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カルテ33 東京タワー

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 東京タワーは、スカイツリーが出来てお客さんが流れちゃったのかな、と思っていたけど、

「混んでる」

 外国人観光客で賑わっていた。

「そうだね、今世間は夏休みでもあるし」

 肩を竦めた緒方君がわたしに優しく微笑んだ。久しぶりに独占した緒方君の笑顔に胸が熱くなる。

 溢れる幸福感が指先足先まで行き渡る。

 緒方君にもっと密に触れたい。

 こんなところでそんな事を考えてしまった自分が恥ずかしくなって俯きかけた時、展望デッキに到着した旨を伝えるアナウンスが聞こえ、エレベーターの扉が開いた。

 箱から流れ出る大勢の人の波に呑まれそうになったわたしに手が差し伸べられた。

「翠川さん、ほら」

 指の長くてしなやかで、でも男らしく大きな手。

 胸が、キュッと締まって、跳ねる。生まれて初めてのデートで手を繋ごうとする時のように。

 ちょっぴりひんやりとする緒方君の手に、わたしは自分の手をゆだねた。

 手を引かれて箱の中から外に出、ピタリと寄り添ったわたしを見て緒方君はクスクスと笑って言った。

「迷子にならないように」

 わたしもクスッと笑って応える。

「もしわたしが迷子になっても、ちゃんと探してくれるでしょう?」

 緒方君の目が、柔らかに細くなった。

「探すよ、必ず。でもその前に、迷子になんてさせない」

 強い意志が込められた言葉は甘く柔らかく、けれどストレートに伝わって、わたしの中で余韻となった。

 胸に微かな痺れを覚えながら、繋ぐ手に力を籠めた。

 わたしは、あなたと一緒にいたい。

 ずっと、傍にいる。

 そんな気持ちが伝わったのか、緒方君もそっと握り返してくれた。

 一緒に過ごす時間が、愛おしい。

 大牧先生に挨拶をして別れた後わたしの手を取った緒方君は、ここ、東京タワーに連れてきてくれたのだ。

「本当は、浜離宮庭園をゆっくり散策、というデートコースにしたかったんだけど、さすがにこの猛暑の中ゆっくり歩いていたらどちらかが倒れるかもしれないと思ってね。でもこっちは別の理由で倒れそうだね」

 苦笑いしながら冗談めかして言った緒方君がますます愛しくて、吹き出してしまった。

「こっちは人が多くて酸欠で?」

 緒方君は、そうそう、と笑った。

 繋ぐ手が心地よくて、絡む指を通して互いが互いを求める気持ちが伝わる。

 何処でも良かったの、一緒に過ごせるのなら。

 繋いでいない方の腕を緒方君の腕にギュッと絡めて顔を寄せた。

 離れませんように、と心の中で呟くと、頭上から優しい声が降ってきた。

「僕のところに来てくれた君を迷子になんてさせない」
「緒方君……」

 わたしも、もう緒方君を迷子にはさせない。

 緒方君を独りにはさせないから。

 わたしの心の中には、大牧先生の言葉が残っていた。

『アイツは、結婚する時に自分の人間関係を全て断ち切ったんだ。家族とも、な』

 ハッとした。

 遼太が以前電話で話してくれた事を思い出した。

 緒方君は、全ての友人知人と連絡を絶った時期がある、と言っていた。

 まさか家族とも、なんて。

 どうして、と聞いたわたしに先生は言った。

『真琴には、家族も友達もいなかったからだよ』

 心臓をギュッと掴まれたような気がした。

『アイツは、自分も同じ状況になる事で真琴への本気を示したんだろう。
それが正しい方法だったなんて思えないが、あの時、全てを敵に回しても真琴の傍にいる、そう決めたアイツが出来る精いっぱいだったんだろう』

 その頃の緒方君を想って込み上げる涙を必死にこらえた。

 わたしが泣くことじゃない。

 でも、複雑な想いと感情が込み上げて、胸が潰されそうだった。

 それが、当時の緒方君の愛し方だったんだ。

 友人に関しては、と大牧先生が笑って言った。

『緒方には、お節介な人望厚き良き友がいるだろ。ヤツが緒方を放っておいたりはしなかったよ』

 ああ遼太のことだ。

 苦笑いしてしまう。

 遼太、緒方君が自主的に戻ってきたような言い方していたけど、実際には思いっきり腕を掴んで強引に引き戻したんじゃない。

『でも、アイツお陰で今の緒方がいる』

 大牧先生の言葉にわたしも深く頷いていた。

 さすがは、遼太。でも、ご家族は?

 そう言えば、わたしはまだ、緒方君のご家族の話しを聞いた事はなかった。

 三男坊で、下にまだいる、ということだけ、チラリと話してくれただけ。

 そのご兄弟は?

 ご両親は?

 緒方君は、今も独りなの?

 胸が潰されそうな痛みに悲鳴をあげそうになっていた。

 大牧先生からもう少し聞きたいと思ったけれど『後は本人に聞くんだ』と言い、それ以上は話してくれなかった。

 大牧先生。

 そうは言っても、緒方君は話してくれる?

