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カルテ16 あなたの腕の中で
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緒方君の優しい指が、わたしの髪の毛をそっと梳いてくれていた。
「今でいう、マタニティーハラスメント、だね」
柔らかな声に包まれながらわたしは頷き、緒方君の胸に顔を埋めた。応えるようにそっと抱いてくれる腕に痺れるような快感を覚えた。
思い出すと込み上げてくる感情は、苦く、辛く、胸を塞ぐ。でも、緒方君の不思議な空気感は、重い滓を浄化してくれるよう。
話すことで、楽になる、っていう感覚をこんなに実感したことはなかった。
緒方君の上に覆いかぶさるように横たわる。
胸に頬を寄せて素肌を感じ、わたしは耳に届く規則正しい鼓動に自分の鼓動をリンクさせた。
全身を包む安堵のような心の落ち着きに目を閉じた時、緒方君が言った。
「それで、その後はどうなったの」
静かな声だった。わたしは、ああ、と思う。
まだ、先を話していなかった。
「裁判、本当に闘ったの、婚約者と」
わたしは緒方君の胸にぴたりと顔をくっつけたまま、うん、と頷いた。
「闘ったわ」
そうなんだ、と言いながら、緒方君はわたしの気持ちを和らげるように優しく頭を撫でてくれた。
その手に安心したわたしの口からは言葉が自然とこぼれていく。
「マタニティーハラスメント、っていう言葉が一般的に広まった今なら、会社も企業イメージ損ねない為になんとか和解を、と告訴の取り下げに頭を下げてくれたかもしれないけれど、あの頃はまだそうじゃなかった。
でもね、味方になってくれる女性の会はあの頃からあって、色々と尽力はしてくれたの。
原告の彼女はとても有能な方だったから、退職前に一緒に働いていた社員達からもいい証言が沢山取れて裁判官の心象も良くて、これならいけるかも、勝訴を勝ち取れるかもしれない、って思ってた」
そこまで話したわたしの脳裏に当時のことが鮮やかに蘇ってきた。
胸の中に苦いものが拡がり、緒方君の身体に回していた腕に力が籠る。
ギュッと目を閉じた時、フワッと頭を抱き締められた。
何も言わないけれど、その腕の感触に、心を覆い尽くしそうになっていた闇が、晴れていく。
込み上げて来そうな涙を堪えてわたしは「緒方君」と囁いた。
「このままで、聞いていてね。聞いてね、ちゃんと、話すから」
「大丈夫、僕はちゃんと聞いてるから」
静かな、甘い声が心をくすぐる。
ありがとう、緒方君。ずっと、わたしの傍にいて。
わたしは心の中でそう囁いていて、話しを続けた。
裁判が進むにつれ、こちら側が有利となっていた状況を玲さんが大人しく傍観している筈もなく、好意的な証言をしてくれていた社員達がどんどん口を閉ざしていった。
しっかりと裏で手を回していたのだ。
こちらが集めようとする証拠、すべてにロックが掛かり、八方ふさがりとなり、わたしはどんどん追い詰められて行った。
完璧主義の玲さんは、攻めるとなると、とことんだった。
止めは、妊婦がチームにいることによって引き起こされるダメージ、というものをしっかりと数的予想を示して、裁判官に訴えた。
『開発プロジェクトが佳境に入りいよいよこれから、となった時に原告は確実にチーム内にいられる保障はあるでしょうか。
否、ありません。
いつ起こるとも言えない有事のリスクを抱える原告をチームに置いたまま、プロジェクトを進ませた場合の損害を予想数値として計算しました。
提出した資料の――』
玲さんの攻めは完璧だった。
考えてみれば、どこにも付け入る隙のない冷酷で完璧な弁護士に、わたしが勝てる見込みは、1%にも満たなかったのだ。
結果、こちらに吹き始めていた良い風は、知らないうちに方向を変え、会社側の勝訴。
それなのに、裁判官からの敗訴の宣告を言い聞いた瞬間、花さんは、哀しい顔をしなかった。
どうして? と思っていたわたしに、彼女は言ってくれた。
『わたしにとってこの裁判はすごく意味のあるものになったから。
同じ苦しみを持った女性に、苦しんでいるのは貴女だけじゃないの、って少しでも伝えられたんじゃないかなって。
それよりなにより、翠川先生のような先生に出会えたから』
あの時は、花さんの言葉を素直に受け取ることが出来なかった。
だって、勝てる筈の裁判だったのよ?
