永遠のヴァージン【完結】

友秋

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夕暮れのキャンパスにて2

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 わたしは四つん這いになったまま、恐る恐る振り返った。

 つい今しがたベンチに横たわっていた筈の学生さんが起き上がって座り、呆れ顔でこちらを見ていた。

 それは、わたしをドキドキさせて止まない人。そう。ベンチで休んでいた学生さんは、ケンさんだった!

「あ、あ、あの」

 わたしは、込み上げる恥ずかしさとか、困惑とか、もう言い表せない感情に、金縛りにあったみたいに動けなかった。そんなわたしを見てケンさん、プッと吹き出した。

「とりあえず、早く立ち上がった方がいいぞ」

 え?

「パンツが見えてる」

 一瞬、意味が分からなくて硬直する。

「そのままその、ちょっとエロい恰好でいても、俺は別に構わないけど?」

 ケンさんが口の端を僅かに上げてニッと笑う。

 えろ……い? わたしは頭の中でケンさんの言葉を咀嚼し、理解して――、我に返った。

 いやあぁぁっ!

 バッと立ち上がってスカートを直して押さえた。

 い、いやだ! わたしったら!

 急激に、わたしの全てを呑み込む勢いで襲ってくるのは、羞恥心だ。

 やだやだやだ!

 うつ向くわたしは心の中で叫んでいた。激しい鼓動が、体温を一気に上げる。顔が熱い。きっと、赤くなってる!

 なんてこと、こんなことって。会いたくて、少しでいいからお話ししたくて。ずっと、あなたを探してた。けれど。あなたには誰かがいて。わたしにはこんな会い方ばかり。

 ひどい。やっぱり、ケンさんとは、縁がないんだ。こんな変な子じゃ、お友達にすらなれない。そう思った時だった。

「俺の目の前で二回も転んだ女は、お嬢が初めてだな。しかも、二回とも見事な転びっぷり」

 ケンさん、クックと笑いながらゆっくりとベンチから立ち上がった。

 二回? あ、れ? 一回は、今。もう一回は?

 わたしの前に来たケンさんは落ちた本を拾いながら話し始めた。

「入学式の日、キョロキョロして人にぶつかってよろけたりして危なっかしいヤツがいるな、と思って見ていたら、ソイツ、何もないところで転んでやんの。子供でもないのにあんな転び方するヤツいるんだってある意味感動した」

 覚えていた。ケンさんは、わたしのこと、覚えていてくれた。

 でもね、ケンさん。そのお言葉の内容は、覚えていてくれたことに対する感動を半分にしてくれるのに充分な内容です。

 面白がっているようにも聞こえて、突き放しているのかな、とも思えて。今、わたしはここで感動していいのか、がっかりしていいのか判断付きかねてます。

 複雑な想いが胸の中をぐるぐる廻って、どう切り返していいのか分からず立ち尽くすわたしを見たケンさんはクックと笑った。

「覚えてたよ、ちゃんと。忘れられるわけないだろ、あんな姿」

 だからもう……。忘れて欲しかったのか、覚えていて欲しかったのか、わたしはもう分からなくなってしまった。

 初めて会った日のことケンさんが覚えていない、って思った時はショックを受けた。でも、実は覚えていてくれた、って分かった今、どうしてか、嬉しい、って飛び上がらんばかりの自分がいて。けれど次の瞬間、あの時のシチュエーションが鮮明に蘇って自己嫌悪に陥って。自分で自分が分からないです。

 どちらにしても今のわたしの胸は、心臓は、破裂してしまいそうなくらい高鳴って、足元に落ちてる本を拾おうと伸ばした手が震えてる。ごまかす為に、本を拾うことに集中しよう、と思った時。

「蜷川教授か」

 え、っと顔を上げると、ケンさんは拾い集めた本を見ていた。一番上にのせてある本は、蜷川教授の著書だった。

「知ってるの?」

 蜷川教授は国文学の教授です。近代文学の研究では第一人者だけど、経済学部の学生さん達はあまり知らないと思うんだけど……。

 ケンさん、落ちた衝撃で曲がった本を直しながら、言う。

「蜷川先生、ここの卒業生で山岳部のOBだし、俺と同じ山岳会のメンバーだから、何度か一緒に登ったことがあるんだ」

 ああ、そう言えば。蜷川教授のお部屋には、お山の写真が飾ってあって、登山がご趣味、というお話しをしていた。ケンさんの登山仲間だったなんて。

 もしかしたら、ケンさんはとてもお顔が広いのかも。

 手元の本に目を落としていたケンさんの、睫毛の長い端正なお顔がふっとわたしを見た。クスリと笑ったお顔に、わたしの胸がドキンと鳴る。

「蜷川先生、人使い荒いだろ」

 あ、うん。そうなの、わたしいつもこうして――、と言いたかったんだけど、ケンさんの精悍なお顔に見つめられて言葉が出て来なくなって、うん、とだけしか答えられなかった。

「でも、悪いことじゃないよな」

 悪い事じゃない? 意味が分からなくて首をかしげるわたしにケンさんは続ける。

「あの人は、気に入った人ほど使うんだ。こうして色々使われるってことは、お嬢はちゃんと目をかけられているってことなんだ」
「そう、なの?」
「そういうこと」とケンさんは笑う。

 そういえば、思い当たる節はあった。蜷川先生に頼まれるお仕事には、今日みたいな、あきらかにご自分でするのが面倒だから、といものもあれば、調べもののお手伝い、というものもある。

 そんな時は、珍しい資料を見せてくれたりさりげなく研究のヒントをくれたりする。思い出して、ああ、と納得顔をしたわたしを見てケンさん、な? とウインクした。

「思い当たる節、あっただろ」
「はい、ありました」

 素直な答えがこぼれたわたしの手元から、ケンさんは本を取った。

「あ、これは……」

 慌てて手を伸ばすと。

「本、こんなにボロボロにして、一人で返しに行ったら司書のオバサンに延々イヤミ言われるぞ。一緒に謝ってやるよ」

 わたしは答えに詰まってしまった。ケンさんの言う通りです。高価そうな本、表紙が折れてしまったものもある。これは、司書さんにかなり絞られる。

「こういう時は、一人より二人の方がいいだろ?」

 ケンさんは、本当に不思議な人です。優しいのか、冷たいのか、分からない。胸を過るのは、不安が大きいのに、なぜか、どこかで淡い期待をしてる。苦しい、って思うのは、どうすることもできないもどかしさなのかな。

「お、おねがいします」

 わたしは、小さく答えていた。

「よし。じゃ、怒られに行くぞ」

 ケンさんの大きな手がわたしの頭にのせられた。

 ほら、また。どきどき。その手から、痺れるような熱が伝わる。わたしは、蚊の鳴くような声で「はい」と答えていた。



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