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あなたの呼ぶ声に
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缶ビールのプルトップがプシュ、と鳴った。
「スゲーだろ」
ダイニングの椅子に座り、今日亀岡の妻から譲られた資料全てに目を通していた星児に、保はキッチンから声をかけた。グラスを1つ用意し、そこに今開栓したビールを注ぐ。
缶ビール2本を左手に持ち、白い泡が立つ黄金色の液体が揺れるグラスを右手に持った保がキッチンから出て来た。
テーブルの空いている上座にグラスを置き、プルトップを開けた缶ビールをカチンと合わせた。
「亀岡さん、サンキュ。ほら、星児もだ」
保はもう1本の缶ビールを星児に渡した。
「亀岡のおやっさんは恐らくここにはいねーよ」
受け取った星児は苦笑いしながらもプルトップを開け保と同じようにカチンとグラスを鳴らした。
まあな、と言いながら保はグイッとビールを飲んだ。
「亀岡さんはきっと、あの奥さんの傍にずっといるさ」
あの、聰明で素晴らしい奥さんの元に。帰れて良かったな、亀岡さん。
「夫婦って、スゲーよな」
独り言のように呟いた保の言葉を黙って聞いていた星児はふと壁の時計を見た。
「そういや、みちるは?」
「今夜もおせーよ。みちるは最近最終公演までしっかりキャスティングされてるからさ」
保は今日は1日休みを取っていたが、みちるは舞台に穴を空けられない為、亀岡の家の帰りにそのまま劇場に送り届けた。
「今香盤の間は姉貴とハイヤーで午前様だろ」
そうか、と星児は再び資料に目を落とす。
封筒の中身を確認した時、込み上げる想いや押し寄せる後悔に保は胸が張り裂けそうだった。
亀岡が最後に用意したと思われる封筒の中には、水色の厚紙表紙のファイル。
そして。
彼が調べあげた事がビッシリと書かれた手帳が封入されていた。
こんな、手帳まで。
保は手帳の中身を確認した時胸が潰される思いだった。
亀岡が何を想い、これを自分に託したのかを考えると察するに余りある。
託さざるを得なかったのか。
星児も同じだっただろう。
「警察の調書ってのは、初めて見たな」
「もう11年も前のだから今は書式もだいぶ違ってるだろうけどな。でも知るには充分過ぎる情報が詰まってるぜ」
「ああ」
みちるの両親のアレは事故なんかじゃない。
「引き上げた車の中には、彼等が脱出を試みようと動いた形跡はなかった」
重要な一文を読み上げた星児に、手帳に目を通していた保が頷く。
「つまり、湖に転落する時には、もう死んでいた――」
顔を上げた星児は保に聞いた。
「これを書いた西野ってのは?」
「消息不明みてーな事、書いてるな」
手帳を指差し、保が答えた。
「亀岡さんはこの事故に、TUD総合警備が絡んでる事を掴み、その先に郡司がいる事を知ってしまったんだな」
闇に葬らなければならなかった、調書だ。
「思いの外、警察組織への侵蝕は進んでてるみてーだな」
吐き捨てるように星児が言う。
「それで、何故か亀岡さんは、俺達の故郷に目をつけてるんだよ。おまけに現・衆議院議員の名前まで出てきてる」
「衆議院議員?」
星児が片眉を上げた。
「元・経産大臣の加藤力哉だよ」
星児がハッと保を見た。
「あの辺りを地盤にしてるヤツじゃねーか!」
「そうだ。やっぱコイツは単純なハナシじゃねぇ。真っ向から正当なやり方で立ち向かうつもりは元々ねーけどさ。その足元から崩してやる事はできるぜ」
保が身を乗り出し、星児に言う。
「俺は俺のやり方でやってみる」
一瞬驚いた表情を見せた星児だったが、直ぐに口角を上げて不敵に笑った。
「ああ、やってみろ。じゃあ俺はお前とは別の角度で攻めてくからよ。でも目的は」
「一緒だ」
郡司武を、潰す。
星児と保は視線をしっかりと合わせ、拳を付き合わせ、上座に供えたグラスに缶ビールを当てた。
缶ビールに口をつけながら、星児が保に聞く。
「みちるには?」
一瞬黙った保だったが、静かに口を開いた。
「まだ。今はまだだ。みちるには、ゆっくり話していこう。俺達の目的も」
星児は、そうだな、とだけ答えた。
†††
膨大な蔵書を誇る、都内某区の区立図書館。みちるは、その近代的な建物のフロアで〝彼〟を探していた。
南向きの大きな窓からは、初夏の日差しがフロアを明るく演出している。見事な採光デザインで、閲覧コーナーであるスペースには太陽光が降り注ぐが、日焼けを避けたい本が並ぶスペースには眩しい日差しは届かないようになっていた。
キョロキョロと見回していたみちるの表情がパッと明るくなった。
武明さん!
