舞姫【後編】

友秋

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愛しい人よ

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 エミコを撃った弾は貫通しなかった為、みちるは無傷だった。

 みちる自身は一瞬何が起きたか分からず、ただ目の前で着物を血に染めて横たわるエミコを見て呆然としていた。

「みちる、無事か!」

 星児の声にただ頷いたが、瞬きを忘れたような目でエミコを見つめていた。

 呆然としていたのはみちるだけではなかった。

 田崎の手から拳銃が滑り落ち、床で重く硬い音を鳴らした。

 襲い掛かろうとした部下達に星児と龍吾が応戦しようとした時だった。

「そこまでだ!」
「動くな!」

 保の計らいで、佐々木を筆頭とした四課の刑事達が外に構えていた。

 発砲音は想定外だったようだが、突入の合図になった。

 一気に雪崩れ込んで来た刑事達に、構成員達が取り押さえられ、田崎は銃刀法違反の現行犯としてその場で逮捕された。

 連行される田崎は最後まで倒れたエミコを見る事はなかったが、あれほど不遜な男が情けなく背中を丸め、去って行った。

 もはや、星児の知る田崎ではなかった。恐らく、本当にエミコママを慕っていたのだろう。

 エミコと田崎の間にどんな過去があったのか。

 星児は胸に去来する複雑な想いを遮断しエミコに駆け寄った。

「大丈夫か!」

 星児に抱き起こされたエミコは虫の息でみちるに手を伸ばした。

「みちる……みちる」

 エミコの手が、みちるの頬を包む。

 みちるの目が戸惑いと悲しみに染まっていた。

 何故、あなたは私を庇ったの。
 何故、命を懸けてまで。

 後ろ手の拘束を外し、口を塞ぐタオルを解こうとした龍吾をエミコが止めた。

「ダメよ……! 今、そのタオル、外したら、ダメ……。病院に着くまで……」
「え」

 龍吾が手を止めると、エミコは息も絶え絶えに訴えた。

「みちる、あなた舌を、切ってるのね。死のうと、したのでしょう」

 みちるは目を見開く。

「ダメ、よ。あなたは、生きて。あなたは……私の大切な娘二人が残してくれた、大事な、大事な忘形見、なんだ……から……」

 エミコの手から力が抜けて、スルリと落ちた。

 みちるの目からボロボロと涙がこぼれた。

「駄目だ、エミコママ! 今、救急車来る!」

 星児はエミコを寝かせ、心臓マッサージを始めた。

「行かないでくれ! みちるを、抱いてやってくれ!」

 懸命にマッサージする星児の声を聞きながら、みちるは止まらない涙を拭いもせずエミコに寄り添った。

 おばあちゃん。

 あなたは、私のおばあちゃんだった!

 なんとなく感じていた。初めて会った時から。

 間違ってなかった。私の、たった一人の、血の繋がった人だった。

 やっと、やっと出逢えて、知ることが出来たのに。

 おばあちゃん、おばあちゃんーー!



「本当に、命を懸けるような事態になったのね」

 病院の薄暗い廊下のベンチでスミ子はため息混じりに言った。

 エミコは緊急手術が終わり、一命は取り止めたものの今は集中治療室で生死の境を彷徨っている。

 病院の、照明を減らした薄暗い廊下で星児、保、スミ子、そしてみちるがエミコの容態を案じていた。

 舌の傷は大した大事には至っておらず、縫うという処置でなんとか済んだ。入院と安静が必須なのだが、みちるはエミコが心配で寝てなどいられず点滴を連れて来ていた。

 さすがに疲れたのか、一緒のベンチに座っていたスミ子の膝を枕にして眠ってしまった。

 スミ子姐とはまだ二度しか会っていないのにな。保も星児も複雑な想いで眠るみちるを見ていた。

 みちるの中にあった、肉親に甘えたい心が今蘇ってしまったのか、スミ子から離れず、そのまま寝入ってしまったのだ。

 涙の跡が、痛ましく胸に刺さる。

 スミ子はみちるの頭を優しく撫でていた。まるで母親のような眼差しでみちるを見つめる。

「可愛いわね。姫花が産み落として舞花が大切に育ててくれた忘形見は、こんなそばにいたのね」

 しみじみと言った言葉に、星児と保の胸が締め付けられた。

「スミ姐」

 星児の、静かな重い声にスミ子が顔を上げた。

 星児と保が、二人並び頭を下げた。スミ子は驚く。

「何、どうしたの、二人とも?」

 頭を下げたまま星児が言う。

「すまない、こんな事になっちまって。恐らく、俺達がちゃんとしていればこんな事態にはならなかった」

 スミ子は静かに問い直す。

「〝ちゃんと〟ってどんな?」

 星児と保はほぼ同時にゴクリと唾を飲み込んだ。意を決して、星児が口を開く。

「知っていたんだ、みちるがエミコママの孫だって事。けど、みちるをーー」

 一気に言うのは無理だった。

 今まで決して口にしてこなかった想い、閉じ込めてきた感情を今初めて、言葉にするのだ。

 星児も保も同じ想いでここに立って頭を下げていた。

「俺達は、みちるを、愛していたから、手離したくなかったから、ずっと隠してきた」

 言い切った星児だったが、後が続かない。保も同様だ。何も言葉を発せられない。

 口にしてしまうと、どうしてこんなに薄っぺらなものになってしまうのだろう。

 自分達の関係は、言葉などでは言い表せないものだったのだ。

 重い沈黙が辺りを包む。スミ子も、気持ちの整理が必要だった。

 怒りはある。彼らがもっと早くにエミコにみちるを返してくれたらこんな事にはならなかったかもしれない。

 けれど、彼らの感情の一切を否定など出来ない。スミ子はみちるの髪を撫で、深呼吸した。

「顔を上げて、二人とも」

 静かな、柔らかな声だった。星児と保は、それでも顔を上げられない。

 二人の様子にスミ子はため息を吐き、ゆっくりと言葉を掛けた。

「いいわ、じゃあそのまま聞いて」

 膝で眠るみちるを愛しげに見つめる。

「エミコはね、既にあなた達からみちるを返してもらうのを諦めていたのよ。何故か分かる?」
「え」

 星児と保は顔を上げた。

「やっと顔上げてくれた」

 スミ子は優しく微笑んだ。

「正直、アタシは怒りの感情がないと言ったら嘘になる。けどね、エミコには多分、無いの。それは何故か。エミコはみちると会ってお話しして、みちるが本当に今幸せだと知ったからよ」
「みちるが、幸せ?」

 思わず反復した保にスミ子が静かに頷いた。

「そうよ。エミコはみちるに聞いたんですって。『あなたは幸せ?』って。みちるは少しの迷いもなく『幸せです』って答えたんですって。みちるの笑顔には少しも嘘はなかった、って。波乱万丈人生生き抜いて、銀座の花として何百もの人と接してきたエミコママの言葉よ。間違い無いわ。みちるは、本当に今、あなた達二人に愛されて幸せなのよ」

 スミ子の言葉に、星児と保は崩れ落ちそうになるのを必死に堪えていた。
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