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カルテ13 過去にサヨナラ
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あの日、法廷に響き渡っていた玲さんの硬く冷たい声は、わたしを斬る、切れ味の鋭い刃となった。
負けた。
そう思った瞬間だった。
正義であったはずのものが、覆されてしまった瞬間だった。
あの時わたしは自分の力を思い知ったの。
クライアントさんを守ることすらできない、自分の力の無さを。
法廷で判決が言い渡された日の、彼女の顔が今でも目に焼き付いている。
今にも泣きだしそうなのに、泣かない、どこか諦めたような、言い表せない感情がもどかしい、そんな表情。
でも、彼女がわたしに残した言葉が、その表情以上の鮮烈な記憶になっている。
『翠川先生が私の為に、ご自分の今の居場所全てを失ってでも、って闘ってくれたことが、嬉しかった』
そんな言葉を言ってもらっても、わたしは結局勝てなかったの。
あなたを守れなかったの。
ごめんなさい、ごめんなさい。
わたしはずっと、胸の中で繰り返していた。
夢と現を行き来するような、うつらうつらしているわたしの耳に、柔らかで可愛い、そんな声が聞こえてきた。
「え、やだ、病院から遼ちゃんのとこに電話が?」
遼ちゃん?
あ、ひよりちゃんの声だ。
わたしはゆっくりと目を開けた。
朦朧としていた脳内の視神経が目覚め、周囲の様子が確認出来た。
わたしが横になっているソファは、衝立に囲まれた一角にある。
その衝立の向こうで、ひよりちゃんが誰かと電話で話しているようだった。
誰か。
遼太ね。
自分の中の問いに直ぐ、答えが結ばれる。
今聞こえたひよりちゃんの言葉の断片で、相手は分かったもの。
耳を澄ましているつもりはないけれど、聞こえてくるひよりちゃんの声を、わたしはぼんやり聞いていた。
「うん、本当は帰らずにすぐ入院しなさいって言われたんだけど、どうしても子供達に会いたくて。
え、今? えと……あの……あ、あのね、お友達に会っちゃって、久しぶりだったから、お茶しちゃって」
話しの内容から、ひよりちゃんは本当は直ぐに家に帰って入院しなければいけない状況であることが窺えて、わたしはガバッと起き上がった。
ひよりちゃんたら!
少し休んだだけで、さっき倒れそうになっていた貧血は納まったようだった。
ひよりちゃん! と言おうとしたら。
「大丈夫! はい、今からお家に帰って直ぐにママに病院まで送ってもらいます!
だから心配しないでね!
じゃあね、切るからね」
ひよりちゃんは慌ただしくそう言って電話を切ったようだった。
直後、衝立から顔を出した。
「菊乃さん! もう起きて大丈夫ですか?」
起き上がっていたわたしを見て一瞬驚いた表情を見せたひよりちゃんは心配そうな顔で聞いた。
大丈夫? と聞かれるべきはあなたよ。
わたしは苦笑いしてしまう。
「だいぶ楽になったわ、ありがとう。
それより、ごめんなさい、今の電話ちょっと聞いてしまったの……駄目じゃないひよりちゃん、自分の身体も大事にしなきゃ」
ひよりちゃんはわたしの言葉に、困った顔をして肩を竦めた。
「わたしは平気です。
初めての子じゃないから。
みんな心配性なんですよ」
そう言ってアハハと明るく笑ってみせたけど、わたしは気が気じゃなくて。
「そんなこと言ってないで。
ほらひよりちゃんは帰らなきゃ。
わたしはもう大丈夫だから、心配しないで」
そうですか? と心配そうにわたしを見るひよりちゃんを、帰るように促す。
「わたしは、大丈夫。
それより、くれぐれも足元とか気を付けて帰ってね」
迷いながら、何度も振り向くひよりちゃんに、わたしはバイバイと手を振った。
「ありがとう、ひよりちゃん。
遼太に心配かけちゃ駄目よ」
わたしの言葉に、パッと顔を赤らめたひよりちゃんがすごく可愛かった。
ああ、この子が、遼太が選んだ子。
会釈をして、衝立の向こうに消えたひよりちゃん。
出て行く前に駅員さんに挨拶をする声が聞こえていた。
遼太、あなたはとってもいい子を選んだのね。
ずっと胸につかえていたものがスーッと落ちていくような気がした。
☆
事務所に戻った後、くよくよなんてしていられない、と精力的に資料文献を探した。
切り崩せるところを見つけてなんとかして突破口をこじ開けなければ前に進めない、そう思った。
集めてきた資料の分析解析をしているうちにすっかり日も暮れ、蓉子先生とこのみさんは帰って行った。
一人残るわたしに「戸締りだけお願いね」とこのみさんは言っていたけれど、片付けと掃除もちゃんとしておかないとね。
ひと段落させて伸びをしたわたしは、フロアは掃き掃除をして、モップを掛け、デスクや応接セットのテーブルには雑巾がけをして、使った食器を片づけた。
自分のデスクに戻ってパソコンの電源を落として、帰る支度を始めた時、ふと今日会ったひよりちゃんのことを思い出した。
あの様子だと、わたしに会ったせいで帰るのが遅くなったこととか、遼太に話してないわね。
自分の身体を顧みずにひよりちゃんはこんなことをしてくれた、って伝えて、お礼を言いたい。
でも、いいだろうか。
わたしは、遼太に電話をして、いいの?