 緒方君自身が『過去になった』ときっぱり言い切ったのに。

 わたしから、そこを掘り下げるような事は出来ない。

 消えない不安は胸の片隅にそっとしまい込み、緒方君に手を引かれながらゆっくりと展望デッキを歩いた。

 どのスペースも人で埋まり、時折出来る隙間から眼下に広がる東京の街を見下ろす。

 景色を楽しむどころではないけれど、こうして手を繋いで一緒に歩く時間だけで幸せだった。

 ゆっくり話しながら、同じ空気を吸えるだけで。

「ねえ、緒方君」
「ん?」
「この間の、近藤さん夫婦の診察の件、大丈夫だった?」
「ああ、あれ」

 緒方君、クスクスと笑った。

 緒方君は可愛い顔で笑う。この笑顔を見せてくれている時は、リラックスしている時、ね?

 緒方君、「あれね」と柔らかな声で話す。

「城崎先生には事後承諾、という形で報告したんだけど。思ったほどは怒られなかったよ。事情は分かってくれていたからね」
「そうなの?」
「ああ、でも。二度目はないぞ、ってキツく言われた」
「やっぱり怒られたんじゃないの」
「まあね」

 わたし達は顔を見合わせてアハハと笑った。

 緒方君が、わたしの抱えるクライアントさんの為に犯してくれたリスク。

 何事もなくて良かった。

 貴方に何かあったらわたし――、そう思っていた時。

「翠川さん、おいで」

 人だかりの間に出来た隙間に緒方君が素早く滑り込み、わたしの繋ぐ手を引いてくれた。

 そこからは西の方角が一望できた。

 日の長い夏、夕焼けにはまだ早い。でも、微かにではあってもオレンジに染まる事を予感させる空が拡がっていた。

「あ、富士山――」

 夏はスモッグが掛かってクリアに見えない事が多いという富士山が、今クッキリとその姿を見せていた。

「あの麓に彼女の魂が眠っているんだ」

 緒方君の、過去の扉が開く音が聞こえた。



 富士の麓に魂が眠っている。

 それは、彼女があの、あまりにも有名な樹海に於いて命を絶った、という事を意味した言葉だった。

「正しくは、樹海に入って、というより、西湖の湖畔にあった別荘でなんだけどね」

 緒方君は遠い富士を見つめながら、一語一語確かめるように言った。

 展望デッキに溢れる人の気配、声の喧騒がすーっと引いていくように感じた。

 音のない、時流が止まった、わたしと緒方君の周りだけが時を刻んでいる空間。そんな錯覚を覚えながら、わたしは高い位置にある緒方君の横顔を見上げていた。

 鼻筋の通った横顔に、彫りの深い目元。ほんの少し憂いの影が見えた。

 当時の緒方君の苦悩を想うと胸が張り裂けそうだった。

 油断していると涙が込み上げてきそうだったけれど繋ぐ手に力を込めて、堪えた。

 少しの間を置いて、緒方君が言った言葉に衝撃を受けた。

「彼女は、彼女の大事な人の後を追ったんだ」
「後を、追った? 大事な、人の?」

 思わず声を上げてしまい、慌てて口を押えた。

 そうだ、ここは別に二人きりの空間じゃなかった。

 フッという優しい笑い声と共に、手が握り返されて見上げたけれど、緒方君は変わらず前を向いたままだった。

 わたしの中で抱いていた予想、とか類推の類がひっくり返された気がした。

 彼女は誰を追ったというの?

 緒方君にそんなにも愛されて。緒方君という人がいながら。

 どうして緒方君を置いて……ううん、緒方君以外の大事な人って、どういう意味?

 俯いて黙り込んでしまったわたしの頬に緒方君の指が触れた。

 沸騰しかけた頭の中を少し冷ましてくれるような、心地よい体温を持った指に顔を上げた。

 いつの間にか緒方君の顔がわたしに向けられていた。

 ちょっぴり、困ったような、何か悩んでいるような、そんな表情。

「緒方君……」

 胸がキュンと鳴って、

――緒方君のそんな顔も、好きだけど。

 なんて考えてしまった自分を内心で、ばかっ、と叱咤した。

 頬に触れていた緒方君の指が、そっと髪を梳いてくれた。

 しなやかな仕草に、心が痺れる。

 ここがどこかなんて忘れて抱き付いてしまいそう。我慢する為に軽く下唇を噛んだ時、緒方君の表情がフワリと緩んだ。

「心配しなくていい、って言いながら、不安にばかりさせてるね、僕は。でも本当に大丈夫なんだよ。今はただ、どこから、どう話そうかな、って悩んでるんだ」

 わたしの口からは、自然に言葉が零れてく。

「いいよ、どんなに長くなっても、ちゃんと聞く。わたしは、緒方君とずっと、一緒にいたいから」

 緒方君の笑みがわたしを包んだ。

 繋いでいた手をすっと外した緒方君はわたしの頭を抱いてくれた。

 緒方君の肩に頭を乗せて息遣いを感じながら目を閉じる。緒方君はわたしの髪に顔を寄せて、囁いた。

「僕を選んでくれてありがとう」

 甘くて優しくて、わたしの身体の芯まで痺れさせてしまう声だった。

 玲さんとの事を言ったのだと思う。

 でもね緒方君。

〝選ぶ以前に、わたしには選択肢は一つしかなかったの〟

 心の中でそう呟いて、続きを言葉にする。

「わたしを〝生かしてくれる〟のは、緒方君だけ。だから、わたしには初めから緒方君しかいなかったの」





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