣な表情でママの話を聞いていた。
「最近、同伴が増えました。同伴は確かに個人の売上に直結します。だからといって、決して自分を安売りしてはいけません。あなた達は大事はこの店のスタッフで、わたくしの大切な娘達です。自分を大切にする事は忘れないでくださいね」
しめやかに優しく響くママの言葉にホステス達は深く頷いていた。
「では、今夜もいらしてくださったお客様に夢をお見せしましょう」
ホステス達の「はい」という返事があり、華やかな声がホールに満たされると、ボーイの一人がエミコママに耳打ちした。
「ママ、お電話です。事務所の直通に掛かってきました」
「事務所に? どなた?」
「女性の方で、津田と名乗られました」
ママの顔色がサッと変わった。
「ちょっと外します。園子ちゃんにお願いしておいて」
「かしこまりました」
恭しく礼をするボーイに軽く会釈してママはホールから下がった。
「ママ、ごめんなさい。私です、舞花です」
「舞花……」
三年前、許されざる相手と駆け落ちし縁切れ状態に近かった娘からの電話だった。話したい事は山ほどあった。けれど今はまず、とエミコは深呼吸した。
「元気にしてるの。生活は大丈夫なの」
怒られるか、電話を切られるかと思っていたのだろう。舞花はエミコの思いがけない優しい声と言葉に電話口で泣き出した。
エミコは、ふぅ、とため息を吐く。
「舞花は、どんな事があってもわたくしの娘よ。出て行く時にそう話したでしょう。離れていても、音沙汰無くても、ずっと気にかけている。親というのはそういうものよ」
〝親というのは〟
エミコと舞花の間でその言葉は特に大きな意味を持っていた。
「ありがとう、ママ、ありがとう」
舞花の涙声を聞きながらエミコは優しく続けた。
「恵太さんは、元気にしている? あなた達、生活は?」
泣いた事による声の震えとしゃっくりを抑えながら舞花はゆっくり応えていく。
「恵太さんは元気よ。本当に逞しい。頭も良いから、今では村のみんなが恵太さんの知恵を借りに来るくらい。お陰で、役場で使って貰えるようになったのよ。凄いでしょう」
舞花が心から愛し尊敬する相手との暮らしをしている様子が伝わり、エミコは微かな安堵を覚えた。
津田恵太と舞花の婚姻関係は決して許されないものだ。今でも手放しに認めている訳ではない。
だけど、実父の認知もなく実母もいない舞花が幸せに暮らせるのなら、とエミコは思い始めていた。
「あなただって恵太さんと同じ血を引いているのだから、自信をお持ちなさい」
遠回しではあるが、忘れてはいけない事実はさり気なく伝えておく。舞花は静かに「はい」と応えた。
聡明な娘なら言いたい事は分かるだろう。
「それで、今日は大事な話があるから電話をしてきたのね」
エミコは、舞花が話しやすいよう会話を切り替えた。電話の向こうでゴクリと固唾を吞む気配があった。恐らく、切り出すのに勇気がいる内容なのだろう。
何だろう。胸騒ぎがする。
エミコは受話器を握り直した。
「ママ、落ち着いて聞いてね。先ず、結論から話すね」
話す事は一つではないのか。身構えたエミコは目を閉じ舞花の声を聞く。
「姫花が、赤ちゃんを産みました」
姫花とは、エミコのもう一人の娘だ。その娘が子供を産んだ。それだけで衝撃なのに、これ以上何が、と急く鼓動を抑えるエミコに舞花は言葉を選びながら話し始めた。
「その子供は、私が引き取って育てる事になりました。これは、血の繋がらない私を舞花と分け隔てなく育ててくれたママへの恩返しの意味もあるの。返しても返し切れないママへの恩はこんな形でもないと返せない。だから、私は姫花の子供を引き取る事に決めたの」
恩なんて感じなくていい、と言いたかったエミコだが、それ以上に引っ掛かる部分が大き過ぎた。
「姫花は、どうして自分の子を自分で育てないの?」
言いながら、何かを予感していた。
同じなのではないのか、舞花を引き取った状況と。
舞花の答えまでに、間があった。重い沈黙だった。エミコは覚悟する。
「姫花は、育てられなくなってしまったから。ママ、あのねーー」
涙に震える声が、エミコの中に落とされていった。
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