舞姫【中編】

深智

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奥多摩の駐在

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「ああ、そのロッカーの鍵は亀岡さんが持っていたんですか」

 東京都の水瓶の1つである奥多摩湖の傍。警視庁管内西の最果ての住み込み型交番である駐在所に、開かずの扉と呼ばれるロッカーがあった。

 前方は湖。後方は切り立った山すぐそこからは山梨、という土地柄、緩やかな空気が流れる。

 駐在所勤務の警官は配置されればその本人が希望を出さない限り、まず移動がない。

 その為、地元の人間に〝駐在さん〟と呼ばれ親しまれる彼等は警察人生をここで全うするケースが多い。

 現在ここの駐在さんである巡査長の原田も、もう随分と長くここに勤務していた。

「いや、この鍵は、西野が最近俺に送って来たんだよ」
「ああ、西野さん。僕の前にここにいた」

 原田が思い出すように言う。亀岡はそれには答えずロッカーの鍵穴に差し込んだキーを回した。

 カチリ、と中で何かが綺麗に回った小気味良い解錠の感覚が彼の手に伝わる。扉をゆっくりと開けると、一冊のファイルだけが置かれていた。

 ロッカーの中で、まるで誰かに見つけて貰うのを待っていたかのように。

 亀岡は直ぐにピンと来た。

 これは、調書だ。

 手を伸ばす亀岡の脳裏を瞬時に様々な憶測が駆け巡る。

 灯台下暗し、か。

 一番危険で一番安全な場所。西野は消された事件の調書をこんなところに隠していた。

 亀岡は拳を握った。

 捨てきれなかったのはアイツの中に残されていた警官としての〝意地〟と〝誇り〟と、巨大権力に対する最期の抵抗か。

「何年も、待っていたんだな」

 ファイルを手に取った亀岡はそれに語りかけるように呟いた。

「亀岡さん、それは? 何かの調書みたいですけど」
「ああ。そういや原田がここに来たのは」
「西野さんが出た後なので、10年前ですよ」
「そうか」

 あの事故の処理が綺麗に片付いた後か。

 連絡が取れなくなった同僚の西野巡査部長と原田巡査長は、年は随分離れていたが機動隊の着隊同期で仲が良かった。そんな縁から、原田は亀岡と西野とは一緒に呑みに行く事も幾度かあったという。

「亀岡さん、西野さんから連絡あったんですか?」

 原田がファイルを手に固まる亀岡に、複雑な表情を浮かべながら聞いた。

「それは、どういう意味だ?」

 不穏な気配に亀岡が怪訝な表情をする。原田は眉根を寄せたまま答えた。

「いや、あのですね。ここの駐在を僕に勧めてくれたのは西野さんなんですよ。
自分はもうここを辞める、今お前が駐在希望したら十中八九、この駐在に配置になるから、って。
僕、前から子供達の為に島派遣とか希望してたの西野さん知ってて、ここなら、って」

 ああ、アイツらしいな、と思いながら亀岡は続きを聞く。

「それで、そこまではまあ、不思議に思う事もなかったんですけどね」

 原田は一旦言葉を切り、これはここだけの話です、と静かに続きを話し始めた。

「亀岡さんだから話すんですけど。
西野さん、自分がここを僕に勧めた事を決して口外しないでくれって。
あと、僕が西野さんと仲が良かった事もあんまり周りに言うなって」

 亀岡は、原田の言葉に混じって耳に響く自分の鼓動も聞いていた。

「その後、西野さんの予測通りここの配置が決まったんですけどね。
引き継ぎの時、このロッカーだけ、このままにしておいてくれって頼まれたんです」
「このロッカーだけこのままにしてくれって?」
「はい。私物のロッカーだから特に上から調べられる事もなくて現在に至ってるんです。
でも西野さん、引き継いだ後、警視庁退職して連絡取れなくなったから、亀岡さんはずっと連絡取ってたのかな、と」

 原田は眉尻を下げてみせた。亀岡は、いや、と答える。

「俺も、最近やっとアイツを見つけたんだけどさ」

 何も知らなさそうな原田は知らないままの方がいいだろう、と言葉を濁した。

「元気にしてるんならいいです」

 原田の言葉に亀岡は「元気にしてるよ」とだけ答えた。本当に元気でいてくれる事を願いながら。

 ファイルの表紙を持つ手が震えそうだった。

 ここに、何が書かれているんだ?

「で、亀岡さん、それは?」
「ああ、西野の日誌みたいなもんだな」

 不思議そうな顔でファイルを見る原田に亀岡が適当に答えた時だった。

「駐在さーん」

 1人の老人が顔を出した。

「ああ、三原のおじいちゃん。どうしましたか」
「あんなぁ……」

 田舎の駐在は、地元民の相談所の役割も兼ねているようだ。亀岡がいる間に、幾人かの年寄りが顔を出した。

 その間に調書に軽く目を通していた亀岡は、ファイルを閉じて目頭を押さえた。

 西野は大事なモノを残してくれていた! あの転落事故は不慮の事故なんかじゃない。

 津田みちるの両親は殺されたのだ!

 これは立派な隠蔽事件だ。しかし、と亀岡は考える。

 正式な調書の形式で書かれてはいるが、西野本人の印はあっても署長の印の無いこれは、公的な書類としては認められず法的な効力など無い。

 公安本部に持ち込んだとて、上で誰かに揉み消されておしまいだろう。

 亀岡は顎に手を当て更に考えを巡らせる。

 長崎のあの集落を出た時からずっと、誰かの視線を感じていた。

 このままこれを手にして家に戻るのは危険かもしれない。

 亀岡はファイルを閉じると、話しを終えた老人を駐在所前で送り出した原田がちょうど中に戻って来た。

「原田ちょっと頼まれてくれないか」
「なんですか?」





†††

 ロッカーを開けた原田の顔が、しまった、と蒼白になる。

 中には亀岡によって茶封筒に入れられ封をされたファイルが眠っていた。

 亀岡の自宅住所が書かれていた。

 そう、あれは3ヶ月も前の事なのだ。



 あの後、亀岡はファイルを原田から貰った茶封筒に入れ自宅の住所を書き込むと再びロッカーにしまい、鍵をかけたのだ。

『これは別に公的な書類じゃなくてな。
ちょっと西野に頼まれて取りに来たんだが、俺はこれからまだ寄るところがあってな。申し訳ないんだが、一週間くらい経ったらうちに郵送してくれないか』

 歯切れの悪い亀岡の様子が気にかかったが、原田はこの事をすっかり忘れてしまったのだ。

 催促の電話くらいくれれば忘れなかったのに、と原田は自分の携帯を取り出し、亀岡にかけた。

 しかし。

「おかけになった電話は電波の届かないところに――」

 なんだ、勤務中かな。

 微かに嫌な感じがしたが、原田は気のせいかな、と封筒を手にし首を傾げた。

 思案する原田は亀岡が帰った直後の事を思い出した。

 スーツ姿の、この辺りには不似合いな見かけない男が2人、駐在に姿を表し、さりげなく亀岡と何を話したのかを原田に聞いた。

 瞬時に何かを察した原田は咄嗟の判断で誤魔化した。

『亀岡さんは、この近くに来たからここに顔を出しただけですよ。世間話して帰られました』

 ゾワッと悪寒のような感覚が原田の背中を走った。

 これは、早く手放したほうが良さそうだ!

 原田は自宅に繋がる引き戸を開けると中にいる妻に声をかけた。

「ちょっと郵便局に行ってくれないかー?」



 原田は、亀岡の姿をあの日を最後に誰も見ていない事をこの時はまだ知らなかった。
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