思わず大きな声を出しそうになり、慌てて口を手で塞いだ。
武明は一番奥のテーブルで積み上げた本に囲まれ指にペンを挟んだ手で頬杖を突き、分厚い書を読んでいた。その姿に、みちるの胸がドキンと一際大きな脈を打った。
え、と。
急いていく鼓動を深呼吸で落ち着かせ、手を挙げかけて、躊躇う。
お邪魔、かな。
振ろうとした手を引っ込めた時、武明が顔を上げた。みちるの姿を認めた武明の表情が変わった。
品のある美貌を嬉しそうに綻ばせ、軽く手招きするその姿に、みちるの胸が躍る。
星児を見た時の胸の痛みとは違う。保と一緒にいる時の心が緩む感覚とも違う。
みちるの中に生まれたのは、胸がときめく感覚だった。
あの日のあの庭で、微かに触れた唇は知らないキスだった。
二度目のキスも。
ときめいた? 分からない。
分からないけど、武明さんと少しでもたくさんの時間を一緒に過ごしたいと思ったのは、事実。
みちるは、呼吸を整えてから武明の隣に座った。
ドキドキとワクワクが混ざり合う感覚でいっぱいになる胸をそっと抑えて。
「難しそうな本がいっぱい」
テーブルの本の山を見て言うみちるに武明は優しく笑った。
「専門書だからそう見えるだけだよ」
ペンをしまいながら肩を竦める笑顔に、みちるは眩しそうに目を細めた。
「そうなの?」
「そう」と言い本を閉じ、ハハと笑った武明はみちるに向き直る。
「久しぶりだったね」
はい、と答えたみちるは微かにうつ向いた。
あの、新宿の路地裏でキスをされた日以来の再会だった。
あれから互いに連絡を取っていなかったが、昨夜みちるの元に武明が劇場に来、差し入れの花束を置いていったのだ。
「昨夜はありがとう。まさか、武明さんが来てくれるなんて」
みちるは少し複雑な気持ちでお礼を言った。
素直に心からは喜べない自分にもどかしい。
『自分を否定する事になるよ』
武明の言ってくれた言葉は嬉しかったし、あの舞台へ立つ事への抵抗は今薄れているが、それと〝これ〟とは別な気がした。
言葉が継げないみちるの頭を武明は優しく撫で、優しく微笑んだ。
「ごめん、この間、あんなカッコつけた事を君に言ったけど、君のショーは観れなかったんだ」
みちるは、え、と武明を見つめた。武明の真剣な瞳とぶつかりドキリと胸が縮んだ。
「これだけは断っておくけど、僕は決して君の仕事を否定している訳じゃない。僕は、君の全てを初めて観るのはあの形では嫌だと思ったからなんだ。僕だけに向けられたものじゃないからね」
「武明さん……」
〝僕だけに〟?
