舞姫【後編】

深智

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希望

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 スミ子がホスピスに着いた時、雨が上がった曇天の僅かな雲の切れ間から朝焼けの光が漏れていた。まるで〝何か〟を迎えに来る天使が舞い降りてきそうな、おとぎ話のワンシーンに見えた。

 姫花の眠る部屋のスライドドアは少しだけ開いていた。スミ子がそっと中を伺うと、ベッドの脇にエミコが静かに座っていた。

 いつも着物姿のエミコは今夜は洋装で、斜め後方から見える顔は下ろした長い髪に隠れていた。表情を伺い知る事は出来なかったが、エミコは両手で大事そうに、いたわるように娘の手を握り締めていた。

 母と娘の貴重な語らいの時間を邪魔するわけにはいかない。スミ子はドアからほんの少しだけ離れた。

 スミ子が廊下の壁に寄りかかり暫しの時間が経った頃だった。耳に届いたエミコの声にスミ子は少しだけ身を乗り出た。
 
「ごめんなさいね、姫花。お墓、貴方を御幸さんと一緒にはしてあげられないのよ。貴方は、御幸家の人間でも、ましてや津田家の人間でもないんですもの」

 スミ子の胸がズキンと痛んだ。壁に寄りかかったまま、目を閉じた。

 エミコは女の子を産んだが為に、津田恵三から手切れ金として店の入った銀座のビルを丸ごと貰ったのだ。

 認知しない代わりに多額の金を渡し、突き放した男。それだけじゃない〝特別な女〟はまだ他にもいた。

 プライドも何もかもをズタズタに引き裂かれたエミコは、見返してやりたくて、がむしゃらに働き、少しでも娘達が男のお眼鏡に敵うように、と周りが見えなくなる程に彼女達を追い詰めていったのだ。

 全てを知っていたからこそ、スミ子はこの母娘を助けてあげたかった。少しでも、彼女達を離そうと思ったのだ。離れれば互いの愛を確認できる筈だと思ったから。

 決して永遠に離ればなれになどしようとした訳ではなかったのに。
 
「銀ちゃん、いるんでしょう?」

 エミコの声にスミ子はハッと顔を上げた。

「その名前はもう何十年も前に捨てたの。今知ってるのはエミーだけ。もう呼ばないでヨ」

 恐る恐るドアを開けて中を覗くと、寂しげに微笑むエミコと目が合った。

 あ……、とスミ子は思う。東京に出てきたあの頃の目だ。

「私、また一人になっちゃった」

 エミコの言葉にスミ子は涙を堪えて首を振る。

「前言撤回。銀ちゃんでいいワ。あの頃に帰れるから。エミー、アンタにはアタシがいるじゃないの」

 声にならないエミコの返事は、唇から推測できた。

〝ありがとう〟。

 スミ子の中の姫花の残像は昔のままだ。しかしここに眠る彼女は、確実に過ぎた年月と、自然の摂理に反して〝生かされ〟てきた事が如実に表れていた。

 薬によるものか、不自然な肌の張りが痛々しかった。

 泣かないエミコを前にして、自分が泣く訳にはいかない。スミ子は姫花の頬を撫でながらも涙を堪える為に唇を噛んだ。

 スミ子を見てエミコが小さな声で言う。

「私、弘前に帰ろうと思うの」

 あまりに唐突な言葉にスミ子が振り向くと、エミコの顔は僅かに吹っ切れたような表情を見せていた。

「もう、随分と前から考えていたのよ。御幸さんに姫花を引き取りたいってずっと打診してきたんだけど彼は決して首を縦に振らなくて。皮肉なものね。こんな形になって、やっと姫花が私のところに帰って来たわ」

 なにが正しい選択肢だったのかは、今となってはもう分からない。エミコの言葉の中の何処に真意があるのかも、スミ子は推察する事しか出来ない。

「スミ子も、一緒に来て?」

 ようやくあの街に自分の店を持てて、やっと軌道に乗り――でもエミコが見せた初めての縋るような瞳に心がぐらりと揺れた。

 一緒に故郷を捨て、頼る者も何のツテもない東京で死にもの狂いで手を携えて生きてきた、大事な親友。やはりエミコをこれ以上泣かせるわけにはいかない。

 分かったワ、と答えようとしたスミ子のスミ子の脳裏を掠めたものがあった。

 ちょっと、待って。

「待って、エミー」

 まだ希望があるような気がした。

 ここに来る前に出会ったあの


†††


 部屋に戻って来ないみちるを心配した保は傍に脱ぎ捨ててあったウェアを着て、寝室のドアを開けた。

 みちるは朝陽が差し込むリビングの東向の大きな窓の前に立っていた。逆光となり、後ろ姿からは、みちるが何を見、何を想っているのか分からない。なのに何故か保の心が軋んだ。

「みちる」

 柔らかく低い、響きの良い声に呼ばれゆっくり振り向いたみちるの目からは、はらはらと涙が落ちていた。

「御幸さんの事か?」

 傍に来た保はその涙を優しく拭いながら聞いた。

「うん、でも、それだけじゃないの」
「それだけじゃない?」

 首を傾げた保に、みちるは少し迷い、考えながら話し始めた。

「ここに来たら、窓から綺麗な朝焼けが見えて、それを見てたら心にぽっかり穴が空いたみたいになって。お父さんとお母さんが亡くなった時の感覚みたいなの」

 みちるは窓の外に視線を向けたまま、掠れた声で言った。

「まるで自分の一部が持っていかれちゃったみたいに寂しくて、胸が締め付けられるみたいで。どうしてこんな気持ちになるのか分からないけど、苦しくて」

 止めどなく涙を溢すみちるを、保は背後から抱き締めた。

「さびしい……」

 微かな声で呟いたみちるは保の腕をしっかり掴み再び泣き出した。みちるの耳元に保はそっと囁く。

「俺達は絶対に、みちるを一人にはしないから」

 保の言葉は、ささやかな願いと共に。
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