舞姫【後編】

友秋

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故郷

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 ホステス達の出勤時間にはまだ早い開店前のクラブ・胡蝶は、カウンターの中で酒の準備をする店長とフロアの掃除をする黒服、エミコしかおらず、グラスや瓶が微かにぶつかる小さな音もよく響いていた。

 エミコはカウンターに座り、店宛に届いた手紙のチェックをしていた。中の一つに目が留まる。

 封も開けず、差出人を見たまま固まるエミコにカウンターの中にいた店長が声を掛けた。

「ママ、どうかされましたか」

 顔を上げたエミコはフワリと微笑んだ。

「亡くなられた方からお手紙が届く、という経験、店長はおありかしら」

 予想外の問い掛けにタキシード姿の熟年紳士店長は微かに目を丸くした。

「それは、その方が亡くなられた後に、という意味ですか? だとしたら、お話は聞いた事はありますが、僕にはそういった経験はないですね」

 エミコは、そう、と答え続ける。

「わたくしも無かったけれど、二週間程も前に亡くなられた方から今日お手紙が届きましたの」

 おや、と店長は目を細めてエミコの手の中の手紙を見た。

 エミコは封筒を表に返し、見詰めながらゆっくりと話し始めた。

「こういうものは、天国からのお手紙、なんてロマンチックなものと考えても素敵だけれど、遺族の方が遺品を整理してらした時に故人が生前出さず終いになってしまった手紙を見つけ、慮った結果投函したのものと考えるのが自然ね。どちらにせよ、大事なお手紙ですわね。これは裏でゆっくり拝読しますわ」

