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命を懸けて
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上高地からひたすら無心で歩くこと、なんと五時間。這々の体で目的のロッジに到着です。
「鯉沢君、頑張ったね」
「よくやった! ボルダリングの時といい、ただのお嬢様じゃないね、君は」
先生と東堂さんが労ってくれて、南さんも傍で肩を竦めて柔らかに微笑んでいた。
ロッジは、思っていたよりも大きな建物だった。ログハウス調の造りで、木の温もりが登ってきた登山者達を温かく迎えてくれていた。
「今日は天気もこんなだし、何より捜索活動もしているからちょっと物々しくて人が少ない」
え、これで、少ないの? って思った。想像していたよりも、人が多い。スタッフさんなのか、登山者さんなのか、わたしはちょっと区別が付かない。でも、何だか落ち着かない雰囲気なのは分かった。
「とりあえず、中に入ろう」
先生に促されて中に入ると、出迎えてくれたスタッフさんがロビーの一角に通してくれた。
「先生!」
「ああ、君達はここに留まってくれていたんだね、よかった」
先生の周りに直ぐに五、六人の登山者さんが駆け寄った。
中に見覚えのあるお顔が二、三人ほどいらして、記憶を辿って思い出した。大学でケンさんと一緒にいたところをたまにお見かけした事のある方達だった。
山岳部の三年生さん達ですね。皆さん、ここで待機しておられたんですね。
わたしの中に微かな希望が生まれる。
じゃあ、ケンさんも! 辺りを見回そうとした時、先生が学生さん達に聞いた。
「やっぱり宮部君はいないのか」
ギクリと全身が硬くなる。
「そうなんです」
学生さんの一人が神妙な面持ちでお応えした。
「槍穂縦走、十回以上の経験があるのはケンだけだし、その、何処にどんな事に遭遇するかも、危険予知も、アイツは誰より分かっているから」
「止めても無駄だった、という訳だね」
「いえ、ケンは救助隊の方々の信頼が厚くて、誰にも止められてなかったんですよ。それどころか、お願いしますって」
「そうか」
先生が諦めたように溜息を吐かれ、山岳部員さん達は先生のそのご様子に頷いた。
「ケンなら、大丈夫です。アイツは誰よりも山の厳しさを知っているから」
みんな、ケンさんの実力を知ってる。ケンさんを信頼してる。
ロビーに置かれた無線機から、ザーザーという雑音に混じって声が聞こえていた。
「捜索はどうなってる? まだ誰も見つかっていないのか?」
「それが、先生達がここに到着される二時間くらい前だったかな」
先生に聞かれ、答えた部員さんはお仲間さんの顔を見る。
「そうだよ、そのくらい。ケンが天狗の辺りで一人見つけたんですよ」
先生含め、わたし達の顔が一気に明るくなる。部員さんによると、その最初に見つかった方は怪我も大した事はなくて、病院に直行はせず、とにかく先に先生や先輩に謝りたいとの事で、救助隊の方に伴われてここに向かっているそう。
仲間が怪我をして、助けを呼びに行こうとして遭難、というのはよくあるケースなのだとか。今回も、そんなケースのようです。
無線機から聞こえる音に、緊迫したやり取りが入ってきて、全員の視線が前のめりに釘付けになる。
聞こえてくるのは、救助隊の方達の声と、それと、
「長谷川ピーク、岐阜側! 二人! 一人は軽傷! もう一人はーー」
ケンさん! ケンさんの声だ! 身を乗り出して耳を澄ました。
「動けないけど意識はあり! 俺が今から引き揚げます! 救助ヘリお願いします!」
「その場で待ってられないか?」
「雲が怪しい。ヘリがここに来た時にいち早く救出してもらえる場所に揚げておきたい!」
「分かった! でも無理はするな!」
「はい!」
ここにいる皆が息を呑んだ。全員のお顔が強張っている。その表の情は、心配と不安に彩られている。
「よりによって、岐阜側なんて」
誰かの呟きが空気を一段と重いものにした。
わたしはこのお山の状況を知らないから、救助隊員さんとケンさんの会話を聞いただけじゃ、ケンさんが今どんな場所でどんな状態にいるのか、どんな救助をしようとしているのか分からない。
でも、ここにいる皆の表情、肌に感じる空気から、厳しい事態に陥っている事を察知出来た。
ケンさん、ケンさん!
