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私書箱から
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池袋駅西口はここ数年で開発が進み、明るい公園が出来て治安も良くなったが、一本路地を入ればまだ年季の入った雑居ビルの並ぶ昭和風情が残っている。
入り口に、一つも名札の入っていない郵便ポストが出迎える一見廃墟のようなビルの中に入ると、古いエレベーターの扉が待っていた。ホールの蛍光灯はチカチカと瞬いている。
黄色のペンキが所々禿げている扉の前に立った保は、考えた。
このエレベーターに乗るべきか乗らぬべきか。そういや、前に来た時も同じ事を考えたな。閉じ込められたら敵わない。保はエレベーター隣の階段で上階に向かった。
最上階、とは言っても四階の隅に私設私書箱はあった。
重い鉄扉を開けると、壁に囲まれた狭いスペースがあり郵便ポストの口程の小窓しかない受付カウンターがあった。互いの顔が見えないようになっている。
契約も書類すらも残さない私書箱だ。ただ一つだけの暗号のみが鍵となる。
「預けか、引き取りか」
しわがれた男の声が壁の向こうからした。
「引き取りだ。a30bz5035r6」
保が言うと男は奥へと入っていき、数分で戻ってきた。
「これで全部だ」
男が持ってきたのは、厚さ五センチ強にもなろうかと玉紐付きの茶封筒だった。
「これを引き取れば私書箱の契約は切れる。どうする」
保は少し考え、聞いた。
「保管料はどうなっている」
男は「二十年分完済している」とだけ答えた。
いつからの二十年で、いつで切れるのかは答えないつもりらしい。なるほどな、と保は理解した。
「引き取って契約終了で」
封筒に入っていたのは、分厚い資料を綴じたファイルだった。
息をするのも忘れ、見入っていた保は、傍に置いてあった携帯に手を伸ばす。即座にある男にかけた。
「あ、柏木?」
数回の呼び出し音で出たのは良いが、電話の向こうが騒がしい。
今夜は金曜日だ。そうか、呑んでいたか、と保は心中で舌打ちをする。
「おぅ、兵藤! どした?」
ほろ酔い加減のご機嫌な声を返してきたのは通産省の官僚、保が密偵として重宝する柏木だった。
「今何処で呑んでる? キャバクラとかじゃぁねーよな」
保は電話の向こう、柏木の周囲の音に耳を澄ます。恐らく居酒屋か何かだ。
「キャバクラは最後のお楽しみ~。お前も来るか?」
楽しそうな柏木の返答に「いや、いい」と保は即答。
「そうかぁ?」と言いつつも、柏木は今いる店を教えてくれた。喧騒に包まれる居酒屋系の飲食店だった。官僚とは言え、元々庶民派なのだ。
多少の酒が入ってはいるが案外しっかりしているようだった。
良かった少し話せそうだ。
「ちょっと聞きたい事があって電話したんだよ。今少しいいか?」
「大丈夫だけど。聞きたい事?」
「ああ。今年の始めにお前に調べてもらってた事、ちょっと詳しく。今分かるだけでいいんだけどさ」
保は書類を捲りながら話し始めた。
「二十一年前にあった、デッカイ化学工場誘致の際の、不正融資疑惑の件」
記憶を辿っている様子だった柏木が、ああ! と声を上げた。
「お前、超ラッキー」
は? と保が聞き返す。
「俺が今一緒に呑んでるのがあん時に話してた生き字引みたいな資料室のオジサン。お前から依頼されたのを調べるようになってから妙に意気投合しちまってさー」
柏木は、通産省を隅々まで知る定年間際の男と電話を変わってくれた。
はじめまして、と始まった、男との会話。声が掠れ気味で渋みがあり、容姿は分からないが実年齢以上の雰囲気が感じ取れた。
「あの郡司武の名前を出したのは君か」
はい、と答えながら保は思う。こんな落ち着いた男と、柏木のヤツはどう意気投合したんだ? と。
くだらない疑問は頭の片隅に追いやり、保は話す。
「ちょっと彼の事を知る機会があって調べてます」
詳しく説明など出来ない。保は言葉を濁しながら話を先へ進めた。
「その事件の当事者は違う方ですよね?」
「ああ。津田恵太な」
そう、それだ、と保は電話を持ち変えた。
二十一年前。兼ねてから計画されていた津田化学の、新工場の誘致先は引く手あまただった。大企業から落とされる莫大な法人税は、不景気や過疎に悩む田舎の町を潤してくれるからだ。
しかし化学工場特有のリスクも伴う。つまり、公害だ。
当時の津田グループの事業は国家プロジェクトにも等しい一大事業だった。
工場操業開始後の風向き、地下水系、土壌の影響予測調査を、当時の通産省のエースと言われた、津田恵太が担当したのだ。
津田恵太が推したのは、長野の山中だった。念入りに調査を行った結果、環境、周辺住民への影響は無し、と太鼓判を押したのだ。そこに落とし穴があった。
〝調査は改ざんされたもの〟
〝津田恵太は、誘致町村から賄賂を受け取っていた〟
言い逃れの出来ない証拠資料が上に提出されたのだ。知らぬ内に、津田恵太名義の口座に覚えのない大金がプールされていた。
「私は津田君とは仲が良かったからね。彼がそんな事する訳がないと分かっていた。津田君を嵌めたのはあの、郡司だという事も」
保が耳に当てる電話の向こうから、男の苦し気な言葉が聞こえていた。
「何故、郡司だと?」
保のその問いに男は直ぐに答えた。
「以前から津田君を目の敵にしていた上に、直ぐに変わりの候補立地を準備してきたからだ。完璧な調査統計を全て付けて、だ。おまけに政治家の後押しまで付いていた」
一息置いた男は、酒に口を付けたようだった。保は、ああ、と吐息を漏らした。
それが、建設用地候補が、俺達の故郷の山――!