 エミコはその手紙を開封する事なく着物の帯の中に入れた。店長は静かに頷いたが、そう言えば、と思い出したように言う。

「ママ、今日は随分と早く来られましたね。何かございましたか」

 カウンターの上に拡げてあった他の郵便物を手に取りしなやかに立ち上がったエミコは答えた。

「今日はある方をこちらにお呼びしましたの。外では出来ない大事なお話をする為に」

 店長の表情が微かに動き、エミコは去り際低く囁いた。

「あのお話を、その方にしてみようと思っていますの。お見えになったら、裏にお通ししてください」

 店長は全てを察したように小さく頷き「分かりました」とだけ答え、何事も無かったかのように仕事を続けた。



 エミコが裏に下がって程無くして、樫の一枚板に艶やかな彫刻が施された重厚な扉が静かに開いた。

 扉の前には待ちかねていたかのように黒服が立ち、出迎える。

「お待ちいたしておりました、剣崎様。エミコママは奥の事務所におられます。どうぞこちらへ――」

 エミコが呼んだのは、星児だった。

 いつ来ても、いかなる時も黒服達には常に隙がない。星児は腹の底から敬服する。この店は、エミコのポリシーが隅々まで浸透していた。



 初めて通された、クラブ・パピヨンのバックヤードに星児は微かな緊張を覚えた。

 スミ子から連絡が入ったのは、今朝。内容とは。

『エミーがセイジにハナシがあるみたいなの。今日、開店前の胡蝶に行ってくれない?』

 あまりにも唐突な申し出だった。

 星児は、エミコとは連絡先を伝える程の間柄にはなかった。だからエミコはスミ子を介して言ってきたと思われた。

 故に、〝したい話〟というものに、さすがの星児も皆目見当がつかなかった。

 黒服に案内される途中、カウンターの中にいた店長が恭しく彼に会釈をする。黒服を見てもこの店長を見ても、彼らの表情からは何も推察出来なかった。

 奇襲に合う心配はなさそうだが。脂汗が滲みそうな手を握り締めた星児は内心苦笑していた。

 ホステス達の控室の先にママの部屋があった。店から一歩裏に入れば、表の華やかさとは別世界の殺風景な、言って見ればビジネス的な内装だった。

 柄も色もシンプルなドアをノックしながら黒服が言う。

「剣崎様がお見えになりました」

 直ぐに、中から「どうぞ」という声が聞かれ、黒服はドアを開けた。

 部屋の中央に背筋を伸ばして立ち、出迎えたエミコの今日の出で立ちは、藍色の着物に螺鈿細工の帯を締めていた。

 シックな柄がちりばめられていただけの着物が艶やかに煌めく帯と融け合い、品格を上げる。通された星児は、眩しげに目を細めた。

 明るい蛍光灯の下、間近で真面目からエミコママを視界に捉えたのは初めてだった。以前、寺の境内で会った時とも少し印象が違う。

 彫りの深さによる陰影が明かりより強調され、美しさが際立つ。数多くの浮き名を流して来たであろう彼女は本当に年齢不祥だ。星児は思う。

 これが、夜の街で戦ってきた女なのだ。
 
「急にお呼び立てして申し訳ありません」

 部屋の中に案内された星児をエミコは応接セットの黒い革張りのソファへ促し、言った。星児は軽く会釈をしながら座り、答えた。

「いや、スミ姐からビジネスの話らしい、と聞いた時はちょっと構えたけど」

 しとやかに笑ったエミコは、星児を案内してきた黒服に下がるように目で合図した。

 部屋が二人だけになると、エミコはしなやかな手付きで灰皿を星児の前に置き、わたくしも失礼、と袂から煙草を出した。

 流れるような一連の仕草を視界に入れながらスーツの胸ポケットから煙草を出した星児は数時間前のスミ子との会話の断片を思い返した。

『ビジネス?』
『ええ、エミーは確かにそう言ったわ』

 星児は微かに警戒した。

 
『俺はエミコママと取引するようなビジネスに心当たりはねーけど?』
『まあ、ともかく会ってハナシだけは聞いてみなさいヨ。考えるのはそれからよ』

 星児の脳裏を掠めるのは、彼女達に対する罪悪感にも似た感情。

 フッと浮かんで消えたみちるの姿。後ろめたさ、みたいなものが、余計に星児を構えさせていた。

「実は、ビジネス、というよりは剣崎さんにご相談したい事がありますの」

 星児は探るような目でエミコを見た。向かいに座るエミコは僅かに身を乗りだし、ライターで星児の咥えていた煙草に火を点けた。

 煙草の先が赤くなるのを確認すると、自分もしなやかな手付きで煙草をくわえ、火を点けた。

 ふぅ、と微かに顎を上げて煙を吐き出したエミコは煙草を挟む指先を見、ゆっくり確認するように言った。

「このお店とビルを買って頂けないかしら」

 直ぐには言葉が出なかった。

 このビルを、手放すつもりなのか?

 星児は大きく表情を動かす事は無かったが、薫る煙の向こうにエミコを見ていた。視線の先でエミコは優雅に微笑み、続けた。

「わたくしがこの街で生きた証とも言える、我が子同然の大事なお店。全く知らない方の手に渡るのは忍びないものですから」

 驚きも動揺も表に出す事なく、星児は頭の中でゆっくりと事態を咀嚼し、エミコの言葉の裏を探る。脳裏では、駆け引きの計算が同時進行していた。

 星児は口から煙草を外し、深呼吸がてら深く煙を吐き出した。

「とりあえず話は分かった。けどよ、おいそれと『はい買いましょう』と言える代物じゃねーからな。俺にとってはまたとないでけぇチャンスだって事は確かだけどよ」

 一気に言うともう一度煙草をくわえた。

 物事には順序ってぇもんがある。俺のテリトリーはまだ新宿、池袋、日暮里止まりなんだよ。俺に突然こんな話を振る狙いは何だ。

 脳内を駆け巡る邪推にも似た推察を整理しゆっくり煙を吐き出した星児はエミコに聞いた。

「どうしてそんなデカイ話を俺にする。どうして俺に白羽の矢を立てた」

 鎌をかけてみる事にした。

 娘が残した忘れ形見、みちるの事を何か掴んだからこの話を俺に持ち掛けたのか?

