舞姫【後編】

友秋

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不穏

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 東向きの窓から一気に差し込んだ朝の陽光の眩しさに、眠っていた星児と保は目を閉じたまま顔をしかめた。

「ほら、たまには早起きしよ!」

 ブラインドを上げたみちるの明るい声に二人は初めて目を開けた。起き上がる様子はみせず横たわったまま、ベッドの脇の大きな窓の前にいるみちるを見上げる。

 キャミソールにショーツ姿のみちるの背後から朝日が差し逆光になる。星児と保は眩しげに目を細めた。

「最近、起きるのお昼近いでしょ。今日はちゃんと起きようよ」

 みちるは一向に動き出そうとしない二人の間にもぞもぞと入ってきた。かすかな石鹸の香りが彼らの鼻先を掠めた。既にシャワー浴びたようだ。

 明け方、眠っている星児と保を起こさぬよう、そっとベッドを抜け出したみちるはシャワーを浴び、部屋に戻ってきていた。

 まだ眠そうにする二人の男の顔を見比べる。

「さあ、どっちが先に起きるかなー?」

 楽しそうに言ったみちるの愛らしい笑顔に、星児と保は顔を見合わせた。次の瞬間。

「きゃああっ」

 星児と保の、ほぼ同時に伸ばした腕がみちるの躰を捉えた。星児の腕が首に、保の腕が腰にそれぞれ絡まりみちるを仰向けに押し倒した。

「まっ、待って! 私はもうシャワー浴びて……」
「関係ないね」

 みちるの顔の目の前に星児の顔があった。ニッと笑う。

「もうソールドアウトです!」
「意味不明だな」

 みちるの内ももに唇を寄せた保はフッと笑う。

「んじゃ、こっからはプライベートタイムっつーこと」
「それこそ意味が分かんないです……ああっ……あ」

 言いかけた言葉は、強引に押し開かれた悦楽への扉の中に呑み込まれた。
 
「ん……」

 開かれてゆく躰に離れてゆきそうな意識。目くるめく襲い掛かる波。火照ってゆく躰の熱を逃す唇を星児に塞がれ、震える手を保が握った。

 離さない。
 離れたくない。
 離したくは、ない――!

「も……ダメ……」

 青息吐息で崩れ落ちそうになるみちるの躰を星児と保が支え、前から星児が、後ろから保が、彼女を挟むように抱きしめた。

 目を閉じ、白い肩を大きく上下させるみちるの耳に星児の甘い囁き声がするりと滑り込む。

「みちる……まだだぞ」
「……あ……ん」

 ふるっと震えたみちるの顔に、背後からそっと手を添えた保は自分の方へ振り向かせ、嬌声の漏れる唇を塞いだ。

「……んんっ」

 星児はがら空きとなった胸元に唇を寄せた。

 みちるを抱く二人の心には、ひたひたと忍び寄る不穏な気配が貼り付いて消えない。

 今日はどんなに抱いても満たされない。

 何故。どうしてこんなに不安なんだ。

 星児と保に挟まれ、強く強く抱き締められたみちるが言う。

「星児さん? 保さん? ……苦しい……よ……?」

 二人は、息も絶え絶えの小さな声にハッとした。僅かに腕の力が緩んだ隙に、柔らかな躰がスルッと抜け出た。

「あ、みちる」
「こら!」

 みちるはアハハと笑いながらしなやかな動作でベッドから降り脱がされた下着を拾い上げた。

「二人とも起きて! 早く起きてきた人にだけ朝ごはん、作ってあげます!」

 顔を見合わせた二人はガバッとベッドから起き上がった。




 朝食を取っている間に事務所から携帯に連絡が入った保は慌ただしく身支度を始め、星児もそれに続いた。

 一瞬で夢から覚めたような彼らの切り替えの早さに、みちるは苦笑いする。

 二人とも、切り替えが凄い。

 忙しそうにバタバタとする彼らの邪魔をしないよう、みちるはさりげなく二人の食事の後片付けをした。バスルームが空いたのを見計らい、シャワーを浴びようとサニタリールームのドアノブに手を掛けた時だった。

「みちる」

 星児に呼び止められみちるが振り向くと、ワイシャツにネクタイ姿の星児と保が並び立ちこちらを見ていた。星児はタバコを取り出しながら、保は袖のカフスボタンを留めながら。