ひよりちゃんに対する感謝の気持ちを、真っ直ぐに、素直に伝えたいだけなのに、どこか、斜の角度から入るわたしの感情が邪魔をする。
わたしはすうっと深呼吸した。
もう、大丈夫。
酸素を取り込んだ冷静な頭が判断していた。
遼太の声を聞いても、やけぼっくいにはならない、と。
わたしの心に、別の人がいる。
その人が、わたしの背中を押してくれている気がした。
わたしは目を閉じ、もう一度深呼吸して携帯を手にした。
ずっと消すことができず、アドレスの中に納まっていた遼太の番号をタップする。
5年ぶり。恐らく、番号は代えてない。
目を閉じるわたしの耳に、携帯を通して呼び出し音が鳴り、数回で相手が取った。
「どうした、久しぶりだな、菊乃」
5年前とちっとも変らない声と、話し方。
思い出す感覚が、胸を締め付けそうだった。
少し前のわたしだったらきっと、蘇ってくる感情に呑み込まれていたかもしれない。
でも今は、不思議と心の波が凪いでいる。
「久しぶり、遼太。元気そうね」
自分でも驚くくらい、明るく素直にナチュラルに言葉が出て来る。
電話の向こうから「ああ、お前も」という遼太の声、に混じって。
「ぱぱぁーっ、おにいちゃんがたたいたよぉー」
小さい子供の泣き声が。遼太が、よしよし、となだめる様子が伝わってきた。
続いて「よっ」という掛け声のような声がした。
子供を抱き上げたのだろう。
「遼太、お子さん?」
「ああ」
そう言えばひよりちゃん、初めての子供じゃない、ってわたしに言っていたけど、電話で話していた時には『子供達』と言っていたわね。
その証拠に、遼太の声の向こうがなにやらとても賑やか。
わたしは一呼吸置いて、聞いた。
「遼太、お子さん、何人?」
「3人。来月には4人目が生まれる」
「……確か、結婚、4年目になったばかりだったわよね」
「ああ」
アンタ、どんだけ頑張ったのよ。
喉元まで出かかったその言葉を呑み込んだわたしが黙っていると。
クックという遼太の笑い声がしてきた。
「お前の言いたいこと、分かった。
俺がすげー頑張ったみてーに思ってんだろうけど、下の二人は双子だよ。
お前が思うほど俺はガツガツしてねーよ」
「なにのこと? わたし、分かんない」
「カマトト」
プッと吹き出したわたし達。
アハハと暫し笑い合った。
あの頃に戻ったみたいに。
やっぱり、わたしと遼太の間にあるのは、まだ若かったあの頃の甘酸っぱい感覚そのまま。
そこから、なにも進歩していなかった。
きっと、わたし達の関係は、進歩させることなくあそこで止めたままだった。
そこに留めたまま、記憶はどんどん美化されていったのね。
「男の子? 女の子?」
「全部男」
「三人おとこ!?」
そう、と遼太が答えると、向こうでケンカを始まったらしく、遼太が子供達に一喝入れる声がした。
どうりで賑やか。
「ひよはずっと、女の子が欲しいなって話しててさ」
そうか、それで四人目……。
「で、今度は?」
遼太が、んー、と唸る。
「恐らく、女。
でも生まれてみないと分かんねーな。
俺はどっちでもいいんだけどさ。
ひよも赤ん坊も元気なら」
そうね、とわたしが答えると遼太が「ところで」と話しを変えた。
「今日はどうした? 何かあったか?」
ああ、そうだった。
5年ぶりという久しぶりの電話。
何でもなければ掛けたりしない事、遼太も分かってる。
わたしは軽く深呼吸をして気持ちを整えて口を開いた。
「実はね、わたし今日駅でひよりちゃんに助けてもらったの。
そのお礼を言いたくて」
え? と言ったまま言葉を詰まらせた遼太の様子が電話を通して伝わってきた。
やっぱり、ひよりちゃんは話していないのね。
わたしはゆっくりと説明を始めた。
「わたし、立川駅で貧血起こして歩けなくなって座り込んでしまったの。
その時に声を掛けてくれたのがひよりちゃんだったの。
ごめんね、ひよりちゃんが大変な状況だなんて知らなかったから、わたしが少しよくなるまで付き合ってもらっちゃったの」
遼太の息を吐く気配が感じられた。
「なんだ、そういうことだったのか。
菊乃と一緒だったのか」
遼太、怒るんじゃないかしら、って思ったけれど、安堵したような声を聞いてわたしの、荷を背負っていたかのように重かった胸が、少し軽くなった。
「どこかで具合悪くなったりしたのかと思って心配してたんだ。
具合悪かったのは菊乃か」
笑いながら話す遼太に、わたしの胸がまた少し軽くなる。
「で、菊乃はもう平気なのか?」
わたしへの気遣いも忘れない遼太。
昔からそうだったわね。
優しいの。
「大丈夫、ひよりちゃんに助けてもらったから。
それより、ひよりちゃんは?」
遼太は抱いている子供をあやしながら「ひよは大丈夫だ」と答えた。
「無事、入院させたから」
ドキッとした。
やっぱり、わたしを助けてる場合じゃなかったんじゃないの?
