はーと診療室へようこそ【完結】

深智

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カルテ4 〝彼〟の背中

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 昼下がり、事務所で電話をしていたわたしは受話器を置いて、またため息を吐いてしまった。

 家裁の調停を間近に控えても、近藤恵果さんのご主人、近藤蓮さんの態度は一向に軟化しなかった。

頑なに弁護士を立てようとしないし。

弁護士同士なら話しを進めやすいのに、とわたしは歯がゆい想いで一杯になってしまう。

弁護士としてのキャリアが圧倒的に浅いわたしにとって、こういう手詰まりは完全に黄色信号。

けれどこうなってくると、この夫婦には〝離婚〟とは違う別の選択肢、解決方法があるように思えてきた。

そんなことを、ファイルを眺めながら考える。

 でもこれは、あくまでも個人としての勘に外ならなくて、離婚調停をお願いしに来たクライアントに、余計な口出しをすれば仕事という概念が成立しなくなってしまう。

 仕方ないのね、ビジネスに徹さないと。

とりあえず、緒方君のアドバイスに従って当方の恵果さんには診断書を取って来てもらい、それは既に家裁に提出してあるし。

今日は、最終的な詰めに入る為に恵果さんに話しを聞こう、とわたしはもう一度受話器を取った。



 恵果さんは、約束の時間ぴったりに事務所に姿を現した。

本来ならわたしが出向くべきところなのだけど、恵果さんは近くに来ているから、と事務所まで出向いてくれた。

ニット帽にお洒落なTシャツ、パンツ姿。

色白で、可愛らしいファッショナブルな女性。

ファッション関係のお仕事をしてらっしゃるという。

 応接セットのソファにご案内して、わたしはその向かいに座る。

「診断書、お手間おかけしてすみません。
家裁の方には確かに提出しておきましたので」

 恵果さんは緊張の面持ちで、いえ、と頭を下げてから、言った。

「これで、後は先生があの人とお話しを進めてくださるんですね?」

〝あの人〟という言葉がわたしの胸にズキッと刺さった。

 どうして、愛し合って一緒になった筈の夫を〝あの人〟と呼ぶ日が来てしまうのだろう。

あまりにも悲しい。

 わたしは今まで彼女から聞いた話をまとめた資料をサッと読み返した。

 ご主人から、身体的な暴力はない。

けれど、日常的な言葉の暴力があった。

それは、彼女の人格をも否定するようなモラルハラスメントとなった、というのが概要だった。

けれどまだ、その暴言の内容と言ったものは具体的に聞いていなかった。

わたしは、相手の懐深くに踏み込むのが苦手。

交友関係では、相手の中にどこまで踏み込むか、その匙加減がとても大事なのだけど、仕事の場合、ビジネスと割り切ってある程度グイグイ行かなければ何も解決しない、といつも蓉子先生に怒られる。

調書を読み返してみると、踏み込んだ内容は何も書いていない。

これではいけない。

少し勇気を出して聞かなければ、とわたしは顔を上げて恵果さんを見た。

デリケートな事だから、慎重に。

「近藤さん、ご主人の方は、弁護士をお立てになっていません」

 わたしは迷いながらも、直截的なアプローチを避けて遠回しに話しをする事に決めた。

「ご主人の方は近藤さんと直接お話ししたがってらっしゃる事は、ご存じですよね?」

 恵果さんは、顔を上げなかった。

 心療内科に掛かっているくらいだ。

ご主人からの暴言で心に負った傷は深くて、精神的に参っている。

それは分かっているのだけど。

 相手方が頑なに、会わせてくれ、と言っている限り、ちゃんと話しを聞いて、深く理解しないと話はその先に進まない気がするの。

「近藤さん、ご主人との間がどうしてこんなに拗れてしまったのか、少しお話ししていただけますか?
そうしないと、この離婚のお話しはきっと平行線のまま、解決がどんどん難しくなってしまうと思うんです」

 恵果さんは、わたしの言葉に顔を上げ、辛そうだったけれど、ぽつりぽつりと話し始めた。

 お話しから見えて来たのは、働きたい、という恵果さんに対するご主人の無理解、と受け取れた。

仕事が面白くなってきた時期だったのに、彼の無理解に苦しめられて――、

 男の人はどうしてこう……と胸が苦しくなる。

「分かるわ……近藤さんの気持ち……」

 思わずポロリとこぼしていた。

いけない、と思って恵果さんの顔を見ると、彼女の顔がみるみる歪んだ。

そして、わたしを睨んだ。

 その目に、ドキンとした。

どうして? と思った時、彼女が言った。

「先生は、結婚していらっしゃらないそうですね。
だから、私の気持ちは分からないと思います」

 胸を刺されたような痛みが襲う。

でも、ここでクライアントさんの言葉に対して、感情に任せて言い返すわけにはいかない。

わたしはそのまま、恵果さんの言葉をただ黙って受け入れるしかなかった。

「先生は、そうやってお仕事を頑張っていて咎められた事なんてないでしょう?
先生に、私の気持ちなんて分かる訳がないんです」

 踏み込もうとしたら、こんな仕打ちが待っている。

 恵果さんは今、精神的に不安定になっている。

だから、そんな彼女の今の言葉を真に受けてはいけない、そんな事は分かってはいたのだけど。

 一部始終を傍で聞いていた蓉子先生は、恵果さんが帰った後、わたしに言った。

「菊乃、ダメよ。
ビジネスであることを忘れては。
こんな時に親戚縁者でも友人でもない人間にされる同情は、惨めな思いを誘うだけなの。
あんな言葉を弁護士が吐いてはダメよ、絶対に」



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