それって、と加速する鼓動を懸命になだめ、みちるは武明を伺う。
武明はみちるの見開く瞳を受けてはにかむ。
「なんて。物は言いようだね。一生懸命カッコ付けた言い方してみたけど、単なる独占欲みたいなものかな」
恥ずかしそうにクシャッと笑った武明の顔は、初めて見せたものだった。みちるは完全に心を掴まれた。
みちるは、首を振る。
「私ね、あれから武明さんとはなかなか会えないし、連絡も取れなくて、もう、忘れられちゃったかな、って思ってました」
聞き逃しそうなくらい小さな声で囁くように言う。優しい手を頬に感じたみちるは顔を上げた。
柔らかな視線とぶつかる。
「忘れるわけない、絶対」
言いながら微笑んだ武明に、みちるの胸がキュンと鳴った。
「春休みは日本にいなくて新学期始まると履修関係でバッタバタ。目まぐるしさに気付いたら、今になってた。ごめんね、あんな事をしておきながら、なんだか凄く無責任な男みたいだ」
「無責任だなんて」
武明の言葉は一つ一つがみちるの胸に染みていく。
〝誠実〟いう香りがした。
「君には謎がたくさんだね」
武明が静かに言った。
「謎なんて、ありません。武明さんの前にいる私が、私自身です」
平日の昼間の館内は、静寂に包まれ空調の音しかしなかった。少ない足音は、あさっての方向から。
武明はさりげなく開いた本で空間を遮る。
重ねた唇は、微かなミントの香りがした。
細く長い指がみちるの耳の後ろにスルリと届く。冷たいような心地よい感触にみちるの心が震えていた。
目を閉じたみちるに、そっと唇を離した武明はフッと笑った。
「ここは都心から少し離れていて、あまり知ってる顔に会わないから好きなんだ」
「そう、なんですか……」
唇は離れても顔が近い。みちるの肌が武明の呼吸を間近に感じていた。
「僕にもっと君を教えて――」
引き込まれてゆきそうな、真っ直ぐな瞳に、心も身体も捕らわれる。
「もっと、私を?」
「そうだよ。僕は君が好きになったから。好きだよ、みちる」
ストレートな言葉は、みちるの心をしっかりと掴む。
〝好き〟。
その感情をはっきりとした言葉の形で贈られた事は、なかったから。
「私、」
絞り出すような声が、震える。ドキドキと壊れてしまいそうなくらい脈打つ鼓動。
みちるの中には怒涛の勢いで様々な想いが錯綜していた。
〝踊り子〟ある自分が、恋をする相手として許されるのか。そして何より、自分の一部となっている2人の男は?
「答えは急がなくていいよ。また、こうして会ってくれたら」
低く柔らかなトーンの声がみちるの胸に絡み付くように響いた。
「僕の〝本気〟をしっかりとみちるに刻み込んでみせるから」
〝みちる、気をつけなさい〟
もう一度、唇を重ねた時、甘く優しい、心を痺れさせたあの声をみちるは聞いたような気がした。
右京、さん?
†††
「スゲーだろ」
ダイニングの椅子に座り、今日亀岡の妻から譲られた資料全てに目を通していた星児に、保はキッチンから声をかけた。グラスを1つ用意し、そこに今開栓したビールを注ぐ。
缶ビール2本を左手に持ち、白い泡が立つ黄金色の液体が揺れるグラスを右手に持った保がキッチンから出て来た。
テーブルの空いている上座にグラスを置き、プルトップを開けた缶ビールをカチンと合わせた。
「亀岡さん、サンキュ。ほら、星児もだ」
保はもう1本の缶ビールを星児に渡した。
「亀岡のおやっさんは恐らくここにはいねーよ」
受け取った星児は苦笑いしながらもプルトップを開け保と同じようにカチンとグラスを鳴らした。
まあな、と言いながら保はグイッとビールを飲んだ。
「亀岡さんはきっと、あの奥さんの傍にずっといるさ」
あの、聰明で素晴らしい奥さんの元に。帰れて良かったな、亀岡さん。
「夫婦って、スゲーよな」
独り言のように呟いた保の言葉を黙って聞いていた星児はふと壁の時計を見た。
「そういや、みちるは?」
「今夜もおせーよ。みちるは最近最終公演までしっかりキャスティングされてるからさ」
保は今日は1日休みを取っていたが、みちるは舞台に穴を空けられない為、亀岡の家の帰りにそのまま劇場に送り届けた。
「今香盤の間は姉貴とハイヤーで午前様だろ」
そうか、と星児は再び資料に目を落とす。
封筒の中身を確認した時、込み上げる想いや押し寄せる後悔に保は胸が張り裂けそうだった。
亀岡が最後に用意したと思われる封筒の中には、水色の厚紙表紙のファイル。
そして。
彼が調べあげた事がビッシリと書かれた手帳が封入されていた。
こんな、手帳まで。
保は手帳の中身を確認した時胸が潰される思いだった。
亀岡が何を想い、これを自分に託したのかを考えると察するに余りある。
託さざるを得なかったのか。
星児も同じだっただろう。
「警察の調書ってのは、初めて見たな」
「もう11年も前のだから今は書式もだいぶ違ってるだろうけどな。でも知るには充分過ぎる情報が詰まってるぜ」