俺達の大事な故郷、掛け替えのない大切な家族は、あの男の出世欲の為に失われたのかよ!
込み上げる怒りに電話を持つ手が震えていた。
「何にしても」
再び口を開いた男は、静かに言った。
「津田君は、この一件で失脚し通産省を去り、反対に郡司の株がグッと上がって行ったんだ。全ては郡司の思惑通りだったんだろうね。証拠もない事だ。誰も何も言えなかった」
証拠は、ある。
電話を切った保は椅子の背もたれに身を預け、書類を眺めたまま暫く動かなかった。
ファイルに残されていたのは、改ざんに改ざんを重ねた経緯が残る当時の調査資料。
津田恵太が直々に調査を依頼した民間会社は、最初から郡司によって買収されていたのだろう。
見通しの甘い調査結果は、津田恵太自身の改ざんとされ、糾弾されたようだ。
調査結果の資料が三、四種類も残されている。同じものなのにどれも数値が一桁近く違い、泥沼だった当時の様子が伺える。
何処から入手したのかは定かではないが、金の流れも残されていた。
当時郡司に協力したと思われる、重要な人物を書き連ねた上に、である。
あの私書箱に書類を預けたのは恐らく、みちるの父親、津田恵太だ。
私書箱は、保管料の支払いが一日でも滞ったら処分される。
津田恵太は賭けたのだろう。二十年分の保管料を支払い、この二十年の間に誰かがこの書類の存在に気づいてくれる事を。
保は天井を仰ぎ、目を閉じた
郡司は、津田恵太を陥れる為に、ここまで手の込んだ事をしたのか。
彼等の間にあった確執。嫉妬と妬み。それに、痴情の縺れ?
以前柏木から聞いてたな、と保は記憶を手繰り寄せた。
大学時代から仲間だったと言う津田恵太と郡司武は、入省当初は仲が良かったというが、郡司の中には最初っから津田グループ総裁の息子であり、人望、才覚、全てに於いて抜きん出ていた津田恵太に対する嫉妬が渦巻いていたのだろう。
それが、何かがきっかけで爆発した。彼等は反目し合うようになっていったと言う事か。
『その何かというのが一人の女性だったらしいんだ』
保は柏木の言葉を思い出していた。
郡司が、一人の女性を愛していた?
余りにも意外な事実だった。相手はみちるの母親か?
保は頭を掻いた。
それより待てよ。この資料、何故みちるに。いや、みちるに託して本人は事故を装い殺されたんだ。
悪寒が走った。
星児、保、みちるの三人の周りを流れて来た過去は、元を辿れば一本の糸だった。解れ分かれた筈のその糸は知らぬところで複雑に絡み合い、再び一本の糸になっていた。
結果、俺たちは最も危険な人物にみちるという存在が近くにいる事を知らしめてしまったのか?
保の脳内を光の速さで思考が巡る。
郡司の野郎、息子の交際相手まではまさか、把握してねーだろうな。もう別れたみてーだし。いや、もう既に知っていたとしたら?