「宮部君」
蜷川先生が無線機のマイクを取った。静かに呼び掛けられて、そのままゆっくりと噛みしめるように言葉を続けられた。
「くれぐれも、無理はしないように。君なら、分かるね」
冷静で、決して煽ったりしないトーンの声だった。雑音に混じってケンさんのフッと笑う声が聞こえた気がした。
「その声は、蜷川教授」
甘い響きを持った低い声。ケンさんのお声、たった二日聞いていなかっただけなのに、胸が締め付けられて喉の奥が痛くなった。
溢れてくる想いが、わたしの心を急き立てる。
「ケンさ……っ」
思わず声を上げて、南さんに遮られた。
「ケンは今、全神経集中して命を懸けて救助しているの。雑念を入れさせちゃ駄目だから、今は声を掛けようとしない事」
ハッとした。ケンさんは、命懸けの救出作業をしている。わたしに出来る事は、ケンさんが無事に帰って来てくれる事を祈って待つ事だけ。
手を祈る形で胸の前で組んだ時だった。
「今、お嬢の声が聞こえたんだけど、まさか気のせいだよな」
一同、ハッと息を呑む。全員の視線がわたしの集中した。
ヤバい。という空気でしょうか、これは。
「あ、あの、えっと」
先生が慌ててシーッという人差し指を口の前に立てる仕草をしたけれど遅かった。
「マジかよ。ちょっと待て。俺はいい子で待ってろ、って言っただろ、あっ、やべっ」
無線から聞こえる声が途切れ、次の瞬間、ガシャンッという何かが壊れる音がして、通信が完全に途絶えた。
「宮部君! どうした!」
世界から、空気が一瞬で無くなったような衝撃が襲う。
「まさか、落ちた?」
誰かの呟きが、現実を突きつける。
「鯉沢君、頑張ったね」
「よくやった! ボルダリングの時といい、ただのお嬢様じゃないね、君は」
先生と東堂さんが労ってくれて、南さんも傍で肩を竦めて柔らかに微笑んでいた。
ロッジは、思っていたよりも大きな建物だった。ログハウス調の造りで、木の温もりが登ってきた登山者達を温かく迎えてくれていた。
「今日は天気もこんなだし、何より捜索活動もしているからちょっと物々しくて人が少ない」
え、これで、少ないの? って思った。想像していたよりも、人が多い。スタッフさんなのか、登山者さんなのか、わたしはちょっと区別が付かない。でも、何だか落ち着かない雰囲気なのは分かった。
「とりあえず、中に入ろう」
先生に促されて中に入ると、出迎えてくれたスタッフさんがロビーの一角に通してくれた。
「先生!」
「ああ、君達はここに留まってくれていたんだね、よかった」
先生の周りに直ぐに五、六人の登山者さんが駆け寄った。
中に見覚えのあるお顔が二、三人ほどいらして、記憶を辿って思い出した。大学でケンさんと一緒にいたところをたまにお見かけした事のある方達だった。
山岳部の三年生さん達ですね。皆さん、ここで待機しておられたんですね。
わたしの中に微かな希望が生まれる。
じゃあ、ケンさんも! 辺りを見回そうとした時、先生が学生さん達に聞いた。
「やっぱり宮部君はいないのか」
ギクリと全身が硬くなる。
「そうなんです」
学生さんの一人が神妙な面持ちでお応えした。
「槍穂縦走、十回以上の経験があるのはケンだけだし、その、何処にどんな事に遭遇するかも、危険予知も、アイツは誰より分かっているから」
「止めても無駄だった、という訳だね」
「いえ、ケンは救助隊の方々の信頼が厚くて、誰にも止められてなかったんですよ。それどころか、お願いしますって」
「そうか」
先生が諦めたように溜息を吐かれ、山岳部員さん達は先生のそのご様子に頷いた。
「ケンなら、大丈夫です。アイツは誰よりも山の厳しさを知っているから」
