舞姫【後編】

友秋

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慈しむ

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 事務所に戻った保は即座にそこにいた部下の数人を呼び、衣料品を扱う深夜営業の店に走らせみちると龍吾の着替えを用意させた。彼等に着替えさせると自分はロッカーに置いてあったスポーツウェアに着替えた。

 始終恐縮し頭を下げっぱなしのみちるに、保は肩を竦めて「気にするな」と優しく声を掛けた。

 事務所に残る者に指示を出し、保はみちるを連れて帰路に着く。地下駐車場に停めてあった保の車の助手席に促され座ったみちるは恐る恐る聞いた。

「保さん、龍吾君は」
「んー、一ヶ月くらい事務所で謹慎」
「え、そんな」
「みちるさん」
「はい」

 龍吾を事務所に残してきた事を気に掛けていたみちるは身構え、固くなった。

 地下駐車場から出口に向かって旋回する道が続く。保は車をゆっくり走らせながら少し厳しい口調でたしなめるようにみちるに言った。

「今回の件は、みちるさんも大いに反省してください」
「はい……」

 保は隣でしょんぼりとするみちるにチラリと視線をやった。茶色がかった目に優しく柔らかな色が挿す。

 無機質な地下空間から出てきた車は眠らぬ街を彩るネオンの中を走り出した。

 君が無事だったからこんな事が言えるんだよ、みちる。

 前を向いたままの保が優しくゆっくり、言い含めるように話し始めた。

「みちる、俺は今夜のみちるの行動を反省しろって言ってるんじゃない。あれは、辛い事が重なって居ても立ってもいられなかったから、そうだろ?」

 みちるの胸が、ドキンと鳴った。痛く苦しい想いに思わず胸元を手で握り締めた。言葉は出てこなかった。

「いいよ、みちるは何も言わなくていい」

 保の声は低く柔らかい。

 
 車窓から差し込むぼんやりとした光と保の声に包まれて、堪えきれなくなったみちるの涙が溢れ出した。

〝重なった辛い事〟

 御幸の死は、夢でも幻影でもなく真実だった。

 直ぐに連絡が来る事は無いが、近い内に執事の近衛から何かしらの知らせがあるだろう、と保はみちるに話した。両手で顔を覆い、泣くみちるに保は優しく続ける。

「お別れには必ず連れて行ってやるから。だから、みちるはちゃんとみちるの道を歩いて行くんだ。それから、辛いときはちゃんと言っていいんだ。我慢しなくていい」

 染み込む言葉が、みちるの胸を解していく。

 保さん、ありがとう。

 助手席のシートで抱えた膝に顔を埋めたみちるは暫く声を上げて泣いた。保はハンドルを握り夜の街の中、車を走らせながらみちるが落ち着くのを静かに待っていた。

 みちるが少し落ち着いたのを見て取った保は「みちる、もう一ついいか?」と聞いた。みちるはゆっくりと顔を上げ、保を見る。

 少しの沈黙を置き、保は静かに話し出した。

「俺がみちるに反省を促したかったのは、龍吾の事なんだ」

 みちるは「龍吾君の」と呟き、小さな心当たりを見つけて、ああ、と思う。ハンドル片手に保は煙草を取り出しくわえていた。

 ちょうど赤信号で止まり、ライターで火を点けながら保はみちるを見た。優しく微笑む。

「龍吾は、自ら飛び込んで来たこの世界がどれだけ危険な誘惑が蔓延してるヤバいところなのか、知らなきゃいけない。
だから俺たちはある程度野放しにしている。
〝百聞は一見に如かず〟だ。
自ら体験してその身体に叩き込んだらいいんだ。
ただ、本当にヤバい時は必ず助ける。
それが拾った俺達の責任だからさ。
そのくらいの覚悟がなけりゃ、とっくに施設に送り返してる」