ゾクリと全身鳥肌が立った。
俺達は四六時中みちるの傍にいられる訳じゃねぇ。誰かみちるの傍に置くか。
暫し思案していた保は、一度は置いた携帯電話を手に取りアンテナを伸ばす。最近新たにアドレスに登録された番号を引き出し、ボタンを押した。
入り口に、一つも名札の入っていない郵便ポストが出迎える一見廃墟のようなビルの中に入ると、古いエレベーターの扉が待っていた。ホールの蛍光灯はチカチカと瞬いている。
黄色のペンキが所々禿げている扉の前に立った保は、考えた。
このエレベーターに乗るべきか乗らぬべきか。そういや、前に来た時も同じ事を考えたな。閉じ込められたら敵わない。保はエレベーター隣の階段で上階に向かった。
最上階、とは言っても四階の隅に私設私書箱はあった。
重い鉄扉を開けると、壁に囲まれた狭いスペースがあり郵便ポストの口程の小窓しかない受付カウンターがあった。互いの顔が見えないようになっている。
契約も書類すらも残さない私書箱だ。ただ一つだけの暗号のみが鍵となる。
「預けか、引き取りか」
しわがれた男の声が壁の向こうからした。
「引き取りだ。a30bz5035r6」
保が言うと男は奥へと入っていき、数分で戻ってきた。
「これで全部だ」
男が持ってきたのは、厚さ五センチ強にもなろうかと玉紐付きの茶封筒だった。
「これを引き取れば私書箱の契約は切れる。どうする」
保は少し考え、聞いた。
「保管料はどうなっている」
男は「二十年分完済している」とだけ答えた。
いつからの二十年で、いつで切れるのかは答えないつもりらしい。なるほどな、と保は理解した。
「引き取って契約終了で」
封筒に入っていたのは、分厚い資料を綴じたファイルだった。
息をするのも忘れ、見入っていた保は、傍に置いてあった携帯に手を伸ばす。即座にある男にかけた。
「あ、柏木?」
数回の呼び出し音で出たのは良いが、電話の向こうが騒がしい。
今夜は金曜日だ。そうか、呑んでいたか、と保は心中で舌打ちをする。
「おぅ、兵藤! どした?」
ほろ酔い加減のご機嫌な声を返してきたのは通産省の官僚、保が密偵として重宝する柏木だった。
「今何処で呑んでる? キャバクラとかじゃぁねーよな」
保は電話の向こう、柏木の周囲の音に耳を澄ます。恐らく居酒屋か何かだ。
「キャバクラは最後のお楽しみ~。お前も来るか?」
楽しそうな柏木の返答に「いや、いい」と保は即答。
「そうかぁ?」と言いつつも、柏木は今いる店を教えてくれた。喧騒に包まれる居酒屋系の飲食店だった。官僚とは言え、元々庶民派なのだ。
多少の酒が入ってはいるが案外しっかりしているようだった。
良かった少し話せそうだ。
「ちょっと聞きたい事があって電話したんだよ。今少しいいか?」
「大丈夫だけど。聞きたい事?」
「ああ。今年の始めにお前に調べてもらってた事、ちょっと詳しく。今分かるだけでいいんだけどさ」
保は書類を捲りながら話し始めた。
「二十一年前にあった、デッカイ化学工場誘致の際の、不正融資疑惑の件」
記憶を辿っている様子だった柏木が、ああ! と声を上げた。
「お前、超ラッキー」
は? と保が聞き返す。
「俺が今一緒に呑んでるのがあん時に話してた生き字引みたいな資料室のオジサン。お前から依頼されたのを調べるようになってから妙に意気投合しちまってさー」
柏木は、通産省を隅々まで知る定年間際の男と電話を変わってくれた。
はじめまして、と始まった、男との会話。声が掠れ気味で渋みがあり、容姿は分からないが実年齢以上の雰囲気が感じ取れた。
「あの郡司武の名前を出したのは君か」
はい、と答えながら保は思う。こんな落ち着いた男と、柏木のヤツはどう意気投合したんだ? と。
くだらない疑問は頭の片隅に追いやり、保は話す。
「ちょっと彼の事を知る機会があって調べてます」
詳しく説明など出来ない。保は言葉を濁しながら話を先へ進めた。
「その事件の当事者は違う方ですよね?」
「ああ。津田恵太な」
そう、それだ、と保は電話を持ち変えた。
二十一年前。兼ねてから計画されていた津田化学の、新工場の誘致先は引く手あまただった。大企業から落とされる莫大な法人税は、不景気や過疎に悩む田舎の町を潤してくれるからだ。
しかし化学工場特有のリスクも伴う。つまり、公害だ。
当時の津田グループの事業は国家プロジェクトにも等しい一大事業だった。
工場操業開始後の風向き、地下水系、土壌の影響予測調査を、当時の通産省のエースと言われた、津田恵太が担当したのだ。
津田恵太が推したのは、長野の山中だった。念入りに調査を行った結果、環境、周辺住民への影響は無し、と太鼓判を押したのだ。そこに落とし穴があった。
〝調査は改ざんされたもの〟
〝津田恵太は、誘致町村から賄賂を受け取っていた〟
言い逃れの出来ない証拠資料が上に提出されたのだ。知らぬ内に、津田恵太名義の口座に覚えのない大金がプールされていた。
「私は津田君とは仲が良かったからね。彼がそんな事する訳がないと分かっていた。津田君を嵌めたのはあの、郡司だという事も」
保が耳に当てる電話の向こうから、男の苦し気な言葉が聞こえていた。
「何故、郡司だと?」
保のその問いに男は直ぐに答えた。
「以前から津田君を目の敵にしていた上に、直ぐに変わりの候補立地を準備してきたからだ。完璧な調査統計を全て付けて、だ。おまけに政治家の後押しまで付いていた」
一息置いた男は、酒に口を付けたようだった。保は、ああ、と吐息を漏らした。
それが、建設用地候補が、俺達の故郷の山――!