 見慣れた姿にはずなのに、胸がドキンッと跳ねる。

「なあに?」

 ドキドキを隠しごまかすよう、小さく首を傾げたみちるは聞く。保は優しく笑いかけ、言った。

「俺たちはみちるがシャワー浴びてる間に出掛けちまうけど、分かってるとは思うけど、迎えが来るまで絶対に劇場を出るなよ」

 くわえた煙草に火を点け、煙を吐き出した星児も言う。

「夜道の一人歩きは禁止だ」
「この近所も?」とみちるは軽く頬をふくらませてみせた。星児が冗談ぽく言う。

「お嬢、夜遊びは勘弁してください!」

「やだぁ、夜遊びなんて」

 キャハハハと屈託なく笑いながらみちるは肩を竦め「分かりました」と言い、サニタリールームのドアを開けた。

「じゃあ、星児さん保さん、今日のお仕事もがんばってくださいね。私もしっかり舞ってきますから」

 みちるは飛び切りの笑顔を見せ、ドアの向こうに消えた。星児と保は暫し、みちるの残像を追うように、そのドアを眺めていた。

 その笑顔を守りたいんだ。ただ、それだけだ。


†††

 
 田崎エンタープライズのオフィスは、あたかも真っ当な一企業であるかのような看板を掲げ、ナイトクラブやバーなどのテナントが入っている赤坂のビルの上層階を占拠していた。

 見るからに高価な壺や剥製、刀などが飾られた、絢爛豪華な成金趣味の内装を施した社長室の応接セットの革張りソファーに、この場には不似合いなみすぼらしいなりをした学生風の青年が座っていた。

 緊張し、強張る面持ちで微動だにしない青年は、前に座る男を瞬きもせず凝視する。真向いに座る男、田崎はテーブルの上に出された〝乾燥させた植物〟を念入りにチェックしていた。

 値踏みするような視線を青年に向け口を開く。

「いいじゃねーか。そうだな……五でどうだ」

 分かるものが見れば、半値以下に値切られている事が明白であったが、こんな取引は初めである彼にはモノの末端価格など知りようも筈もなかった。

 それよりなにより、貧乏学生である彼にしてみれば50万という金額は大金だった。
 
「こんだけイイモン〝作れる〟んだったらこれからも俺が捌いてやるよ」

 胡散臭い笑顔をみせた田崎に青年は「はい!」と答えた。煙草をくわえ、火を点けた田崎は喉の奥でクククと笑った。

 田崎にしてみれば〝いいカモを見つけた〟。学生の青年にしてみれば〝いいアルバイトを見つけた〟。取引の成立だった。しかし、その背後に拡がる闇は果てしなく深い。

 田崎から無造作に渡された金を古ぼけたリュックに大事そうにしまった青年が、失礼します、と頭を下げ社長室から出て行くと、入れ替わるように角刈りに鋭い目つきをしたスーツ姿の男が入って来た。

「田崎さん、またいいカモを見つけたみたいスね」

 クククと笑う男に、田崎は煙をゆっくり吐き出し、言う。

「名門大学に通う田舎から出てきた世間知らずのガキだ。学内でちまちま小遣い稼ぎしていたのをうちの下っ端が見つけて連れてきた。ああいうヤツは元来マジメだからいい仕事をすんだよ。下手に知恵でも付けりゃ上手く丸め込むか、」

