舞姫【後編】

友秋

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1993年10月 新宿

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 みちるが九歳の誕生日を迎えた日、母の舞花は天使のペンダントを外すとみちるの手の平にのせた。

『わぁ、お母さん、これ!』
『みちるにあげる』
『え、いいの!?』

 みちるの小さな手の平で小さな愛らしい天使のペンダントが柔らかな光を放っていた。舞花は柔らかく微笑み頷く。みちるの大好きな、母の笑顔だった。

『大人になったら、みちるにあげるつもりだったのよ。ちょっと早いけど、いいわよね。大事にしてね』

 心を優しく包み込む母の声はいつもみちるを幸せにしてくれた。

 赤い石を抱く微笑みの天使のペンダントだ。天使の優しい表情は母と重なった。

『みちる、この天使には秘密があるのよ』

 舞花は肩を竦めてほんのちょっといたずらっぽい笑みを見せた。

『ひみつ?』

 首を傾げたみちるに、舞花は長い髪をアップにする為に使っていた一本のヘアピンをスッと抜き取った。サラッと艶めく黒髪が解かれ、美しい姿をみちるはうっとりと眺める。

 典雅な笑みを見せた母は、ペンダントの乗ったみちるの手をしなやかに取り、ヘアピンの先で天使が抱える小さな赤い石をキュッと押した。

 直後、微かなカチリ、という音と共に天使がーー、



「みちるーー!」
「探したんだぞ!」

 病室のドアがいささか乱暴に、勢い良く開いた。

「静かにしてください! ここは病室ですよ!」

 飛び込んで来た男二人は即刻病室から引き摺り出され、廊下で看護婦の説教を受けていた。

 ベッドの上で起き上がり窓の外を眺めていたみちるはあまりにも突然の事だった為、何が起きたのか分からず呆然としていた。


†††

「ああ、どうやら俺達がどうにかする前に何かがあったらしくてさ、別れたみてーだ」

 星児は病院玄関を出たところで携帯電話で話しを始めていた。

 街中の病院は甲州街道沿いに建っていた。玄関前に置かれたベンチに座った星児の目の前をひっきりなしに車が行き交う。灰皿が置かれ喫煙スペースとなっているようだったが、星児は煙草を取り出す事は無かった。

「別れたのは、やはり本当だったのか」

 電話の相手、御幸右京がゆっくりと応え、星児は怪訝そうに眉根を寄せる。

「なんだ、知ってるのか」

 御幸は静かに息を吐いたようだった。

「実は、今家に来ている。彼から直接聞いたのだ」
「なに」

 星児の中で怒りに似た感情が湧き起こる。

 ソイツを今直ぐに俺の前に連れて来い!

 のど元まで出てきていた言葉を呑み込んだ。感情を懸命に抑え、星児は話す。

「みちる、先週末にソイツに会った後三日も行方不明になった」

 御幸が息を呑んだのが分かったが、星児は続ける。

「ソイツ、みちるに何かひでぇ事言ったんだ。そうじゃなきゃあんな」

 先週末、みちるの元に武明が迎えに来、出かけた。麗子が一部始終を知っている。

 大抵は、共にするのは一夜のみで必ず翌日には帰って来た。もし予定が伸びれば必ず連絡を入れてきた。

 今回は、連絡も無く、三日経っても帰って来なかったのだ。

 相手の男の連絡先を知る者はいない。みちるからの連絡も無い。

 星児も保も真っ青になった。麗子も、何も言わず、何も聞かずに見送ってしまった事に責任を感じ焦り始めた頃、警察から香蘭劇場に連絡が入ったのだ。

 警察の話によると、雨降る夜に新宿駅の東口で倒れていたという。意識も無く、救急車で運ばれ、三日も眠り続けた為、身元の確認が遅れたと事だった。

 みちるは真っ先に、迷惑を掛けた劇場に連絡する事望み、星児と保事を警察に話さなかった。

 何故か。みちるなりの遠慮か、意地かプライドか。

 首を振るだけで何も話さないみちるに保は言った。

『みちるが話せる気持ちになれるまで俺達は待つから、安心して身体を治すんだ』

 星児の話を聞き、御幸が言う。

「私の所に来ている彼も、みちるとは別れた、と話すだけで詳しい事は何も話さないのだよ」
「そうか」

 何があったんだ、みちる。

 黙ってしまった星児に、御幸はフッと笑った。

「どちらも、事情に関しては決して口を割らないつもりらしいね」
「そのようだな」

 星児が小さくため息をつくと、御幸が切り出した。

「あの契約だが、無効になったわけではない。君が提示した条件に関しては、約束通り遂行する」

 御幸の言葉に星児は、思わず腰を上げた。

 みちるがこんな事になり、御幸と交わした契約の事を忘れていた。

「じゃあ……」

 逸る星児に、電話の向こうで微かな苦笑いを浮かべているであろう御幸が想像出来る。

「ただ、多忙な方でね。日本にはあまりいない。だから直ぐにとはいかないが」
「それは覚悟はしてる。恩に着るぜ」

 一分程の沈黙を置き、御幸が口を開いた。

「みちるは」
「ああ、三晩も眠り続けてたらしいけど、体調はもう大丈夫だ」
「それは、良かった――」

 御幸の声からは、心からの安堵が伝わる。星児は思う。

 本当に愛した女の娘なら、例え父親がどんなに憎い相手でもこれほど愛せるものなのか。俺にはよく分かんねーな。

 その後、二言三言みちるの状態を伝え、星児は電話を切った。

 携帯を暫く見つめ、御幸からみちるの出生の秘密を聞かされた夜の事を思い出していた。
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