「ああ」
みちるの両親のアレは事故なんかじゃない。
「引き上げた車の中には、彼等が脱出を試みようと動いた形跡はなかった」
重要な一文を読み上げた星児に、手帳に目を通していた保が頷く。
「つまり、湖に転落する時には、もう死んでいた――」
顔を上げた星児は保に聞いた。
「これを書いた西野ってのは?」
「消息不明みてーな事、書いてるな」
手帳を指差し、保が答えた。
「亀岡さんはこの事故に、TUD総合警備が絡んでる事を掴み、その先に郡司がいる事を知ってしまったんだな」
闇に葬らなければならなかった、調書だ。
「思いの外、警察組織への侵蝕は進んでてるみてーだな」
吐き捨てるように星児が言う。
「それで、何故か亀岡さんは、俺達の故郷に目をつけてるんだよ。おまけに現・衆議院議員の名前まで出てきてる」
「衆議院議員?」
星児が片眉を上げた。
「元・経産大臣の加藤力哉だよ」
星児がハッと保を見た。
「あの辺りを地盤にしてるヤツじゃねーか!」
「そうだ。やっぱコイツは単純なハナシじゃねぇ。真っ向から正当なやり方で立ち向かうつもりは元々ねーけどさ。その足元から崩してやる事はできるぜ」
保が身を乗り出し、星児に言う。
「俺は俺のやり方でやってみる」
一瞬驚いた表情を見せた星児だったが、直ぐに口角を上げて不敵に笑った。
「ああ、やってみろ。じゃあ俺はお前とは別の角度で攻めてくからよ。でも目的は」
「一緒だ」
郡司武を、潰す。
星児と保は視線をしっかりと合わせ、拳を付き合わせ、上座に供えたグラスに缶ビールを当てた。
缶ビールに口をつけながら、星児が保に聞く。
「みちるには?」
一瞬黙った保だったが、静かに口を開いた。
「まだ。今はまだだ。みちるには、ゆっくり話していこう。俺達の目的も」
星児は、そうだな、とだけ答えた。
†††
膨大な蔵書を誇る、都内某区の区立図書館。みちるは、その近代的な建物のフロアで〝彼〟を探していた。
南向きの大きな窓からは、初夏の日差しがフロアを明るく演出している。見事な採光デザインで、閲覧コーナーであるスペースには太陽光が降り注ぐが、日焼けを避けたい本が並ぶスペースには眩しい日差しは届かないようになっていた。
キョロキョロと見回していたみちるの表情がパッと明るくなった。
武明さん!
思わず大きな声を出しそうになり、慌てて口を手で塞いだ。
武明は一番奥のテーブルで積み上げた本に囲まれ指にペンを挟んだ手で頬杖を突き、分厚い書を読んでいた。その姿に、みちるの胸がドキンと一際大きな脈を打った。
え、と。
急いていく鼓動を深呼吸で落ち着かせ、手を挙げかけて、躊躇う。
お邪魔、かな。
振ろうとした手を引っ込めた時、武明が顔を上げた。みちるの姿を認めた武明の表情が変わった。
品のある美貌を嬉しそうに綻ばせ、軽く手招きするその姿に、みちるの胸が躍る。
星児を見た時の胸の痛みとは違う。保と一緒にいる時の心が緩む感覚とも違う。
みちるの中に生まれたのは、胸がときめく感覚だった。
あの日のあの庭で、微かに触れた唇は知らないキスだった。
二度目のキスも。
ときめいた? 分からない。
分からないけど、武明さんと少しでもたくさんの時間を一緒に過ごしたいと思ったのは、事実。
みちるは、呼吸を整えてから武明の隣に座った。
ドキドキとワクワクが混ざり合う感覚でいっぱいになる胸をそっと抑えて。
「難しそうな本がいっぱい」
テーブルの本の山を見て言うみちるに武明は優しく笑った。
「専門書だからそう見えるだけだよ」
ペンをしまいながら肩を竦める笑顔に、みちるは眩しそうに目を細めた。
「そうなの?」
「そう」と言い本を閉じ、ハハと笑った武明はみちるに向き直る。
「久しぶりだったね」
はい、と答えたみちるは微かにうつ向いた。
あの、新宿の路地裏でキスをされた日以来の再会だった。
あれから互いに連絡を取っていなかったが、昨夜みちるの元に武明が劇場に来、差し入れの花束を置いていったのだ。
「昨夜はありがとう。まさか、武明さんが来てくれるなんて」
みちるは少し複雑な気持ちでお礼を言った。
素直に心からは喜べない自分にもどかしい。
『自分を否定する事になるよ』
武明の言ってくれた言葉は嬉しかったし、あの舞台へ立つ事への抵抗は今薄れているが、それと〝これ〟とは別な気がした。
言葉が継げないみちるの頭を武明は優しく撫で、優しく微笑んだ。
「ごめん、この間、あんなカッコつけた事を君に言ったけど、君のショーは観れなかったんだ」
みちるは、え、と武明を見つめた。武明の真剣な瞳とぶつかりドキリと胸が縮んだ。
「これだけは断っておくけど、僕は決して君の仕事を否定している訳じゃない。僕は、君の全てを初めて観るのはあの形では嫌だと思ったからなんだ。僕だけに向けられたものじゃないからね」
「武明さん……」
〝僕だけに〟?