〝責任〟という言葉がズシリ、と重くみちるにのし掛かった。星児も保も、真剣に龍吾を大人にしようと向き合っているのだ。

それが〝責任〟。それが、人が生きる為の営み。

 一人の人間が、自分の前に続く道をしっかりと踏み締めながら歩いてゆく力をつける為に必要な条件。

 みちるがうつ向いた時、車が再び走り出した。

 頭に血が登った状態で龍吾に言った言葉を保は思い返して苦笑する。

 こればかりはみちるには言えねーな。




 ベッドに潜り込むと、保はみちるを優しく抱き締めた。そのままゆっくり囁くように話す。

「みちるはずっと、自分の為の事だから、と龍吾に厳しく言えなかったんだな」

 耳から染み込む優しい声は、みちるの躰を安堵に緩ませる。

 そうなの。

 みちるはその温かな肌を全身に感じながら目を閉じた。

「みちるの気持ちも分かるし、そこがみちるのいいとこなんだけどさ」

 そっと髪を撫でる保の手に躰がフルリと悦ぶ。

「それじゃぁアイツの為にはならないんだ、分かるか?」
「は……い」

 優しい愛撫の手がみちるの躰を開いていく。みちるは両手で保にしがみついた。

「龍吾に与えた仕事。ちゃんと責務を果たす事を覚えさせたいんだ」

 自分の事を、心底慈しんでくれるひとを守るという最初の仕事を。

 保の躯の熱が、みちるの中に伝わる。

「たもつさ……ぁあっ!」

 今夜あった辛い事、悲しい事、渦巻く澱を少しでも薄めて。

「保さん……」

 優しい瞳を見つめ、みちるは保の首に腕を絡めた。

「キスしてください、たくさん、たくさん」

 こんな関係になる前から、色んなキスを教えてくれた大切な人。

 保は指でそっとみちるの唇をなぞり、重ねた。

 柔らかで温かな熱が静かにゆっくりと伝わり、絡まる舌が優しく掬い上げる。

 やや強引に快楽の扉を押し開ける星児に対して、ゆっくりと大事に躰に聞くように悦楽の波を起こしてゆく保。

 私に鼓動をくれる大切な二人。

 みちるは保の首にしがみついた。

「みちる……」

 優しい囁きの先に、保の柔らかな低い声が何か言った気がしたが、みちるは押し寄せ呑み込む波に身を任せ、溺れさせた。

 保さん!



 足を絡ませながら布団の中でじゃれ合う。みちるを抱きすくめた保は首筋に唇を寄せ、耳たぶの裏を軽く舐めた。

「んん……ぁっん」

 フルッと震え、吐息を漏らしたみちるの唇を保は塞いだ。少し激しいキスには、狂おしい程の愛を注ぐ。

 ゆっくりと唇を離した保はみちるの瞳を優しく見詰め、言った。

「ニューハーフの姐さんに助けられたって?」

 みちるは外国人に絡まれていた自分を助けてくれた〝彼女〟の事を思い出し、頷いた。

「そう。オカマさ……じゃなくて、おネエさんだった……」

 みちるの言い方に、保が吹き出した。

「なるほどね」
「それでね、ちょっと不思議な感じだったの。あ、そうだ、名刺もくれたの。何かあったら何時でもいらっしゃいって」

「『何時でもいらっしゃい』って?」

 保が怪訝な表情をする。みちるは保の腕の中で少し考える仕草をし、言った。

「なんかね、その、ほら、そういうおネエさん達がショーを見せてくれるお店のママさんらしかったよ。お店の名前書いた名刺だったもん」

 ああ、と言った保は、星児がこの間手放したのもそんな店だったな――とぼんやりと思い出した。譲渡の手続きが終わったばかりだったから覚えていたのだ。

 あの店の名前は確か。

 難しい顔をしたまま動かない保をみちるはそっと伺った。

「名刺、取ってきて見せてあげるね」

 みちるはスルッとベッドから下りると床に落ちていたバスローブをその白い躰にはおり、部屋から出て行った。


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