14 / 42
試験期間
しおりを挟む
日中降り続いた雨は夕刻には上がり、梅雨時期の空気の対流は、辺りが暗くなる頃には湿気を帯びた涼しい風と変わる。庭を吹き抜ける風が木を揺らし、葉擦れのさわさわという音がどこからともなく聞こえていた。
期末試験が始まっていた。試験期間に入ると部活動は原則休みとなるが、大会を間近に控える野球部などは、自主トレという名目で短時間の練習が許されていた。
しかし、それだけでは身体は訛る。篤は帰って来てからランニングをこなし、庭で素振りをしていた。そんな篤に母の奈緒はずっと文句を言っていた。
篤は母の説教には無視を決め込み、中庭で素振りを続けていた。バットを振り続けていると汗が宙に舞う。その汗を拭うことなく無心に振っていた時。
「篤ー」
自分を呼ぶ声に振り向いた篤の手元にキャッチャーミットが飛んできた。玄関からトレーニングシューズを履きながら、弟の誠が出てきた。手にはキャメル色のグローブ。
「ちょっと付き合ってよ」
誠は、篤の返事も聞かず、右手にグローブをはめるとボールを左手に握り、そのミットに軽く投げ込む動作を繰り返した。
中庭にある外灯が誠を照らし出した。その灯りの下、とうに篤を抜いた長身に、長兄の忍を少し幼くしたような顔立ちの弟の姿がはっきりと見て取れた。忍のミニサイズといった弟の姿に、先日の兄とのやり取りが思い出され、篤は目を細めた。
「なんだよ、お前はさっき帰ってきたばっかじゃねぇか。メシは?」
篤はバットを近くのベンチに立て掛けると誠が投げてよこしたキャッチャーミットをはめ、拳でパンパンと叩く。
「まだ。でも僕のとこも試験で投げ込み不足が不安なんだ。篤、座ってよ」
誠は壁際に張られたネットをグローブで指した。
広い庭には、小学生の頃から野球に夢中だったこの家の二人の息子の為にと、マウンドからホームベースまでの距離を取り、ネットが張られた簡単な練習スペースが設えてあった。幼い頃は二人で練習する姿がよく見られたが、最近は家で練習することなどめっきり減り、ここは殆ど使われることもなくなっていた。
「いきなりかよ。肩は?」
「学校で少しは投げてきてるよ」
ネットの前に行った篤は屈んでミットを構えた。それを見て、誠はプレーに見立てて書かれた白線部分に立った。
久しぶりだ、誠の球受けるのは。セットポジションからの投球フォームに入る誠を篤は真っ直ぐ見据えた。ワクワクしている自分に気付いていた。
誠はサウスポーだった。篤のチームにも左投手はいる。だが、レベルの高い左投手の球を受ける機会はなかなかない。いつも見ている貴史とは鏡になっている誠のセットポジションに多少の違和感を持ちつつも、その左手から放たれる球を待った。
打者が立つ辺りでグッと伸びたストレートの球は、篤のミットに収まる時、パア……ンと小気味よい音を立てた。
誠が通う、都内にある文武両道の名門私立高校は、今年の甲子園西東京代表大本命と言われていた。
「背番号十番貰ったらしいな。来年は確実にエースか」
球を返しながら篤が言った。
「わかんないよ、そんなの」
返球を受けながら誠は爽やかに笑った。テンポ良く投球フォームに入る誠を篤は複雑な想いで見つめた。
球のキレも角度も貴史の方が上。ただ、誠はまだ二年生だ。その上左投手。彼のポジションがチーム内でどのくらいのものなのか、容易に想像ができた。
神というのは、与えるものには二物も三物も与えるものなのだ。
篤と誠は年子の兄弟だった為、幼い頃から常に比べられて育ってきた。そこに、できの良すぎる兄貴も加わる。
よくグレずに育ったなと、篤自身、我ながら偉いと自らを褒めてみたりもしたが、それは、野球があったからなのだ。自らの指針となる、支柱となる、譲れないものがあったから、自身を鼓舞してここまで来られたのだ。
その野球が、最近足元から揺らぎそうになることがあった。少し前にワクワクしていたはずの気持ちが不安へと変わる。
ただ漠然と誠の球を受け、返球する、その繰り返しだけの状態になり始めていた時。
「篤、僕さ……」
誠が不意に話しだした。
篤が、え、と改めて誠を見た時、彼はセットポジションに入っていた。腕を振り上げた瞬間、誠は大きな声を張り上げた。
「今日、カナにフラれたー!」
突拍子もない告白と共に放たれた球は、篤のミットをわずかにかすめ、後ろのネットに突き刺さった。勢いを失った球はそのまま地面に落ちコロコロと転がった。
「なんだよー。篤いつも、俺はパスボールとか絶対にしねぇ、とかって豪語してんじゃん。ちゃんと取ってよー」
「ば……、ばっかやろう! お前が突然変なこと言い出すからだろ!」
篤は慌てて球を拾った。
まったく予想もしていない言葉だった。突然、なぜ夏菜子の名が出てくるのか。バクバクと激しい鼓動を打つ心臓。一つ深呼吸をし、落ち着かせた。
この弟はいきなり何を言い出すのか。篤は返答に困った。
「そんなこと、なにも俺に話すことじゃねーだろ」
「あー、なんかスッキリした。僕ご飯食べる」
「はぁ!?」
グローブを右手から外し伸びをした誠は、返球しようと投げる体勢に入ったが固まってしまった篤にニコッと笑ってみせた。
「篤サンキュー」