それって、と加速する鼓動を懸命になだめ、みちるは武明を伺う。
武明はみちるの見開く瞳を受けてはにかむ。
「なんて。物は言いようだね。一生懸命カッコ付けた言い方してみたけど、単なる独占欲みたいなものかな」
恥ずかしそうにクシャッと笑った武明の顔は、初めて見せたものだった。みちるは完全に心を掴まれた。
みちるは、首を振る。
「私ね、あれから武明さんとはなかなか会えないし、連絡も取れなくて、もう、忘れられちゃったかな、って思ってました」
聞き逃しそうなくらい小さな声で囁くように言う。優しい手を頬に感じたみちるは顔を上げた。
柔らかな視線とぶつかる。
「忘れるわけない、絶対」
言いながら微笑んだ武明に、みちるの胸がキュンと鳴った。
「春休みは日本にいなくて新学期始まると履修関係でバッタバタ。目まぐるしさに気付いたら、今になってた。ごめんね、あんな事をしておきながら、なんだか凄く無責任な男みたいだ」
「無責任だなんて」
武明の言葉は一つ一つがみちるの胸に染みていく。
〝誠実〟いう香りがした。
「君には謎がたくさんだね」
武明が静かに言った。
「謎なんて、ありません。武明さんの前にいる私が、私自身です」
平日の昼間の館内は、静寂に包まれ空調の音しかしなかった。少ない足音は、あさっての方向から。
武明はさりげなく開いた本で空間を遮る。
重ねた唇は、微かなミントの香りがした。
細く長い指がみちるの耳の後ろにスルリと届く。冷たいような心地よい感触にみちるの心が震えていた。
目を閉じたみちるに、そっと唇を離した武明はフッと笑った。
「ここは都心から少し離れていて、あまり知ってる顔に会わないから好きなんだ」
「そう、なんですか……」
唇は離れても顔が近い。みちるの肌が武明の呼吸を間近に感じていた。
「僕にもっと君を教えて――」
引き込まれてゆきそうな、真っ直ぐな瞳に、心も身体も捕らわれる。
「もっと、私を?」
「そうだよ。僕は君が好きになったから。好きだよ、みちる」
ストレートな言葉は、みちるの心をしっかりと掴む。
〝好き〟。
その感情をはっきりとした言葉の形で贈られた事は、なかったから。
「私、」
絞り出すような声が、震える。ドキドキと壊れてしまいそうなくらい脈打つ鼓動。
みちるの中には怒涛の勢いで様々な想いが錯綜していた。
〝踊り子〟ある自分が、恋をする相手として許されるのか。そして何より、自分の一部となっている2人の男は?
「答えは急がなくていいよ。また、こうして会ってくれたら」
低く柔らかなトーンの声がみちるの胸に絡み付くように響いた。
「僕の〝本気〟をしっかりとみちるに刻み込んでみせるから」
〝みちる、気をつけなさい〟
もう一度、唇を重ねた時、甘く優しい、心を痺れさせたあの声をみちるは聞いたような気がした。
右京、さん?
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