「もう生まれそうなの?」
少し心配になって聞くと。
「いや、アイツ、前回の出産が帝王切開で今回は最初から要観察だったんだ。
それが今日の検診であまり状態が良くなかったらしくてとにかく家に帰らずこのまま入院しろって言われたらしい」
そうだったの、と息を呑んだわたしに、遼太は話しを続けた。
「それをアイツ、子供が気になるから一度帰らせてくれって頼み込んで、すぐに病院に戻るっていう約束で帰らせてもらって、その途中で倒れてた菊乃を見つけたってワケだな」
「ひよりちゃんたら……」
言葉の継ぎ穂が見つからなかった。
本当に、ひよりちゃんは自分のことを顧みず、わたしの為に動いてくれていた。
そう思うと、胸が一杯になった。
ここで何を言っても、どんな言葉も安っぽい薄っぺらなものになってしまう。
黙ってしまったわたしに遼太が、フッと笑った。
「お前に、似てるだろ?」
「え?」
思わず聞き返した。
「わたしと、誰?」
「お前と、ひよ」
わたしと、ひよりちゃん?
あまりにも意外で唐突な言葉に、わたしは何と言っていいか分からなかった。
到底、似てるとは思えない。
共通点も見あたらな――、
「人のことばかり考えて自分のことは二の次にしちまうとこが似てるんだよ」
あ、とわたしは固まる。
「俺の趣味はブレないんだぞ」
わたしの耳に、遼太の優しい笑い声が届いた。
遼太がひよりちゃんを選んだ時に受けたショックは〝失恋という事実からもたらされたもの〟はもちろんある。
けれどそれとは何か別の、失望感みたいなものがあった。
きっと、若さと幼さの中にある可愛らしさ、といった自分にはないものを求めた遼太に対する非難めいたものだったのかもしれない。
でも。
『似てるだろ』
胸の奥底を震わせ、自然に染み込む言葉だった。
ずっと引っ掛かって前に進めなかったのは、遼太がわたしの何を見てくれていたのか分からなくなってしまっていたから。
自分とは正反対の子を選んだことに対して生まれたショックはわたしの心の一部分――恋情恋慕を健全に育む部分――の時を止めてしまった。
結果、全てがキラキラに見えていた頃、わたしの中にしっかりと足跡を残した遼太が消えなくなってしまったのね。
残像となった遼太はわたしの中で美化されていた。
でも、もう遼太はあの頃の遼太じゃない。
男であっても、男じゃない。
「パパー!」
「おっと」
もう一人、子供が遼太の元に走り寄ってきたようだ。
そう、遼太は、家庭を守る、夫で父親。
「ちょっと待て、俺はまだ電話してる。
歯を磨いて来い!」
子供達の、はーい、と言う声と駆けていく足音が聞こえた。
「ひよりちゃんいなくて、遼太一人で三人みるの?」
「昼間は俺は仕事だからひよの実家。
夜は連れて帰って来て一緒に風呂入って寝る」
遼太は本当に、パパになっている。
わたしが好きだった、愛した男は、もういない。
わたしは、幻影を追い求めていたんだわ。
それに。
ひよ。
遼ちゃん。
幼なじみだった二人がそう呼び合うところを始めて見た時の、
ああこの二人の間には他人が入り込む隙なんて1ミリもないんだ、
と思い知らされた時の、切なくて苦しくて泣きたくなった感覚が胸に蘇ってきた。
感情が風化して、思い出となる。
当時の胸の痛みが過去のもの、って言えるようになった。
なんだか、すっきりした。
遼太に電話をして良かった。
わたし、真の意味で、吹っ切れた気がする。
今、本当に新たな一歩を踏み出せる。
じゃあ、一歩踏み出す先にいるのは、誰?
フッと脳裏に湧いた自問に、トクン、という心地よい鼓動を感じ、わたしは目を閉じて息を吐く。
その時、不意に遼太が言った。
「誠に会ったんだって?」
心地良い鼓動だった筈の拍動が一気に、どっきん、という大きな脈動に変わりビックと震え、わたしは携帯を落としそうになった。
慌てふためき、携帯を反対の耳に当て、答える。
「え、ああ、そうなの。
仕事で、久しぶりに会って……」
デートもした、とは言えなかったけど。
心を読まれた、と思ってしまうほどタイムリーな遼太の言葉に、わたしは恐る恐る聞いた。
「遼太、緒方君と今でも会ってるの?」
少しの間があったように思う。
一度息を吐く気配があった後、遼太が言った。
「ずっと会ってる、と言いたいところだが、実は、10年くらい前に一回切れた」
「そう、なの?」
「ああ……、アイツ、友人知人、との関係を、絶った時期があるんだ。
その時に、ちょっとな」
遼太の言葉は、何かが挟まったような、歯切れが悪いものだった。
遼太は、言葉を選んでる。
そう感じた。
話せない何かがある。
そう思った。
少しの間わたし達の間に流れた重い空気を遼太が変えた。
「でもな、アイツはちゃんと俺のとこに戻ってきたぜ。
それからは週に一度は呑んでる」
カラカラと笑った遼太の声はいつのも遼太の声だった。
思わず釣られて笑っちゃう。
「長い付き合いだと、会えない時期もあるよな」
「そうね」
いつも、ハッキリとした物言いをしてくれる遼太の、歯切れの悪さは少し気に掛かったけれど、確かに、付き合いが長くなればそんな時期もあるわよね。
わたしだって、司法試験に受かるまでの数年間、ほとんど千尋に会えなかった。
そうだわ、それと同じよ。
そう思おう。
そして何より、緒方君は大事な友人である遼太にわたしと会ったことを報告してくれていた。
そう考えに思い至った時、あれ? と思った。
だとしたら、緒方君は、どんな風にわたしのことを?
急にドキドキし始めた胸をそっと押さえるわたしの耳に、
「誠のこと、菊乃なら安心して任せられるんだけどな」
呟くような、でも切実な、そんな響きを持った遼太の声が届いた。
「遼太?」
少しの間を置いて、遼太の言葉が言った。
「誠の過去、お前なら、お前くらい懐の深い女なら、受け止めてやれるだろ?」
ドクン、ともビクン、ともとれる震えるような感覚があった。
緒方君の、過去?
遼太は、あの心中騒動のことを言っているの?
それとも、他に?
わたしは、あの時に緒方君と彼女が抱えていた問題も、心中に至った理由も知らない。
その後二人がどうなったかも。
遼太は、知っているのだろう。
でも、一度は切れたという緒方君との関係。
そこに、何か隠されているの?
遼太に、ちゃんと話してもらう?
一瞬思いついた考えを、わたしは掻き消した。
ダメだ。これは、緒方君の口から、聞かないといけないと思う。
緒方君が、話したい、と思ったタイミング、ううん、わたしに話したい、と思ってくれた時に、聞きたい。
わたしの脳裏にふと、遼太の言葉がリフレインされる。
『お前なら受け止めてやれるだろう』?
こめかみに手を当て、目を閉じ、わたしはじっと意味を考え、ゆっくりと口を開いた。
「遼太」
電話の向こうから、ん? という声。
わたしは、ゆっくりと言った。
「緒方君にも、選ぶ権利はあるでしょう」
一瞬の間があったが、アハハという快活な遼太の笑い声がわたしの、今の重い思考を吹き飛ばしてしまった。
「それならきっと大丈夫だ」
「大丈夫? どういう意味? その大丈夫はどこにかかるの?」
能天気とも言える遼太の言葉と声の調子に、真面目に考えていたわたしは少し強い口調で返した。
遼太は。
「菊乃のことを話していた誠の様子を見れば分かる。
いくら一時関係が切れた、と言ったって、どれだけの間アイツを見て来たと思う?
俺は、アイツとバッテリー組んでいたんだぜ。
アイツの思う事なんて、見てるだけで手に取るように分かる」
わたしは、何も言えなかった。
遼太の言う言葉は、何故か昔から説得力があった。
ねえ、遼太。
緒方君は、どんな風に、わたしのことを?
気になって、気になって、今、わたしの中はもう――、
「菊乃なら、大丈夫だ」
そう話した遼太の声が、わたしの耳を通して、胸の中に拡がった。
「あとは、菊乃次第だ」
「わたし、次第……」
おうむ返しに呟くわたしに遼太は、そうだ! と明るく言っていた。
わたしの気持ちは、もう決まってた。
わたしの気持ちは、気付かないうちに、緒方君に傾いていたんだ。
その後、少し遼太の言葉を聞いて力を得たわたしは最後に「ひよりちゃんによろしくね」と伝えて電話を切ったわたしは、手の中のそれを見つめて心の中で呟いた。
バイバイ、遼太。
やっと、さよなら出来た。
わたし、吹っ切れた。
再びシンと静まり返った誰もいない事務所は、時計の音だけが、コチコチと響いていた。
わたしは目を閉じた。
遼太が力をくれた言葉を反芻する。
『誠には尊重し合える、尊敬し合える相手が必要なんだ。
本当の意味で自立して、地に足を付けて生きているお前なら、って思うんだ』
わたしだって、そうしたい。
それが、緒方君であって欲しい。
会いたい、声を聞かせて!
わたしは、再び携帯を手にした。
負けた。
そう思った瞬間だった。
正義であったはずのものが、覆されてしまった瞬間だった。
あの時わたしは自分の力を思い知ったの。
クライアントさんを守ることすらできない、自分の力の無さを。
法廷で判決が言い渡された日の、彼女の顔が今でも目に焼き付いている。
今にも泣きだしそうなのに、泣かない、どこか諦めたような、言い表せない感情がもどかしい、そんな表情。
でも、彼女がわたしに残した言葉が、その表情以上の鮮烈な記憶になっている。
『翠川先生が私の為に、ご自分の今の居場所全てを失ってでも、って闘ってくれたことが、嬉しかった』
そんな言葉を言ってもらっても、わたしは結局勝てなかったの。
あなたを守れなかったの。
ごめんなさい、ごめんなさい。
わたしはずっと、胸の中で繰り返していた。
夢と現を行き来するような、うつらうつらしているわたしの耳に、柔らかで可愛い、そんな声が聞こえてきた。
「え、やだ、病院から遼ちゃんのとこに電話が?」
遼ちゃん?
あ、ひよりちゃんの声だ。
わたしはゆっくりと目を開けた。
朦朧としていた脳内の視神経が目覚め、周囲の様子が確認出来た。
わたしが横になっているソファは、衝立に囲まれた一角にある。
その衝立の向こうで、ひよりちゃんが誰かと電話で話しているようだった。
誰か。
遼太ね。
自分の中の問いに直ぐ、答えが結ばれる。
今聞こえたひよりちゃんの言葉の断片で、相手は分かったもの。
耳を澄ましているつもりはないけれど、聞こえてくるひよりちゃんの声を、わたしはぼんやり聞いていた。
「うん、本当は帰らずにすぐ入院しなさいって言われたんだけど、どうしても子供達に会いたくて。
え、今? えと……あの……あ、あのね、お友達に会っちゃって、久しぶりだったから、お茶しちゃって」
話しの内容から、ひよりちゃんは本当は直ぐに家に帰って入院しなければいけない状況であることが窺えて、わたしはガバッと起き上がった。
ひよりちゃんたら!
少し休んだだけで、さっき倒れそうになっていた貧血は納まったようだった。
ひよりちゃん! と言おうとしたら。
「大丈夫! はい、今からお家に帰って直ぐにママに病院まで送ってもらいます!
だから心配しないでね!
じゃあね、切るからね」
ひよりちゃんは慌ただしくそう言って電話を切ったようだった。
直後、衝立から顔を出した。
「菊乃さん! もう起きて大丈夫ですか?」
起き上がっていたわたしを見て一瞬驚いた表情を見せたひよりちゃんは心配そうな顔で聞いた。
大丈夫? と聞かれるべきはあなたよ。
わたしは苦笑いしてしまう。
「だいぶ楽になったわ、ありがとう。
それより、ごめんなさい、今の電話ちょっと聞いてしまったの……駄目じゃないひよりちゃん、自分の身体も大事にしなきゃ」
ひよりちゃんはわたしの言葉に、困った顔をして肩を竦めた。
「わたしは平気です。
初めての子じゃないから。
みんな心配性なんですよ」
そう言ってアハハと明るく笑ってみせたけど、わたしは気が気じゃなくて。
「そんなこと言ってないで。
ほらひよりちゃんは帰らなきゃ。
わたしはもう大丈夫だから、心配しないで」
そうですか? と心配そうにわたしを見るひよりちゃんを、帰るように促す。
「わたしは、大丈夫。
それより、くれぐれも足元とか気を付けて帰ってね」
迷いながら、何度も振り向くひよりちゃんに、わたしはバイバイと手を振った。
「ありがとう、ひよりちゃん。
遼太に心配かけちゃ駄目よ」
わたしの言葉に、パッと顔を赤らめたひよりちゃんがすごく可愛かった。
ああ、この子が、遼太が選んだ子。
会釈をして、衝立の向こうに消えたひよりちゃん。
出て行く前に駅員さんに挨拶をする声が聞こえていた。
遼太、あなたはとってもいい子を選んだのね。
ずっと胸につかえていたものがスーッと落ちていくような気がした。
☆
事務所に戻った後、くよくよなんてしていられない、と精力的に資料文献を探した。
切り崩せるところを見つけてなんとかして突破口をこじ開けなければ前に進めない、そう思った。
集めてきた資料の分析解析をしているうちにすっかり日も暮れ、蓉子先生とこのみさんは帰って行った。
一人残るわたしに「戸締りだけお願いね」とこのみさんは言っていたけれど、片付けと掃除もちゃんとしておかないとね。
ひと段落させて伸びをしたわたしは、フロアは掃き掃除をして、モップを掛け、デスクや応接セットのテーブルには雑巾がけをして、使った食器を片づけた。
自分のデスクに戻ってパソコンの電源を落として、帰る支度を始めた時、ふと今日会ったひよりちゃんのことを思い出した。
あの様子だと、わたしに会ったせいで帰るのが遅くなったこととか、遼太に話してないわね。
自分の身体を顧みずにひよりちゃんはこんなことをしてくれた、って伝えて、お礼を言いたい。
でも、いいだろうか。
わたしは、遼太に電話をして、いいの?
ひよりちゃんに対する感謝の気持ちを、真っ直ぐに、素直に伝えたいだけなのに、どこか、斜の角度から入るわたしの感情が邪魔をする。
わたしはすうっと深呼吸した。
もう、大丈夫。
酸素を取り込んだ冷静な頭が判断していた。
遼太の声を聞いても、やけぼっくいにはならない、と。
わたしの心に、別の人がいる。
その人が、わたしの背中を押してくれている気がした。
わたしは目を閉じ、もう一度深呼吸して携帯を手にした。
ずっと消すことができず、アドレスの中に納まっていた遼太の番号をタップする。
5年ぶり。恐らく、番号は代えてない。
目を閉じるわたしの耳に、携帯を通して呼び出し音が鳴り、数回で相手が取った。
「どうした、久しぶりだな、菊乃」
5年前とちっとも変らない声と、話し方。
思い出す感覚が、胸を締め付けそうだった。
少し前のわたしだったらきっと、蘇ってくる感情に呑み込まれていたかもしれない。
でも今は、不思議と心の波が凪いでいる。
「久しぶり、遼太。元気そうね」
自分でも驚くくらい、明るく素直にナチュラルに言葉が出て来る。
電話の向こうから「ああ、お前も」という遼太の声、に混じって。
「ぱぱぁーっ、おにいちゃんがたたいたよぉー」
小さい子供の泣き声が。遼太が、よしよし、となだめる様子が伝わってきた。
続いて「よっ」という掛け声のような声がした。
子供を抱き上げたのだろう。
「遼太、お子さん?」
「ああ」
そう言えばひよりちゃん、初めての子供じゃない、ってわたしに言っていたけど、電話で話していた時には『子供達』と言っていたわね。
その証拠に、遼太の声の向こうがなにやらとても賑やか。
わたしは一呼吸置いて、聞いた。
「遼太、お子さん、何人?」
「3人。来月には4人目が生まれる」
「……確か、結婚、4年目になったばかりだったわよね」
「ああ」
アンタ、どんだけ頑張ったのよ。
喉元まで出かかったその言葉を呑み込んだわたしが黙っていると。
クックという遼太の笑い声がしてきた。
「お前の言いたいこと、分かった。
俺がすげー頑張ったみてーに思ってんだろうけど、下の二人は双子だよ。
お前が思うほど俺はガツガツしてねーよ」
「なにのこと? わたし、分かんない」
「カマトト」
プッと吹き出したわたし達。
アハハと暫し笑い合った。
あの頃に戻ったみたいに。
やっぱり、わたしと遼太の間にあるのは、まだ若かったあの頃の甘酸っぱい感覚そのまま。
そこから、なにも進歩していなかった。
きっと、わたし達の関係は、進歩させることなくあそこで止めたままだった。
そこに留めたまま、記憶はどんどん美化されていったのね。
「男の子? 女の子?」
「全部男」
「三人おとこ!?」
そう、と遼太が答えると、向こうでケンカを始まったらしく、遼太が子供達に一喝入れる声がした。
どうりで賑やか。
「ひよはずっと、女の子が欲しいなって話しててさ」
そうか、それで四人目……。
「で、今度は?」
遼太が、んー、と唸る。
「恐らく、女。
でも生まれてみないと分かんねーな。
俺はどっちでもいいんだけどさ。
ひよも赤ん坊も元気なら」
そうね、とわたしが答えると遼太が「ところで」と話しを変えた。
「今日はどうした? 何かあったか?」
ああ、そうだった。
5年ぶりという久しぶりの電話。
何でもなければ掛けたりしない事、遼太も分かってる。
わたしは軽く深呼吸をして気持ちを整えて口を開いた。
「実はね、わたし今日駅でひよりちゃんに助けてもらったの。
そのお礼を言いたくて」
え? と言ったまま言葉を詰まらせた遼太の様子が電話を通して伝わってきた。
やっぱり、ひよりちゃんは話していないのね。
わたしはゆっくりと説明を始めた。
「わたし、立川駅で貧血起こして歩けなくなって座り込んでしまったの。
その時に声を掛けてくれたのがひよりちゃんだったの。
ごめんね、ひよりちゃんが大変な状況だなんて知らなかったから、わたしが少しよくなるまで付き合ってもらっちゃったの」
遼太の息を吐く気配が感じられた。
「なんだ、そういうことだったのか。
菊乃と一緒だったのか」
遼太、怒るんじゃないかしら、って思ったけれど、安堵したような声を聞いてわたしの、荷を背負っていたかのように重かった胸が、少し軽くなった。
「どこかで具合悪くなったりしたのかと思って心配してたんだ。
具合悪かったのは菊乃か」
笑いながら話す遼太に、わたしの胸がまた少し軽くなる。
「で、菊乃はもう平気なのか?」
わたしへの気遣いも忘れない遼太。
昔からそうだったわね。
優しいの。
「大丈夫、ひよりちゃんに助けてもらったから。
それより、ひよりちゃんは?」
遼太は抱いている子供をあやしながら「ひよは大丈夫だ」と答えた。
「無事、入院させたから」
ドキッとした。
やっぱり、わたしを助けてる場合じゃなかったんじゃないの?
「もう生まれそうなの?」
少し心配になって聞くと。
「いや、アイツ、前回の出産が帝王切開で今回は最初から要観察だったんだ。
それが今日の検診であまり状態が良くなかったらしくてとにかく家に帰らずこのまま入院しろって言われたらしい」
そうだったの、と息を呑んだわたしに、遼太は話しを続けた。
「それをアイツ、子供が気になるから一度帰らせてくれって頼み込んで、すぐに病院に戻るっていう約束で帰らせてもらって、その途中で倒れてた菊乃を見つけたってワケだな」
「ひよりちゃんたら……」
言葉の継ぎ穂が見つからなかった。
本当に、ひよりちゃんは自分のことを顧みず、わたしの為に動いてくれていた。
そう思うと、胸が一杯になった。
ここで何を言っても、どんな言葉も安っぽい薄っぺらなものになってしまう。
黙ってしまったわたしに遼太が、フッと笑った。
「お前に、似てるだろ?」
「え?」
思わず聞き返した。
「わたしと、誰?」
「お前と、ひよ」
わたしと、ひよりちゃん?
あまりにも意外で唐突な言葉に、わたしは何と言っていいか分からなかった。
到底、似てるとは思えない。
共通点も見あたらな――、
「人のことばかり考えて自分のことは二の次にしちまうとこが似てるんだよ」
あ、とわたしは固まる。
「俺の趣味はブレないんだぞ」
わたしの耳に、遼太の優しい笑い声が届いた。
遼太がひよりちゃんを選んだ時に受けたショックは〝失恋という事実からもたらされたもの〟はもちろんある。
けれどそれとは何か別の、失望感みたいなものがあった。
きっと、若さと幼さの中にある可愛らしさ、といった自分にはないものを求めた遼太に対する非難めいたものだったのかもしれない。
でも。
『似てるだろ』
胸の奥底を震わせ、自然に染み込む言葉だった。
ずっと引っ掛かって前に進めなかったのは、遼太がわたしの何を見てくれていたのか分からなくなってしまっていたから。
自分とは正反対の子を選んだことに対して生まれたショックはわたしの心の一部分――恋情恋慕を健全に育む部分――の時を止めてしまった。
結果、全てがキラキラに見えていた頃、わたしの中にしっかりと足跡を残した遼太が消えなくなってしまったのね。
残像となった遼太はわたしの中で美化されていた。
でも、もう遼太はあの頃の遼太じゃない。
男であっても、男じゃない。
「パパー!」
「おっと」
もう一人、子供が遼太の元に走り寄ってきたようだ。
そう、遼太は、家庭を守る、夫で父親。
「ちょっと待て、俺はまだ電話してる。
歯を磨いて来い!」
子供達の、はーい、と言う声と駆けていく足音が聞こえた。
「ひよりちゃんいなくて、遼太一人で三人みるの?」
「昼間は俺は仕事だからひよの実家。
夜は連れて帰って来て一緒に風呂入って寝る」
遼太は本当に、パパになっている。
わたしが好きだった、愛した男は、もういない。
わたしは、幻影を追い求めていたんだわ。
それに。
ひよ。
遼ちゃん。
幼なじみだった二人がそう呼び合うところを始めて見た時の、
ああこの二人の間には他人が入り込む隙なんて1ミリもないんだ、
と思い知らされた時の、切なくて苦しくて泣きたくなった感覚が胸に蘇ってきた。
感情が風化して、思い出となる。
当時の胸の痛みが過去のもの、って言えるようになった。
なんだか、すっきりした。
遼太に電話をして良かった。
わたし、真の意味で、吹っ切れた気がする。
今、本当に新たな一歩を踏み出せる。
じゃあ、一歩踏み出す先にいるのは、誰?
フッと脳裏に湧いた自問に、トクン、という心地よい鼓動を感じ、わたしは目を閉じて息を吐く。
その時、不意に遼太が言った。
「誠に会ったんだって?」
心地良い鼓動だった筈の拍動が一気に、どっきん、という大きな脈動に変わりビックと震え、わたしは携帯を落としそうになった。
慌てふためき、携帯を反対の耳に当て、答える。
「え、ああ、そうなの。
仕事で、久しぶりに会って……」
デートもした、とは言えなかったけど。
心を読まれた、と思ってしまうほどタイムリーな遼太の言葉に、わたしは恐る恐る聞いた。
「遼太、緒方君と今でも会ってるの?」
少しの間があったように思う。
一度息を吐く気配があった後、遼太が言った。
「ずっと会ってる、と言いたいところだが、実は、10年くらい前に一回切れた」
「そう、なの?」
「ああ……、アイツ、友人知人、との関係を、絶った時期があるんだ。
その時に、ちょっとな」
遼太の言葉は、何かが挟まったような、歯切れが悪いものだった。
遼太は、言葉を選んでる。
そう感じた。
話せない何かがある。
そう思った。
少しの間わたし達の間に流れた重い空気を遼太が変えた。
「でもな、アイツはちゃんと俺のとこに戻ってきたぜ。
それからは週に一度は呑んでる」
カラカラと笑った遼太の声はいつのも遼太の声だった。
思わず釣られて笑っちゃう。
「長い付き合いだと、会えない時期もあるよな」
「そうね」
いつも、ハッキリとした物言いをしてくれる遼太の、歯切れの悪さは少し気に掛かったけれど、確かに、付き合いが長くなればそんな時期もあるわよね。
わたしだって、司法試験に受かるまでの数年間、ほとんど千尋に会えなかった。
そうだわ、それと同じよ。
そう思おう。
そして何より、緒方君は大事な友人である遼太にわたしと会ったことを報告してくれていた。
そう考えに思い至った時、あれ? と思った。
だとしたら、緒方君は、どんな風にわたしのことを?
急にドキドキし始めた胸をそっと押さえるわたしの耳に、
「誠のこと、菊乃なら安心して任せられるんだけどな」
呟くような、でも切実な、そんな響きを持った遼太の声が届いた。
「遼太?」
少しの間を置いて、遼太の言葉が言った。
「誠の過去、お前なら、お前くらい懐の深い女なら、受け止めてやれるだろ?」
ドクン、ともビクン、ともとれる震えるような感覚があった。
緒方君の、過去?
遼太は、あの心中騒動のことを言っているの?
それとも、他に?
わたしは、あの時に緒方君と彼女が抱えていた問題も、心中に至った理由も知らない。
その後二人がどうなったかも。
遼太は、知っているのだろう。
でも、一度は切れたという緒方君との関係。
そこに、何か隠されているの?
遼太に、ちゃんと話してもらう?
一瞬思いついた考えを、わたしは掻き消した。
ダメだ。これは、緒方君の口から、聞かないといけないと思う。
緒方君が、話したい、と思ったタイミング、ううん、わたしに話したい、と思ってくれた時に、聞きたい。
わたしの脳裏にふと、遼太の言葉がリフレインされる。
『お前なら受け止めてやれるだろう』?
こめかみに手を当て、目を閉じ、わたしはじっと意味を考え、ゆっくりと口を開いた。
「遼太」
電話の向こうから、ん? という声。
わたしは、ゆっくりと言った。
「緒方君にも、選ぶ権利はあるでしょう」
一瞬の間があったが、アハハという快活な遼太の笑い声がわたしの、今の重い思考を吹き飛ばしてしまった。
「それならきっと大丈夫だ」
「大丈夫? どういう意味? その大丈夫はどこにかかるの?」
能天気とも言える遼太の言葉と声の調子に、真面目に考えていたわたしは少し強い口調で返した。
遼太は。
「菊乃のことを話していた誠の様子を見れば分かる。
いくら一時関係が切れた、と言ったって、どれだけの間アイツを見て来たと思う?
俺は、アイツとバッテリー組んでいたんだぜ。
アイツの思う事なんて、見てるだけで手に取るように分かる」
わたしは、何も言えなかった。
遼太の言う言葉は、何故か昔から説得力があった。
ねえ、遼太。
緒方君は、どんな風に、わたしのことを?
気になって、気になって、今、わたしの中はもう――、
「菊乃なら、大丈夫だ」
そう話した遼太の声が、わたしの耳を通して、胸の中に拡がった。
「あとは、菊乃次第だ」
「わたし、次第……」
おうむ返しに呟くわたしに遼太は、そうだ! と明るく言っていた。
わたしの気持ちは、もう決まってた。
わたしの気持ちは、気付かないうちに、緒方君に傾いていたんだ。
その後、少し遼太の言葉を聞いて力を得たわたしは最後に「ひよりちゃんによろしくね」と伝えて電話を切ったわたしは、手の中のそれを見つめて心の中で呟いた。
バイバイ、遼太。
やっと、さよなら出来た。
わたし、吹っ切れた。
再びシンと静まり返った誰もいない事務所は、時計の音だけが、コチコチと響いていた。
わたしは目を閉じた。
遼太が力をくれた言葉を反芻する。
『誠には尊重し合える、尊敬し合える相手が必要なんだ。
本当の意味で自立して、地に足を付けて生きているお前なら、って思うんだ』
わたしだって、そうしたい。
それが、緒方君であって欲しい。
会いたい、声を聞かせて!
わたしは、再び携帯を手にした。
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