 言葉を切った彼は不気味に薄く笑ってみせ、「始末すりゃあいい」と愉快そうに言った。再び煙草をくわえた田崎はその煙に目を細めながら男に、用は何だ、と聞いた。

 男は顔に貼り付けていた薄ら笑いを消し、意味深な表情を見せ田崎に近づき小声で話し始めた。

「例の、TUD総警の社長の件、分かったスよ、色々と」

 田崎の顔付きが変わる。それを見ながら男は続けた。

「あの男、叩いてみたら面白い埃が出てきたんスよ」



 男の話を聞き終えて煙草を灰皿でもみ消しながらクックと笑っていた田崎の笑いは次第に、堪えきれなくなったように高笑いへと変わる。

 ハハハハと勝ち誇ったように一頻り笑い続けた田崎は言った。

「俺は、利用するのは好きだが、利用されっぱなしってのはヘドが出るほど嫌いな男なんだよなぁ」

 田崎の目は恰好の獲物を見つけた獰猛な獣のそれのようだった。ソファーから立ち上がり、男に鋭い視線を向けた。

「そろそろいいだろう。ちょっと手荒な方法をとっても構わねえ。あの件、実行に移せ」

 田崎は、具体的な言葉は口にしなかったが、ニヤリと笑った男は直ぐに察知し答える。

「あの女の件ですね。その指示が出るのを、待ってたスよ」

†††

 タクシーの車窓から、夜闇の中で可憐に咲き誇る春の花々が見えていた。

「龍吾君、私、この辺りから歩きたいな。いい?」
「え……」

 龍吾がみちるに目をやると、視線は窓の外に向けられていた。みちるは「花をみながらゆっくり帰りたい」と言った。

 車は鶯谷駅の近くまで来ていた。ここからなら歩いてマンションまで十五分といったところだったが、龍吾の脳裏に、保に言われた言葉がよぎった。

『必ず、家の前までタクシーをつけろ。極力、外は歩くな』

 星児も保も、何かを警戒していた。何かからみちるを守ろうとしている。しかし、その〝何か〟が何なのか龍吾には見当も付かなかった。

 この距離なら、タクシー降りて歩いたって平気だろ。

「いいよ、みちるさん。たまには降りて歩こうぜ。運転手さん、とりあえずその辺で降ろしてくれよ」

 寛永寺の裏手になる鶯谷駅南口のロータリーに入ったタクシーはハザードランプを点け停車した。ドアが開くと龍吾は先にみちるを降ろし、運転手に言った。

「いつものマンションの前で待っててくれよ。事務所帰る時、俺また乗せてもらうから」
「はい、分かりました。一足先に行って待っています」


 龍吾は半年ほど前からタクシー会社を一つに決め、同じ運転手を利用しており、商人とお得意さんのような信頼関係が成立している。運転手は慣れたもので、快諾しドアを閉めた。

 鶯谷駅の南口前にはこれといった店も無く、夜更けの駅前はタクシーを待つ客はまばらで閑散としていた。

 龍吾とみちるは駅前通りになっている新坂を上り、細い一通の道に出た。国立博物館の裏手の林と寛永寺の境内との間を縫うように続く道は人通りも無く静かだった。

「一人だったら絶対に歩かない場所だな」
「うん」

 靴音と二人の声しか聞こえない夜の空間を、瞬く星が照らす。

「ほら、龍吾君、見て。あれが見たかったの」

 ふいにみちるが前方を指で指した。龍吾が視線を向けると、宵闇に咲く桜が見えた。

 暗闇の中でもしっかりと荘厳な存在感を見せる、寛永寺厳有院の霊廟の門の傍に植えられた数本の桜が満開の花を咲かせていた。三日月のぼんやりとした光を受け静寂の空間でひっそりと佇む。

「お花見で賑わうところでみる桜もいいけど、こうして誰にも見られることなく夜空の下で咲く花もいいでしょう。日が当たらない場所で一生懸命生きてるみいたい」

 日が当たらない場所。それは、自分の事なのか。龍吾はみちるに視線を向けた。

「みちるさんは日なんて当たらなくたっていい。みちるさん自身が周りを照らしてる」

 驚くほど素直に口を突いて出た言葉に、龍吾自身が一番(目を丸くしみあげたみちるよりも)、驚いていた。

「なんでもない」

 みちるの澄んだ、綺麗な瞳に見つめられ、龍吾はパッと視線を逃した。

「ありがとう」

 みちるの柔らかな囁きは、夜闇に呑まれる。

 腕に触れたしなやかな手の感触はしっかりと龍吾の中に刻み込まれた。

 恋人がくれる温もりとは違う、姉のような、母のような温もり。優しい時間は、母親との温かな思い出の無かった龍吾の心に大事な記憶をくれる。

 春の夜風に運ばれて来た、どこかで咲く沈丁花の甘い香りが、龍吾の知らなかった、胸を締めるような郷愁の感情を教えた。

 ゆっくりと歩く二人の間を、花冷えの冷気を含んだ風がサッと吹き抜け、微かに震えたみちるに龍吾は自分のジャケットを羽織らせた。

 直後。黒塗りの大きなワンボックスカーが彼らの脇を走り抜け、前方で停車した。不穏な気配を察知した龍吾の身体に緊張が走る。

 停まった車から、闇に紛れる黒いスーツ姿の男が数人降りて、真っ直ぐに龍吾とみちるの方へ向かって歩いて来た。

 なんだ、アイツら。

 全身が総毛立った。

 これは間違いなく、やべぇ展開だよな。

 身構えた龍吾はみちるをサッと背後に隠した。背後でみちるが身体を固くしているのが分かった。

 前を睨み、男の人数を瞬時に数えた龍吾はとっさの判断で、ジーンズの後ろポケットに入れてあった自分の携帯の通話ボタンを押してみちるに着せたジャケットのポケットに突っ込んだ。
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