俺達の大事な故郷、掛け替えのない大切な家族は、あの男の出世欲の為に失われたのかよ!
込み上げる怒りに電話を持つ手が震えていた。
「何にしても」
再び口を開いた男は、静かに言った。
「津田君は、この一件で失脚し通産省を去り、反対に郡司の株がグッと上がって行ったんだ。全ては郡司の思惑通りだったんだろうね。証拠もない事だ。誰も何も言えなかった」
証拠は、ある。
電話を切った保は椅子の背もたれに身を預け、書類を眺めたまま暫く動かなかった。
ファイルに残されていたのは、改ざんに改ざんを重ねた経緯が残る当時の調査資料。
津田恵太が直々に調査を依頼した民間会社は、最初から郡司によって買収されていたのだろう。
見通しの甘い調査結果は、津田恵太自身の改ざんとされ、糾弾されたようだ。
調査結果の資料が三、四種類も残されている。同じものなのにどれも数値が一桁近く違い、泥沼だった当時の様子が伺える。
何処から入手したのかは定かではないが、金の流れも残されていた。
当時郡司に協力したと思われる、重要な人物を書き連ねた上に、である。
あの私書箱に書類を預けたのは恐らく、みちるの父親、津田恵太だ。
私書箱は、保管料の支払いが一日でも滞ったら処分される。
津田恵太は賭けたのだろう。二十年分の保管料を支払い、この二十年の間に誰かがこの書類の存在に気づいてくれる事を。
保は天井を仰ぎ、目を閉じた
郡司は、津田恵太を陥れる為に、ここまで手の込んだ事をしたのか。
彼等の間にあった確執。嫉妬と妬み。それに、痴情の縺れ?
以前柏木から聞いてたな、と保は記憶を手繰り寄せた。
大学時代から仲間だったと言う津田恵太と郡司武は、入省当初は仲が良かったというが、郡司の中には最初っから津田グループ総裁の息子であり、人望、才覚、全てに於いて抜きん出ていた津田恵太に対する嫉妬が渦巻いていたのだろう。
それが、何かがきっかけで爆発した。彼等は反目し合うようになっていったと言う事か。
『その何かというのが一人の女性だったらしいんだ』
保は柏木の言葉を思い出していた。
郡司が、一人の女性を愛していた?
余りにも意外な事実だった。相手はみちるの母親か?
保は頭を掻いた。
それより待てよ。この資料、何故みちるに。いや、みちるに託して本人は事故を装い殺されたんだ。
悪寒が走った。
星児、保、みちるの三人の周りを流れて来た過去は、元を辿れば一本の糸だった。解れ分かれた筈のその糸は知らぬところで複雑に絡み合い、再び一本の糸になっていた。
結果、俺たちは最も危険な人物にみちるという存在が近くにいる事を知らしめてしまったのか?
保の脳内を光の速さで思考が巡る。
郡司の野郎、息子の交際相手まではまさか、把握してねーだろうな。もう別れたみてーだし。いや、もう既に知っていたとしたら?
ゾクリと全身鳥肌が立った。
俺達は四六時中みちるの傍にいられる訳じゃねぇ。誰かみちるの傍に置くか。
暫し思案していた保は、一度は置いた携帯電話を手に取りアンテナを伸ばす。最近新たにアドレスに登録された番号を引き出し、ボタンを押した。
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