蝶の羽根【完結】

深智

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蝶の行方

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 水が流れる音と鹿威しの乾いた硬質な音が規則的に響く広い日本庭園は、喪服を着た男達が居並ぶ物々しい雰囲気に包まれていた。

 大きな御屋敷の、庭に面した襖が開け放たれ、そこからは僧侶の読経が聞こえる。

 庭の外れの灰皿が置かれた喫煙スペースで、スラックスのポケットに片手を突っ込み煙草を吸う剣崎は周り男達の話を黙って聞いていた。

「これからあの街の勢力相関図が変わるな」

 一人の男が言うと別の男がまた口を開く。

「俺んとこは元々恩恵受けてねーからあんま損害はねーな」

 年配の男が言うと、また別の男が、うちもだ、と言い笑った。

「お前のとこが一番痛いんじゃねーのか?」

 黙って煙草を吸っていた剣崎に一人が声を掛けた。

「別に」

 煙を吐き出しながら、剣崎は不敵に笑ったが、多少ならずとも影響はあるな、と内心は考えていた。

 裏にも密接なパイプを持つ政財界の大物で、フィクサーと言われ恐れられた大物の葬儀だった。各々の思惑が渦巻いている。

「強がるのも今のうちだな、剣崎」
「田崎さん!」

 背後から現れた田崎に数人がペコペコと頭を下げた。

「お前は大きな後ろ楯を失ったんだ。
もうこれからは今までみてーに大手を振って歩けまい?」

 手下の男を従え勝ち誇ったような表情を見せる田崎を、剣崎は睨む訳でもなく涼しい顔で見据えフンと鼻で笑った。

「俺は元々裸一貫から這い上がった人間だ。一から出直すくれーどって事ねーんだよ。でも今回は親爺さんが残してくれたモンもあるんでね。余裕だ」

 弱味など、見せてはいけない。

 少しでも隙を見せたらあっという間に足元を掬われる。一瞬足りとも気を抜いてはいけない。

 喰うか、喰われるか。
 生きるか、死ぬか。

 それが、この世界に生きる人間の生き方だ。守りたいモノがあるヤツが、ハマってはいけない。

「いつでもかかって来いや」

 剣崎は口角を上げ、煙を吐き出し灰皿にタバコを押し付けた時、田崎が言った。

「あのガキ、出所して行方くらましたらしいな」

 剣崎の動きがほんの一瞬止まった。だが直ぐにフッと笑い、顔を上げる。

「そうなのか? 俺は出所した事すら知らねーな」

 感情を読ませない表情を田崎に向けた。

「ムショ入ってからアイツには二度くらいしか会ってねーし。行方くらましたっつー事は尻尾巻いて逃げたんじゃね? そーんな小物を追っかける程オッサンは暇じゃねーだろ?」

 悔しそうな表情を見せた田崎を剣崎はクックと笑いながら横目で見、ヒラヒラと手を振りながらその場を立ち去った。

 そうかアイツ、出られたか。

 歩き出した剣崎は兵藤が以前言った言葉を思い返し、ほくそ笑む。

『出所が決まっても連絡はしなくていい、とアイツの手紙に書いておいた』

 アイツ、ちゃんと保の言葉をまもったな。それでいいんだ。

 龍吾元気でな、と彼は小さく呟き天を仰いだ。




†††

 青い空が何処までも続く港。キュー……と鳴くカモメの声がのどかに響く。白波を立て、岸壁に打ち寄せる波が係留する漁船を揺らしていた。

「凛子ちゃぁん。それぇ、終わったら夕食支度まで休んでぇ」

 民宿の女将が勝手口から凛花に声を掛けた。

「はーい」

 広くはない調理場で夕食のおみおつけ用の具材準備に追われていた凛花は包丁片手に明るい声で返事をした。

 小さな離島の、老夫婦が切り盛りする民宿は、夏場は観光客もいるが、釣り客がほとんどだ。

 秋に差し掛かる今は、めっきり客が減り島全体にのんびりとした時間が流れていた。

「台風のシケで出られんかった本島からの船が来とる。憲吾ちゃん連れて港行っといで」

 言いながら割烹着姿の初老の女将が段差のある勝手口をよいしょと上がってきた。

「ありがとうございます」

 凛花は切られた具材を綺麗にバットにのせていきながら微笑んだ。

「憲吾ちゃん、誕生日やけー。なんかエエもんぎょーさん積んで来とるかもしれーん」

 ニコニコしながら女将が言った。

「さあ、どうでしょう……」

 手際よく調理場で働きながら凛花も楽しそうに答えた。

 下ごしらえが終わり、それらにラップをかけたところで女将が言う。

「後はエエから、ホラ、憲吾ちゃん連れて行ってこ」
「え、でも」

 申し訳なさそうにする凛花に女将は、エエからエエから、と背中を押した。

「じゃあ、お言葉に甘えて」
「気にせんと。台風一過のキレーな青空、見られるけ」

 色々な地方の訛りが混ざり合った女将の喋り口調は不思議と人を和ませる。

「すみません、後はお願いします」と、頭を下げ三角巾とエプロンを外した凛花は勝手口から外に出た。

 勝手口を出ると食材が入った段ボールやビールケースが軒下に並び、その先には小さな裏庭があった。

 漁師でもある宿の主人が網の手入れをしており、脇にチョコンと座る小さな男の子と何かお喋りをしていた。

「憲吾も大きくなったら船乗るか?」
「うん! んでねっ、このっくらいおっきなおさかなとって、ママにたべさせてあげたいっ」

 男の子は手を一杯に広げ小さな身体で大きさを健気に伝えた。

「おぉっ! それは頼もしいな」

 普段は気難しい職人気質の頑固な老人が頬を緩め、相好を崩していた。

 凛花は微笑みながら声を掛けた。

「憲吾、おじさんの邪魔しちゃダメよ」
「あ、ママー!」

 憲吾と呼ばれた男の子が凛花に駆け寄り抱きついた。

「じゃまなんてしてないもん」

 はいはい、と頭を撫でる凛花に宿の主人が手を休め言う。

「港、行っといで」

 無骨でぶっきらぼうだが、芯の優しさが分かるから凛花は微笑む。

「はい」

 短く答えた彼女の髪を潮風が揺らしていた。



 高台にある宿からは青い空と紺碧の海が繋がる地平線が見え、本島が望むことができた。

 港へと続く道を下りていく凛花と憲吾の手を繋ぐ後ろ姿を見えなくなるまで見送る主人。

「よく働いて気が効いて。ホンにエエ子」
「そうやな」

 開いた勝手口から姿を現した女将がしみじみと言い、主人が答えた。

「あんな綺麗な子、こんなトコおったら勿体無いに」

 網の手入れを再開していた主人は答えなかった。

「教会の牧師さんに連れて来られた時より、身籠ってた事分かった時の方が戸惑ったねぇ」

 女将が少し遠い目で話す。

 凛花はここに来るまでの事情は話していない。宿の主人夫婦も、聞かずに受け入れた。

「でも、あんなエエ子はおらんね。ずっとここにおってくれたら」

 話している途中で中から電話の鳴る音が聞こえ女将は、おやおや、と入って行った。
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