 一瞬足りともその表情の変化を逃すまいと星児はエミコを見入る。ほんの僅かな顔の動きで、相手の根底に潜む本音を暴く自信があったから。

 だが、エミコの優美な笑顔には、微小の動きさえも見えなかった。

「勘ですわ」
「勘?」

 意外な言葉に星児はおうむ返しに聞き返していた。フフフ、とエミコは笑う。

「夜の街に集う数多くの様々な男を見てきたわたくしの、長年培ってきた勘です。貴方なら、という、いわば閃きのようなものです」

 震えるような感情が、星児の心を鷲掴みにしていた。

「以前、お話ししましたわね。若い方の未来を応援したい、と。もう完成した、足場のしっかりとした安定した方にお売りしても、未来は見えません。貴方のような若い方に、可能性の種を差し上げたいのです。わたくしが知る若い方の中で唯一、貴方なら、と思えたのです。でも」

 言葉を切ったエミコは小さく肩を竦めて申し訳無さそうに言った。

「可能性を差し上げたい、なんて申しておきながら、立地からもお分かり頂けるように破格なお値段でお譲り、とはいきませんけれど」
「いや、そんな事は気にしねーけど」

 星児はニヤッと笑う。

「バブルが弾けたお陰で、この辺りも例外なくいっ時よりは値崩れしてるだろうし」

 エミコは、「まあ」と嬉しそうに笑い、星児は苦笑いした。強気に言ってはみたが、いくらバブル崩壊後でも、破格な値になってはいない事は確かだ。

 星児はまだ長さのある煙草を灰皿に押し付け揉み消した。エミコを見詰めて言う。

「エミコママ、この居城を手放してどうするつもりだ」

 直ぐに返答は無かった。エミコは美しい指で挟んだ細身の煙草を口から外し、ゆっくりと煙を吐いた。

「弘前に帰ろうと思っていますの」

 ああ、と星児は以前スミ子から聞いた話を思い出した。彼女達の故郷は、青森県の弘前市だった。

 しかし、スミ子はともかくエミコには身寄りが無いと聞いていた。

「桜をね……」
「え?」

 煙草の煙を見詰めているのか、ただ宙を見詰めているのか。エミコは遠くを見る目をしていた。

「弘前公園の桜を、見たくなりましたの。余生を、あの桜を見て過ごしたくなりましたの」
「余生、って……。ママはまだそんな年じゃねぇだろ」

「まあ、お上手」と奈美絵は嬉しそうに笑った。笑顔はまるで少女のようだった。

「わたくし、還暦を過ぎてますのよ」

 星児は思わず「え?」と声を上げた。

 還暦?

 確かに、みちるの年から考えたら妥当だけどよ。外見だけなら40後半くらいにしか見えねぇよな。

 ここに来て初めて、星児の驚愕に崩れた表情を見たエミコは満足そうに微笑んだ。煙草を消すと静かに話し始めた。

「東京に未練が無くなりましたの。この年になりますとね、辛い思い出しか無かった筈の故郷の思い出が、美化されますの。悲しくて苦しくて、どうしようも無かった時に慰め、奮い立たせてくれたあの景色だけが恋しくなりますの。あの風景と一緒にまた年を重ねていきたい、と思えるようになるの」

 最後の言葉は、まるで独り言のようだった。一息ついたエミコは「それに」と再び話し始めた。

「二人の娘に、本当の故郷を見せてあげられますもの」

 星児はパッと顔を上げ、エミコを凝視した。

 それは……!

 何かを言おうとした星児を遮るようにエミコが言う。

「貴方に『生きてます』とお話しした娘、先日亡くなりましたの」

 後頭部を、鈍器のようなもので殴られたような衝撃だった。

 みちるの、生きていた筈の母親が、死んだ。

 どうにかして、いつか会わせてやれるかもしれない、そんな淡い期待を抱いていた。しかしその期待は今この瞬間、潰えた。

 星児は、言葉を失いただ黙ってエミコの話を聞いていた。

「長く昏睡状態でしたの。何故あんなに長く生きていられたのか、というくらい。わたくし、今になって、娘は、誰かが自分に会いに来るのを待っていたんじゃないかしらと思えてならないんです」

 エミコの言葉は、まるで星児の胸の内を覗いたかのようだった。


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