みんな、ケンさんの実力を知ってる。ケンさんを信頼してる。
ロビーに置かれた無線機から、ザーザーという雑音に混じって声が聞こえていた。
「捜索はどうなってる? まだ誰も見つかっていないのか?」
「それが、先生達がここに到着される二時間くらい前だったかな」
先生に聞かれ、答えた部員さんはお仲間さんの顔を見る。
「そうだよ、そのくらい。ケンが天狗の辺りで一人見つけたんですよ」
先生含め、わたし達の顔が一気に明るくなる。部員さんによると、その最初に見つかった方は怪我も大した事はなくて、病院に直行はせず、とにかく先に先生や先輩に謝りたいとの事で、救助隊の方に伴われてここに向かっているそう。
仲間が怪我をして、助けを呼びに行こうとして遭難、というのはよくあるケースなのだとか。今回も、そんなケースのようです。
無線機から聞こえる音に、緊迫したやり取りが入ってきて、全員の視線が前のめりに釘付けになる。
聞こえてくるのは、救助隊の方達の声と、それと、
「長谷川ピーク、岐阜側! 二人! 一人は軽傷! もう一人はーー」
ケンさん! ケンさんの声だ! 身を乗り出して耳を澄ました。
「動けないけど意識はあり! 俺が今から引き揚げます! 救助ヘリお願いします!」
「その場で待ってられないか?」
「雲が怪しい。ヘリがここに来た時にいち早く救出してもらえる場所に揚げておきたい!」
「分かった! でも無理はするな!」
「はい!」
ここにいる皆が息を呑んだ。全員のお顔が強張っている。その表の情は、心配と不安に彩られている。
「よりによって、岐阜側なんて」
誰かの呟きが空気を一段と重いものにした。
わたしはこのお山の状況を知らないから、救助隊員さんとケンさんの会話を聞いただけじゃ、ケンさんが今どんな場所でどんな状態にいるのか、どんな救助をしようとしているのか分からない。
でも、ここにいる皆の表情、肌に感じる空気から、厳しい事態に陥っている事を察知出来た。
ケンさん、ケンさん!
「宮部君」
蜷川先生が無線機のマイクを取った。静かに呼び掛けられて、そのままゆっくりと噛みしめるように言葉を続けられた。
「くれぐれも、無理はしないように。君なら、分かるね」
冷静で、決して煽ったりしないトーンの声だった。雑音に混じってケンさんのフッと笑う声が聞こえた気がした。
「その声は、蜷川教授」
甘い響きを持った低い声。ケンさんのお声、たった二日聞いていなかっただけなのに、胸が締め付けられて喉の奥が痛くなった。
溢れてくる想いが、わたしの心を急き立てる。
「ケンさ……っ」
思わず声を上げて、南さんに遮られた。
「ケンは今、全神経集中して命を懸けて救助しているの。雑念を入れさせちゃ駄目だから、今は声を掛けようとしない事」
ハッとした。ケンさんは、命懸けの救出作業をしている。わたしに出来る事は、ケンさんが無事に帰って来てくれる事を祈って待つ事だけ。
手を祈る形で胸の前で組んだ時だった。
「今、お嬢の声が聞こえたんだけど、まさか気のせいだよな」
一同、ハッと息を呑む。全員の視線がわたしの集中した。
ヤバい。という空気でしょうか、これは。
「あ、あの、えっと」
先生が慌ててシーッという人差し指を口の前に立てる仕草をしたけれど遅かった。
「マジかよ。ちょっと待て。俺はいい子で待ってろ、って言っただろ、あっ、やべっ」
無線から聞こえる声が途切れ、次の瞬間、ガシャンッという何かが壊れる音がして、通信が完全に途絶えた。
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