永遠のヴァージン【完結】

深智

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もう一つの素顔

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「まさか」

 誰かの言葉が空を彷徨い、霧散する。次に訪れたのは重い沈黙。

 どうしよう。どうしよう。わたしのせいだ。

 両手で口を押さえて立ち尽くす。目の前が真っ暗になって何も見えない。立っているのがやっとだった。

 崩れそう。でも、ここでわたしが崩れ落ちてどうするの。

 ここで無事を祈って待っているお仲間さん達の前でわたしが泣き崩れる資格なんてない。

 唇を噛み締めて涙をグッと堪えて、頭を下げようと思った時だった。

「ケンがあんなに慌てるところ、初めて見たよ。本気で焦ったな」

 部員さんの一人が沈黙を破った。その声は驚くぐらい柔らかで、時流が止まった真空のようになっていた空間にふうっと酸素を送り込まれた。

 空気がふわっと解き放たれて硬くなっていた身体が一気に解れた。

「そうだよね。いつも、山に登る時は仏頂面で冷静だからね」
「表情崩した事なんて一度もなかったよな」
「そうそう」

 部員さん達が口々に言う。一人が腕を組み、ウンウンと頷きながら言葉を継いだ。

「学内でチャラそうにしているのは、本当の顔じゃないって俺達は知っている」

 そう、なんですか?

 わたしの知らないケンさんの素顔が明かされる。溢れかけていた涙が引っ込んでしまいキョトンとしてしまったわたしに部員さん達が笑いかけてくれた。

「大丈夫だよ。ケンは絶対に落ちたりしないから」
「そうそう、特に人命が掛かっている時は、神がかっているような事があるからね」

 ケンさんの優しいお仲間さん達は、真空の氷の中のようになってしまった空気を少しでも和らげてくれようとしている。また涙が出そうになった。

 お仲間さん達はケンさんの事を絶対的に信じている。

「私も彼らと同意見だよ。大丈夫だよ、宮部君はこんな事くらいで失敗するような男じゃない。鯉沢君はここまで必死の想いで来たんだ。あとは祈るだけだよ」

 ごめんなさい、とか、ありがとう、とか、諸々言葉に出来ない想いを込めてわたしは深く頭を下げた。

 外が急に騒がしくなって「無事でよかった!」「よく頑張った!」と言う声が聞こえて来た。

「学生さんの一人が戻って来ましたよ!」

 ロッジのスタッフさんがお声を掛けてくれて、みんなが一斉に出迎えに立った。



 自分の足で歩いて下りて来た一年生君は、やっぱり全くの無傷だったわけではなかった。

 転んだのかな、どこかから落ちたりしたのかな。

 足の捻挫。腕の打撲。本当なら直ぐにでも松本市内の病院に行った方が良さそうだった。でも彼は、ちゃんと先生や先輩達に謝りたいから、とこちらに来た。

 誰一人として彼を責めたりする人はいなくて、三年生の皆さんに「無事でよかった」と抱きしめられて「すみませんでした!」と泣き出した。

 怖かったんだろうな、って思うと胸が痛くなる。本当に、無事でよかった。

 先生がここまで来る道すがら、教えてくださった。北アルプスでは年間三百人近い遭難者が出ていて、死亡者は五十人前後、という。行方不明者だって必ず毎年出ている。

 遭難事故に遭って無事に戻って来られる事は、どれほどの喜びか、山に携わる人達が一番よく知っているんだ。

 診療所の先生に応急処置をしてもらいながら一年生君は話してくれた。

「宮部先輩って、僕ら一年生から見たら怖くて一度も口を利いた事がなかったんです」

 ケンさんが、怖い? わたしの知らないケンさんの姿は、まだあった。

「だから、見つけてくれた時、怒られるって思っていたら、頭をグシャグシャってされて『よく頑張ったな!』って。僕、泣いちゃいました」

 皆が、うんうんと頷いて、彼はそれを見て話しを続ける。

「こんな事になったのに、宮部先輩は『槍に立てたか? 最高だったろ。よくやった!』って言ってくれました」

 大事な人を失った山。誰よりも山の怖さを知りながら挑み続けて、ケンさんは自分の中の山を乗り越えて来たのかもしれない。

 だから、自分に向けての感情は捨てて、大きく手を広げて後輩を受け止める事が出来るのかもしれない。

「あの、他のみんなは」

 応急処置を終え、一年生君は聞いた。三年生のリーダーさんと思われる部員さんが答える。

「ケンがさっき二人見つけた。そっちは場所が場所だけにちょっと難航してんだけど」

 言葉を濁しながら、部員さんは続ける。

「あと二人は、実はまだなんだ」

 一年生君は「ああ」と顔を曇らせる。

「実は、二人が滑落して、助けを呼びに行こうとしたんですけどはぐれてしまって、どっちに行ったか分からないんです」

 先生のお顔が険しくなる。腕時計を見た。

「それはまずいな。もうすぐ日が落ちる。どの辺りにいるかだけでも分かればいいんだが」

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