誠の表情は本当に、何かを吹っ切れたかのように、どこかスッキリとして見えた。
「カナにはさ、前からずっと好きなヤツがいるの知ってたんだけど、僕、しっかり玉砕して前進なまきゃ、と思ってさ。あ、カナの好きなヤツ、僕知ってるけど篤には教えてやんないからね」
そう言い、ヘヘッと笑った誠は唖然とする篤を置き去りにして、サッサと家の中に入っていった。
「何言ってんだ、アイツ」
篤はしばしその場に立ち尽くし、行き場の失った球を握り締めたまま呟いた。
期末試験が始まっていた。試験期間に入ると部活動は原則休みとなるが、大会を間近に控える野球部などは、自主トレという名目で短時間の練習が許されていた。
しかし、それだけでは身体は訛る。篤は帰って来てからランニングをこなし、庭で素振りをしていた。そんな篤に母の奈緒はずっと文句を言っていた。
篤は母の説教には無視を決め込み、中庭で素振りを続けていた。バットを振り続けていると汗が宙に舞う。その汗を拭うことなく無心に振っていた時。
「篤ー」
自分を呼ぶ声に振り向いた篤の手元にキャッチャーミットが飛んできた。玄関からトレーニングシューズを履きながら、弟の誠が出てきた。手にはキャメル色のグローブ。
「ちょっと付き合ってよ」
誠は、篤の返事も聞かず、右手にグローブをはめるとボールを左手に握り、そのミットに軽く投げ込む動作を繰り返した。
中庭にある外灯が誠を照らし出した。その灯りの下、とうに篤を抜いた長身に、長兄の忍を少し幼くしたような顔立ちの弟の姿がはっきりと見て取れた。忍のミニサイズといった弟の姿に、先日の兄とのやり取りが思い出され、篤は目を細めた。
「なんだよ、お前はさっき帰ってきたばっかじゃねぇか。メシは?」
篤はバットを近くのベンチに立て掛けると誠が投げてよこしたキャッチャーミットをはめ、拳でパンパンと叩く。
「まだ。でも僕のとこも試験で投げ込み不足が不安なんだ。篤、座ってよ」
誠は壁際に張られたネットをグローブで指した。
広い庭には、小学生の頃から野球に夢中だったこの家の二人の息子の為にと、マウンドからホームベースまでの距離を取り、ネットが張られた簡単な練習スペースが設えてあった。幼い頃は二人で練習する姿がよく見られたが、最近は家で練習することなどめっきり減り、ここは殆ど使われることもなくなっていた。
「いきなりかよ。肩は?」
「学校で少しは投げてきてるよ」
ネットの前に行った篤は屈んでミットを構えた。それを見て、誠はプレーに見立てて書かれた白線部分に立った。
久しぶりだ、誠の球受けるのは。セットポジションからの投球フォームに入る誠を篤は真っ直ぐ見据えた。ワクワクしている自分に気付いていた。
誠はサウスポーだった。篤のチームにも左投手はいる。だが、レベルの高い左投手の球を受ける機会はなかなかない。いつも見ている貴史とは鏡になっている誠のセットポジションに多少の違和感を持ちつつも、その左手から放たれる球を待った。
打者が立つ辺りでグッと伸びたストレートの球は、篤のミットに収まる時、パア……ンと小気味よい音を立てた。
誠が通う、都内にある文武両道の名門私立高校は、今年の甲子園西東京代表大本命と言われていた。
「背番号十番貰ったらしいな。来年は確実にエースか」
球を返しながら篤が言った。
「わかんないよ、そんなの」
返球を受けながら誠は爽やかに笑った。テンポ良く投球フォームに入る誠を篤は複雑な想いで見つめた。
球のキレも角度も貴史の方が上。ただ、誠はまだ二年生だ。その上左投手。彼のポジションがチーム内でどのくらいのものなのか、容易に想像ができた。
神というのは、与えるものには二物も三物も与えるものなのだ。
篤と誠は年子の兄弟だった為、幼い頃から常に比べられて育ってきた。そこに、できの良すぎる兄貴も加わる。
よくグレずに育ったなと、篤自身、我ながら偉いと自らを褒めてみたりもしたが、それは、野球があったからなのだ。自らの指針となる、支柱となる、譲れないものがあったから、自身を鼓舞してここまで来られたのだ。
その野球が、最近足元から揺らぎそうになることがあった。少し前にワクワクしていたはずの気持ちが不安へと変わる。
ただ漠然と誠の球を受け、返球する、その繰り返しだけの状態になり始めていた時。
「篤、僕さ……」
誠が不意に話しだした。
篤が、え、と改めて誠を見た時、彼はセットポジションに入っていた。腕を振り上げた瞬間、誠は大きな声を張り上げた。
「今日、カナにフラれたー!」
突拍子もない告白と共に放たれた球は、篤のミットをわずかにかすめ、後ろのネットに突き刺さった。勢いを失った球はそのまま地面に落ちコロコロと転がった。
「なんだよー。篤いつも、俺はパスボールとか絶対にしねぇ、とかって豪語してんじゃん。ちゃんと取ってよー」
「ば……、ばっかやろう! お前が突然変なこと言い出すからだろ!」
篤は慌てて球を拾った。
まったく予想もしていない言葉だった。突然、なぜ夏菜子の名が出てくるのか。バクバクと激しい鼓動を打つ心臓。一つ深呼吸をし、落ち着かせた。
この弟はいきなり何を言い出すのか。篤は返答に困った。
「そんなこと、なにも俺に話すことじゃねーだろ」