それを、わたしの力不足で、負けてしまって。
勝てたら、同じような苦境に立つ女性にもっと勇気を与えられたかもしれないのに。
そんな悔しい想いで胸が一杯で、わたしは花さんに頭を下げることしか出来なかった。
弁護士としてやっていく自信が揺らぐわたしに、裁判の後玲さんは追い打ちを掛ける言葉を放った。
『菊乃、よく分かっただろう。君レベルの弁護士はいくらでもいる。君は一生かけても僕には絶対に勝てない』
玲さんの言葉に反論する術なんてなかった。
『だから菊乃は、僕からは離れるべきではない』
だから、結婚しろと?
この言葉がわたしの決意を決定的にした。
玲さんとはやっていけない。別れよう、と。
婚約指輪を返したわたしを、玲さんは引き止めることはしなかった。
けれど、冷たい笑みを浮かべて言った。
『僕の元を離れた菊乃は弁護士としてはやっていけないだろうね』
ゾクッとした。
玲さんの言葉に込められていたのは、わたしに弁護士をやめろ、という警告だったのかもしれない。
あの時の玲さんの言葉、心の奥底、深層意識の中にしまい込み、眠らせていたのに、今になって息を吹き返し、脈動を始めていた。
こんなに離れたのに、玲さんの影に怯えることになるなんて。
緒方君の胸に顔を埋めて肩を震わせた時。
「大丈夫だよ」
そっと髪を撫でていた手から伝わる温もりと優しい声がわたしの心をフワリと抱いた。
「今の君には、僕が付いてる。僕が、助けてあげるから」
顔を上げて視線を緒方君と合わせる。
「緒方君……」
「大丈夫、少なくとも今回の件は絶対に僕が君を助けてあげられる」
物腰柔らかく、控えめタイプの緒方君には珍しい、揺るぎない自信を全面に出した言葉だった。
「なにか、秘策があるの?」
意味深に微笑んだ緒方君は、首を傾げるわたしの頭を撫でて言った。
「まあ、そんなところだね。でも、今はまだ言えない」
「そうなの?」
少し身を起こした緒方君にキスをされた。
今は、緒方君と触れ合うところ全てが電極となって、全身に痺れるような快感をもたらす。
なんだかちょっと、ごまかされちゃった? 秘策って何だろう?
疑問を胸に抱きながらも、また抱きしめられて、わたしは目を閉じた。
不思議ね、どうして緒方君の腕の中ってこんなに温かいの。心が、凪ぐの。
わたし、裁判に負けて事務所を追われ、婚約も破棄してボロボロになっていたのに、プライドが邪魔をして、弱音なんて吐けなかった。
苦しかったのに。
辛かったのに。
緒方君の腕の中であの頃の自分の想い、気持ちを思い出してしまって凪いでいたはずの胸の内にさざ波が立ちそうになった時だった。
緒方君の手が、わたしの顔に添えられてそっと上を向かせられた。
「翠川さんは、本当に精一杯頑張ったんだよ」
互いの顔が向き合い、目と目を合わせる。
澄んだ黒い瞳が、わたしを真っ直ぐに見詰めてくれていた。
「翠川さんのやった事は間違ってはいないかった。
だから、翠川さんが守ろうとした原告女性は、〝ありがとう〟と言ったんだよ。
心からの言葉だったんだと僕は思う。
彼女の言葉はそのまま素直に受け取っていいんだよ。
彼女は、弁護士としての翠川さんを認めたんだ。
翠川さんという弁護士さんに心からの感謝の意を伝えたんだよ。
負けたかもしれないけれど、それに代わる何かを与える事が出来たんだ。
だから――」
緒方君はそこで言葉を切った。わたしの目から涙が零れ落ちたから。
わたし、その言葉が欲しかったんだ。
『翠川さんは、間違ってはいなかったんだよ』
緒方君の柔らかな声に乗せた言葉がわたしの心に浸透して、熱くなる。
単純な事なのに。小さな子供みたいに。
『君は、頑張ったんだよ』
そんな言葉が欲しかったなんて。
どうしても守ってあげたかったクライアントを守れなかった敗訴はわたしのトラウマとなっていた。
その、鬱積し、蓄積した感情の塊を、緒方君が解いてくれた。
緒方君が、フワリと微笑んでわたしの頭を撫でた。
「泣くのはいい事なんだよ、って僕は前に言ったね」
わたしはまるで小さな子供のように頷いた。
甘い感情と、包まれたいという感情が、綯交ぜになる。
「悔しかったの。悲しかったの。勝ちたかったの。勝って、彼女の権利を守りたかっただけなのに――」
次の瞬間、わたしは再び緒方君の腕の中にいた。
強く強く抱きしめられる。
緒方君の体温がダイレクトに全身に伝わってきた。
柔らかな吐息のような声が耳から滑り込む。
「そうだね、そうだね。その気持ちが、大事なんだよ」
ああ。わたしの中で、感情の箍が外れる音がした。
緒方君は、声を上げて泣き出してしまったわたしを、ずっと、ずっと、落ち着くまで抱きしめていてくれた。
緒方君の優しさは、その腕を通してわたしの中に浸潤した。
わたし、孤軍奮闘してきたの。
誰かに頼るのは、甘ったれのする事って思っていたから。
誰にも、頼るまいって思ってきた。
結局は、独りでやらないといけないんだからって。
でも、人は誰かに、『そうだよ』って認めてもらって心が満たされて、向き合う人に優しくできるのかもしれない。
緒方君の囁く声が聞こえる。
「泣くのは、弱いからじゃないから、大丈夫」
全部、お見通しなのね。
緒方君にしがみついて泣きながらも苦笑いしてしまったわたしはまだ涙が流れる顔を上げて緒方君を見た。
愛しい手が、指が、わたしの顔をそっと拭う。そして、顔に貼り付くように乱れていた髪の毛を優しく払ってくれた。
「キス、して。たくさん。してくれなくちゃ、泣き止まない」
緒方君、プッと吹き出した。
クスクスと笑いながら、わたしを痺れさせる仕草で頬をなで、そして、唇を重ねた。
ディープで長い長いキス。
わたしの心を、抱き締めて。
緒方君は、わたしに〝未来〟を見つめる力をくれたの。
「今でいう、マタニティーハラスメント、だね」
柔らかな声に包まれながらわたしは頷き、緒方君の胸に顔を埋めた。応えるようにそっと抱いてくれる腕に痺れるような快感を覚えた。
思い出すと込み上げてくる感情は、苦く、辛く、胸を塞ぐ。でも、緒方君の不思議な空気感は、重い滓を浄化してくれるよう。
話すことで、楽になる、っていう感覚をこんなに実感したことはなかった。
緒方君の上に覆いかぶさるように横たわる。
胸に頬を寄せて素肌を感じ、わたしは耳に届く規則正しい鼓動に自分の鼓動をリンクさせた。
全身を包む安堵のような心の落ち着きに目を閉じた時、緒方君が言った。
「それで、その後はどうなったの」
静かな声だった。わたしは、ああ、と思う。
まだ、先を話していなかった。
「裁判、本当に闘ったの、婚約者と」
わたしは緒方君の胸にぴたりと顔をくっつけたまま、うん、と頷いた。
「闘ったわ」
そうなんだ、と言いながら、緒方君はわたしの気持ちを和らげるように優しく頭を撫でてくれた。
その手に安心したわたしの口からは言葉が自然とこぼれていく。
「マタニティーハラスメント、っていう言葉が一般的に広まった今なら、会社も企業イメージ損ねない為になんとか和解を、と告訴の取り下げに頭を下げてくれたかもしれないけれど、あの頃はまだそうじゃなかった。
でもね、味方になってくれる女性の会はあの頃からあって、色々と尽力はしてくれたの。
原告の彼女はとても有能な方だったから、退職前に一緒に働いていた社員達からもいい証言が沢山取れて裁判官の心象も良くて、これならいけるかも、勝訴を勝ち取れるかもしれない、って思ってた」
そこまで話したわたしの脳裏に当時のことが鮮やかに蘇ってきた。
胸の中に苦いものが拡がり、緒方君の身体に回していた腕に力が籠る。
ギュッと目を閉じた時、フワッと頭を抱き締められた。
何も言わないけれど、その腕の感触に、心を覆い尽くしそうになっていた闇が、晴れていく。
込み上げて来そうな涙を堪えてわたしは「緒方君」と囁いた。
「このままで、聞いていてね。聞いてね、ちゃんと、話すから」
「大丈夫、僕はちゃんと聞いてるから」
静かな、甘い声が心をくすぐる。
ありがとう、緒方君。ずっと、わたしの傍にいて。
わたしは心の中でそう囁いていて、話しを続けた。
裁判が進むにつれ、こちら側が有利となっていた状況を玲さんが大人しく傍観している筈もなく、好意的な証言をしてくれていた社員達がどんどん口を閉ざしていった。
しっかりと裏で手を回していたのだ。
こちらが集めようとする証拠、すべてにロックが掛かり、八方ふさがりとなり、わたしはどんどん追い詰められて行った。
完璧主義の玲さんは、攻めるとなると、とことんだった。
止めは、妊婦がチームにいることによって引き起こされるダメージ、というものをしっかりと数的予想を示して、裁判官に訴えた。
『開発プロジェクトが佳境に入りいよいよこれから、となった時に原告は確実にチーム内にいられる保障はあるでしょうか。
否、ありません。
いつ起こるとも言えない有事のリスクを抱える原告をチームに置いたまま、プロジェクトを進ませた場合の損害を予想数値として計算しました。
提出した資料の――』
玲さんの攻めは完璧だった。
考えてみれば、どこにも付け入る隙のない冷酷で完璧な弁護士に、わたしが勝てる見込みは、1%にも満たなかったのだ。
結果、こちらに吹き始めていた良い風は、知らないうちに方向を変え、会社側の勝訴。
それなのに、裁判官からの敗訴の宣告を言い聞いた瞬間、花さんは、哀しい顔をしなかった。
どうして? と思っていたわたしに、彼女は言ってくれた。
『わたしにとってこの裁判はすごく意味のあるものになったから。
同じ苦しみを持った女性に、苦しんでいるのは貴女だけじゃないの、って少しでも伝えられたんじゃないかなって。
それよりなにより、翠川先生のような先生に出会えたから』
あの時は、花さんの言葉を素直に受け取ることが出来なかった。
だって、勝てる筈の裁判だったのよ?
それを、わたしの力不足で、負けてしまって。
勝てたら、同じような苦境に立つ女性にもっと勇気を与えられたかもしれないのに。
そんな悔しい想いで胸が一杯で、わたしは花さんに頭を下げることしか出来なかった。
弁護士としてやっていく自信が揺らぐわたしに、裁判の後玲さんは追い打ちを掛ける言葉を放った。
『菊乃、よく分かっただろう。君レベルの弁護士はいくらでもいる。君は一生かけても僕には絶対に勝てない』
玲さんの言葉に反論する術なんてなかった。
『だから菊乃は、僕からは離れるべきではない』
だから、結婚しろと?
この言葉がわたしの決意を決定的にした。
玲さんとはやっていけない。別れよう、と。
婚約指輪を返したわたしを、玲さんは引き止めることはしなかった。
けれど、冷たい笑みを浮かべて言った。
『僕の元を離れた菊乃は弁護士としてはやっていけないだろうね』
ゾクッとした。
玲さんの言葉に込められていたのは、わたしに弁護士をやめろ、という警告だったのかもしれない。
あの時の玲さんの言葉、心の奥底、深層意識の中にしまい込み、眠らせていたのに、今になって息を吹き返し、脈動を始めていた。
こんなに離れたのに、玲さんの影に怯えることになるなんて。
緒方君の胸に顔を埋めて肩を震わせた時。
「大丈夫だよ」
そっと髪を撫でていた手から伝わる温もりと優しい声がわたしの心をフワリと抱いた。
「今の君には、僕が付いてる。僕が、助けてあげるから」
顔を上げて視線を緒方君と合わせる。
「緒方君……」
「大丈夫、少なくとも今回の件は絶対に僕が君を助けてあげられる」
物腰柔らかく、控えめタイプの緒方君には珍しい、揺るぎない自信を全面に出した言葉だった。
「なにか、秘策があるの?」
意味深に微笑んだ緒方君は、首を傾げるわたしの頭を撫でて言った。
「まあ、そんなところだね。でも、今はまだ言えない」
「そうなの?」
少し身を起こした緒方君にキスをされた。
今は、緒方君と触れ合うところ全てが電極となって、全身に痺れるような快感をもたらす。
なんだかちょっと、ごまかされちゃった? 秘策って何だろう?
疑問を胸に抱きながらも、また抱きしめられて、わたしは目を閉じた。
不思議ね、どうして緒方君の腕の中ってこんなに温かいの。心が、凪ぐの。
わたし、裁判に負けて事務所を追われ、婚約も破棄してボロボロになっていたのに、プライドが邪魔をして、弱音なんて吐けなかった。
苦しかったのに。
辛かったのに。
緒方君の腕の中であの頃の自分の想い、気持ちを思い出してしまって凪いでいたはずの胸の内にさざ波が立ちそうになった時だった。
緒方君の手が、わたしの顔に添えられてそっと上を向かせられた。
「翠川さんは、本当に精一杯頑張ったんだよ」
互いの顔が向き合い、目と目を合わせる。
澄んだ黒い瞳が、わたしを真っ直ぐに見詰めてくれていた。
「翠川さんのやった事は間違ってはいないかった。
だから、翠川さんが守ろうとした原告女性は、〝ありがとう〟と言ったんだよ。
心からの言葉だったんだと僕は思う。
彼女の言葉はそのまま素直に受け取っていいんだよ。
彼女は、弁護士としての翠川さんを認めたんだ。
翠川さんという弁護士さんに心からの感謝の意を伝えたんだよ。
負けたかもしれないけれど、それに代わる何かを与える事が出来たんだ。
だから――」
緒方君はそこで言葉を切った。わたしの目から涙が零れ落ちたから。
わたし、その言葉が欲しかったんだ。
『翠川さんは、間違ってはいなかったんだよ』
緒方君の柔らかな声に乗せた言葉がわたしの心に浸透して、熱くなる。
単純な事なのに。小さな子供みたいに。
『君は、頑張ったんだよ』
そんな言葉が欲しかったなんて。
どうしても守ってあげたかったクライアントを守れなかった敗訴はわたしのトラウマとなっていた。
その、鬱積し、蓄積した感情の塊を、緒方君が解いてくれた。
緒方君が、フワリと微笑んでわたしの頭を撫でた。
「泣くのはいい事なんだよ、って僕は前に言ったね」
わたしはまるで小さな子供のように頷いた。
甘い感情と、包まれたいという感情が、綯交ぜになる。
「悔しかったの。悲しかったの。勝ちたかったの。勝って、彼女の権利を守りたかっただけなのに――」
次の瞬間、わたしは再び緒方君の腕の中にいた。
強く強く抱きしめられる。
緒方君の体温がダイレクトに全身に伝わってきた。
柔らかな吐息のような声が耳から滑り込む。
「そうだね、そうだね。その気持ちが、大事なんだよ」
ああ。わたしの中で、感情の箍が外れる音がした。
緒方君は、声を上げて泣き出してしまったわたしを、ずっと、ずっと、落ち着くまで抱きしめていてくれた。
緒方君の優しさは、その腕を通してわたしの中に浸潤した。
わたし、孤軍奮闘してきたの。
誰かに頼るのは、甘ったれのする事って思っていたから。
誰にも、頼るまいって思ってきた。
結局は、独りでやらないといけないんだからって。
でも、人は誰かに、『そうだよ』って認めてもらって心が満たされて、向き合う人に優しくできるのかもしれない。
緒方君の囁く声が聞こえる。
「泣くのは、弱いからじゃないから、大丈夫」
全部、お見通しなのね。
緒方君にしがみついて泣きながらも苦笑いしてしまったわたしはまだ涙が流れる顔を上げて緒方君を見た。
愛しい手が、指が、わたしの顔をそっと拭う。そして、顔に貼り付くように乱れていた髪の毛を優しく払ってくれた。
「キス、して。たくさん。してくれなくちゃ、泣き止まない」
緒方君、プッと吹き出した。
クスクスと笑いながら、わたしを痺れさせる仕草で頬をなで、そして、唇を重ねた。
ディープで長い長いキス。
わたしの心を、抱き締めて。
緒方君は、わたしに〝未来〟を見つめる力をくれたの。
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登場人物全員が魅力的で素敵なストーリーでした。読み応えありました。
ありがとうございました。
蒼碧さん。
こちらこそありがとうございます!
楽しんでいただけた事が何よりの幸せです。
今日のニュースで『ライラック祭り』が開催されてると聞きました(^O^)
そこで!!『ライラックの~』の玲さんを踏まえて、読み返したのですが、やっぱり最初の感じ方とは違うものですね(*´ω`*)
玲さんって、ただの不器用俺様ではなくて、それが玲さんらしい愛し方なんだよね~って、ちょっと菊乃ちゃんにわかって欲しい気持ちで読むことができました(゜∇^d)!!
『ライラック祭り』にしてもですが、ともあきさんの作品から、うちは今まで知らなかったことに興味を持つことができて、楽しいです。
咲希ちゃんの弾くクラシックやドイツ語、万葉集や日本画など、時間をみて、これから少しでも知識を増やしていけたらな~と思います。
(≧▽≦)
うさぎさ〜ん、ありがとうございます!
お休みしている間にもこうしてコメント寄せていただけると嬉しくて小躍りしちゃいます♪
作品を通して興味を持っていただける事ほど幸せな事はありません。
書いてよかった!という幸せを味わっております。
本当にありがとうございます(*´∇`*)
頑張る気力をいただきました!
お疲れ様でした~。
菊乃ちゃんへのサプライズのシーンは、嬉しい期待を持ちつつ、まさかの不安の半々で読んでましたが、素敵なラストが待っていて、こちらまで幸せな気分で終わらせて頂きました(о´∀`о)
ともあきさんの作品、どれも大好きです。
これからも応援してます!
うさぎさん、ホントにありがとうございました!
ドキドキハラハラと幸せな気持ち、そんな感想をいただけて、書いてよかった!と幸福に浸ってます(´∀`*)
この上なく嬉しいお言葉を励みに、他に作品も頑張ります!
ありがとうございました(*^^*)