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記憶の底
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寒い。指が、また切れてる。痛いよ。
お腹、空いたな。
そうだ、今日は私、沢山失敗しちゃったから、お夕飯抜きだったっけ。
「みちるちゃん、みちるちゃん……」
疲れきった身体を薄い布団に横たえ眠りに落ちていたみちるは真夜中、自分を揺り起こす手と声に目を覚ました。
目を擦りながら相手を確認すると。
「トキさん」
起こしたのは、いつも隣に寝ている仲居頭の年配女性だった。
「どうしたんですか? まだ真っ暗ですよ」
真っ暗闇の中、トキはシッと言いながら口の前で人差し指を立てた。
「お腹、空いてたでしょ? 可哀想に。ほら、そっとおにぎり握って来たから、お食べ」
タキは、アルミホイルに包まれた拳大の握り飯をみちるに渡した。
「タキさん」
みちるの目にジワリと涙が滲んだ。
握り飯はもう冷め、冷たくなってはいたが、みちるには今まで食べたどんなものよりも温かく感じた。
込み上げる涙をこらえて食べるみちるに、タキは小声で話す。
「みちるちゃん、いいかい? これを食べたら逃げるんだよ」
逃げる?
想像もしていなかった言葉に、みちるは固まった。
「そうだよ。着替えて、これを持って」
握り飯を両手で持ち食べていたみちるの片方の手の中に、タキは何かを握らせた。
暗闇の中で目を凝らすと、それはお金だと分かった。
「タキさん、こんな!」
「ごめんね、当面のお金くらいしかあげられなくて。でも、とにかく、それだけ持って、何とか逃げて。こんなとこにいたら、みちるちゃんの一生が台無しだよ。まだこんなに若いのに」
でもでも、と首を振り戸惑うみちるの肩をタキが抱く。
「一緒に行ってあげたいけど、アタシはここの女将とダンナに沢山の貸しと借金があるんだよ。
でもみちるちゃんは違う。
みちるちゃん自身の貸しなんかじゃない。
だから逃げなさい」
タキに促され、みちるは握り飯を食べ終えると着替え、小さなリュックに最低限の荷物だけを詰め込んだ。
「いいかい、みちるちゃん。
今は3月だから真冬よりは夜が明けるのが若干早い。
薄明かりで辺りが見えるようになったら一気にあの裏の林を抜けて、林道に出るんだよ。
雪が残っているから足元には気をつけて!
それで、林道に出て少し下れば、バス停がある。
5時台の始発バスが来るからそれに乗って、駅に行ってーー」
事細かに説明しながらタキは勝手口からみちるを逃がした。
そこからは無我夢中だった。
吐く息が白い。肌寒く薄暗い早朝のバス停で、不安に駆られながら待つみちるの目に、細い林道を縫うように下って来るバスが映る。
私はあれに乗って、どこに?
気付けば、東京に流れ着いていた――。
駅の改札で雑踏に紛れ宛もなく立ち尽くすみちるに1人の男が声を掛けた。
「キミ、朝からずーっとここに1人でいるけど、何処にも行くとこ無いの? 良かったら僕の店で、働いてみる?」
小太りの、中年男性だった。
気の小さそうなその男は、目を見て話さなかった。おどおどとするような彼に、みちるの警戒感が微かに緩む。
「はい。行くとこ、無くて――」
†
今にして思えば、何て危険な賭けだったのだろう。
みちるは縁側に腰を下ろし足をゆらゆらとさせながら、咲き始めた白い椿の花を見つめていた。
あの時声を掛けてくれたのが、あの優しい源さんでなければ、私は今どうなっていたんだろう。
もう一つの〝もしも〟を考え、みちるはブルッと身震いをした。
源さん、元気にしてるかな。
みちるは春風が吹き始めた上空を見上げた。
源さんは、みちるが上手く接客など出来なくとも優しかった。
あの日、警察のガサが入る情報を聞き付けた彼はみちるに、直ぐに逃げて、と言った。
『チーちゃんは捕まっちゃったら、またイヤなトコロに帰らなくちゃ、いけなくなる、よね?』
源さんに『逃げて』と言われ、みちるは旅館から逃げた時と同じ、小さなリュック1つで、着の身着のままであの街の中に飛び出したのだ。そして――、
あの路地裏から始まったんだ。
「保さん……」
締め付ける胸の痛みにみちるはうつ向き、目を閉じた。
優しい春風が頬を撫でる。喉の奥が、詰まる。
みちるは両手で口を押さえ必死に泣くのを堪えた。
会いに……ううん、一目でいいから、見に行きたい。
いいよね、遠くからなら。
みんな、どうしているか気になるんだもの。
みちるは縁側から立ち上がる。
「ミキエさーん」
お勝手で仕事をしているミキエの元へ、駆けて行った。
思い立った時が、行動する時。
ちょっとだけ、新宿までーー!
お腹、空いたな。
そうだ、今日は私、沢山失敗しちゃったから、お夕飯抜きだったっけ。
「みちるちゃん、みちるちゃん……」
疲れきった身体を薄い布団に横たえ眠りに落ちていたみちるは真夜中、自分を揺り起こす手と声に目を覚ました。
目を擦りながら相手を確認すると。
「トキさん」
起こしたのは、いつも隣に寝ている仲居頭の年配女性だった。
「どうしたんですか? まだ真っ暗ですよ」
真っ暗闇の中、トキはシッと言いながら口の前で人差し指を立てた。
「お腹、空いてたでしょ? 可哀想に。ほら、そっとおにぎり握って来たから、お食べ」
タキは、アルミホイルに包まれた拳大の握り飯をみちるに渡した。
「タキさん」
みちるの目にジワリと涙が滲んだ。
握り飯はもう冷め、冷たくなってはいたが、みちるには今まで食べたどんなものよりも温かく感じた。
込み上げる涙をこらえて食べるみちるに、タキは小声で話す。
「みちるちゃん、いいかい? これを食べたら逃げるんだよ」
逃げる?
想像もしていなかった言葉に、みちるは固まった。
「そうだよ。着替えて、これを持って」
握り飯を両手で持ち食べていたみちるの片方の手の中に、タキは何かを握らせた。
暗闇の中で目を凝らすと、それはお金だと分かった。
「タキさん、こんな!」
「ごめんね、当面のお金くらいしかあげられなくて。でも、とにかく、それだけ持って、何とか逃げて。こんなとこにいたら、みちるちゃんの一生が台無しだよ。まだこんなに若いのに」
でもでも、と首を振り戸惑うみちるの肩をタキが抱く。
「一緒に行ってあげたいけど、アタシはここの女将とダンナに沢山の貸しと借金があるんだよ。
でもみちるちゃんは違う。
みちるちゃん自身の貸しなんかじゃない。
だから逃げなさい」
タキに促され、みちるは握り飯を食べ終えると着替え、小さなリュックに最低限の荷物だけを詰め込んだ。
「いいかい、みちるちゃん。
今は3月だから真冬よりは夜が明けるのが若干早い。
薄明かりで辺りが見えるようになったら一気にあの裏の林を抜けて、林道に出るんだよ。
雪が残っているから足元には気をつけて!
それで、林道に出て少し下れば、バス停がある。
5時台の始発バスが来るからそれに乗って、駅に行ってーー」
事細かに説明しながらタキは勝手口からみちるを逃がした。
そこからは無我夢中だった。
吐く息が白い。肌寒く薄暗い早朝のバス停で、不安に駆られながら待つみちるの目に、細い林道を縫うように下って来るバスが映る。
私はあれに乗って、どこに?
気付けば、東京に流れ着いていた――。
駅の改札で雑踏に紛れ宛もなく立ち尽くすみちるに1人の男が声を掛けた。
「キミ、朝からずーっとここに1人でいるけど、何処にも行くとこ無いの? 良かったら僕の店で、働いてみる?」
小太りの、中年男性だった。
気の小さそうなその男は、目を見て話さなかった。おどおどとするような彼に、みちるの警戒感が微かに緩む。
「はい。行くとこ、無くて――」
†
今にして思えば、何て危険な賭けだったのだろう。
みちるは縁側に腰を下ろし足をゆらゆらとさせながら、咲き始めた白い椿の花を見つめていた。
あの時声を掛けてくれたのが、あの優しい源さんでなければ、私は今どうなっていたんだろう。
もう一つの〝もしも〟を考え、みちるはブルッと身震いをした。
源さん、元気にしてるかな。
みちるは春風が吹き始めた上空を見上げた。
源さんは、みちるが上手く接客など出来なくとも優しかった。
あの日、警察のガサが入る情報を聞き付けた彼はみちるに、直ぐに逃げて、と言った。
『チーちゃんは捕まっちゃったら、またイヤなトコロに帰らなくちゃ、いけなくなる、よね?』
源さんに『逃げて』と言われ、みちるは旅館から逃げた時と同じ、小さなリュック1つで、着の身着のままであの街の中に飛び出したのだ。そして――、
あの路地裏から始まったんだ。
「保さん……」
締め付ける胸の痛みにみちるはうつ向き、目を閉じた。
優しい春風が頬を撫でる。喉の奥が、詰まる。
みちるは両手で口を押さえ必死に泣くのを堪えた。
会いに……ううん、一目でいいから、見に行きたい。
いいよね、遠くからなら。
みんな、どうしているか気になるんだもの。
みちるは縁側から立ち上がる。
「ミキエさーん」
お勝手で仕事をしているミキエの元へ、駆けて行った。
思い立った時が、行動する時。
ちょっとだけ、新宿までーー!
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