「あー、なんかスッキリした。僕ご飯食べる」
「はぁ!?」
グローブを右手から外し伸びをした誠は、返球しようと投げる体勢に入ったが固まってしまった篤にニコッと笑ってみせた。
「篤サンキュー」
誠の表情は本当に、何かを吹っ切れたかのように、どこかスッキリとして見えた。
「カナにはさ、前からずっと好きなヤツがいるの知ってたんだけど、僕、しっかり玉砕して前進なまきゃ、と思ってさ。あ、カナの好きなヤツ、僕知ってるけど篤には教えてやんないからね」
そう言い、ヘヘッと笑った誠は唖然とする篤を置き去りにして、サッサと家の中に入っていった。
「何言ってんだ、アイツ」
篤はしばしその場に立ち尽くし、行き場の失った球を握り締めたまま呟いた。
0
あなたにおすすめの小説
☘ 注意する都度何もない考え過ぎだと言い張る夫、なのに結局薬局疚しさ満杯だったじゃんか~ Bakayarou-
設楽理沙
ライト文芸
☘ 2025.12.18 文字数 70,089 累計ポイント 677,945 pt
夫が同じ社内の女性と度々仕事絡みで一緒に外回りや
出張に行くようになって……あまりいい気はしないから
やめてほしいってお願いしたのに、何度も……。❀
気にし過ぎだと一笑に伏された。
それなのに蓋を開けてみれば、何のことはない
言わんこっちゃないという結果になっていて
私は逃走したよ……。
あぁ~あたし、どうなっちゃうのかしらン?
ぜんぜん明るい未来が見えないよ。。・゜・(ノε`)・゜・。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
初回公開日時 2019.01.25 22:29
初回完結日時 2019.08.16 21:21
再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結
❦イラストは有償画像になります。
2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜
クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。
生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。
母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。
そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。
それから〜18年後
約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。
アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。
いざ〜龍国へ出発した。
あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね??
確か双子だったよね?
もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜!
物語に登場する人物達の視点です。
【完結】愛されないあたしは全てを諦めようと思います
黒幸
恋愛
ネドヴェト侯爵家に生まれた四姉妹の末っ子アマーリエ(エミー)は元気でおしゃまな女の子。
美人で聡明な長女。
利発で活発な次女。
病弱で温和な三女。
兄妹同然に育った第二王子。
時に元気が良すぎて、怒られるアマーリエは誰からも愛されている。
誰もがそう思っていました。
サブタイトルが台詞ぽい時はアマーリエの一人称視点。
客観的なサブタイトル名の時は三人称視点やその他の視点になります。
となりのソータロー
daisysacky
ライト文芸
ある日、転校生が宗太郎のクラスにやって来る。
彼は、子供の頃に遊びに行っていた、お化け屋敷で見かけた…
という噂を聞く。
そこは、ある事件のあった廃屋だった~
お二人共、どうぞお幸せに……もう二度と勘違いはしませんから
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【もう私は必要ありませんよね?】
私には2人の幼なじみがいる。一人は美しくて親切な伯爵令嬢。もう一人は笑顔が素敵で穏やかな伯爵令息。
その一方、私は貴族とは名ばかりのしがない男爵家出身だった。けれど2人は身分差に関係なく私に優しく接してくれるとても大切な存在であり、私は密かに彼に恋していた。
ある日のこと。病弱だった父が亡くなり、家を手放さなければならない
自体に陥る。幼い弟は父の知り合いに引き取られることになったが、私は住む場所を失ってしまう。
そんな矢先、幼なじみの彼に「一生、面倒をみてあげるから家においで」と声をかけられた。まるで夢のような誘いに、私は喜んで彼の元へ身を寄せることになったのだが――
※ 他サイトでも投稿中
途中まで鬱展開続きます(注意)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる