舞姫【前編】

友秋

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ファーストキス

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 それは、突然。

 私にとって、と、貴方にとっては、違うんでしょう?

 貴方にとっては〝思いつき〟

 でも、私にとっては。

 〝一生〟なの。




「バレエ?」
「はい、小学、4年くらいまで、やってました」
「ふぅん」

 ソファにゆったりと座る星児が片手を口に当てたまま黙って考え込むように固まっている。リビングの大きな窓から差し込む陽射しが、彼の色素の薄い髪を柔らかく見せていた。

 キッチンでコーヒーを煎れていたみちるはその姿に思わず見惚れ、カップから溢れさせてしまう。

「あっ!」
「どうした?」

 小さな悲鳴を上げたみちるの元に星児が飛んで来た。

「なんだ、相変わらずだな」

 キッチンで溢してしまったコーヒーを拭きながら表情をほころばせて笑う星児の顔に、みちるの心臓が跳ね上がった。

「手は大丈夫か?」
「う、うん……」

 星児の手がみちるの白い手を取った。そっと見上げると、目が合ってしまう。

 だ、ダメ、です。まともに見てしまったら。



 珍しく、星児が平日の昼間家にいた。保は仕事だった。

 たまに顔を出し、みちるに色々な事を教えてくれる麗子はダンス教室での仕事の為に今日は来なかった。

 保とは、いつも2人でいる。どんなに長い時間2人きりでも、息が詰まるような感覚は、ない。けれど。

 どうして。どうしてこんなに苦しいの。

 みちるの中に眠る家族の温もりを思い起こさせる、保。保と一緒にいる〝時〟は、安らぎと幸せに包まれる。

 でも今は、刺激と鼓動。そして、痺れ。触れる手からは微弱な電流が伝わるような――。

 見つめ合う瞳が、離せない。涼しげな形の良い切れ長の目が、みちるを捉えて離さなかった。

 トクントクンと全身に伝わる鼓動がどんどん早くなっていくのが分かるダイレクトに伝わるよう狭いキッチンの空間。鼓動音が星児に伝わりはしないか、とみちるは思った。

 星児の表情が微かに動いた。瞳に柔らかな光が射し込んだように見えた。

「みちる」

 甘い音色の声はいつも、それだけでみちるの躰を痺れさせる力を持っている。

「……はい」

 震えそうな声で返事をする。優しい手がみちるの頬に触れ、思わず肩を竦めて目を閉じた。

「キスは……?」

 え? そっと目を開けて再び星児を見上げた。

 握られた手が。触れられる頬が。熱い。

「したこと、ない?」

「ない、ないです、ないですよ」

 聞こえるか、聞こえないか、の唐突な問いに少し抗議小さな声に、星児はフワリと笑った。

「じゃあ、教えてやるよ、俺が」

 それは、突然に。

 星児はみちるの頬に添えていた手をフワッと離し、流れるような動きで長い指を顎に掛けた。その指で顔をそっと上向きに促す。

 目を見開き固まるみちるに星児は柔らかく笑う。

「目、閉じてみ」

「あ……」

 恥ずかしそうに慌てて目を閉じたみちるを見、星児はゆっくり顔を近づけた。





 タバコの香りと、微かなメンソールの香りがした。

 そっと優しく触れる唇は、長く柔らかく。それは、みちるを悦楽の泉へと導くように。

 星児の手が優しくみちるの髪を梳く。その、髪を梳く指一本一本に躰が震えそうだった。

 だめ、力が、抜ける。

 しっかりと、でも優しく触れていた唇の感触がゆっくりと離れていく。完全に離れる直前、星児の舌がみちるの唇に微かに触れた。

 あ……。

 離れた瞬間、もう? と思ってしまった自分に恥ずかしさを覚え、みちるは解放された唇を手で覆った。

 鼓動が耳に響いて止まらない。ゆっくりと目を開き、溢れそうになる涙を堪えて星児を見詰めた。

「この続きはもう少し大人になったら教えてやるから」

 握った手をゆっくり放しながら話す星児の瞳は、真っ直ぐにみちるを見詰めていた。

 続きって、何? まだ何も理解出来ないみちるにはその先など想像も出来ない。

 自分はこんなにドキドキしてるのに。星児の涼しげな目に、みちるの胸に複雑な想いが去来していた。

 星児さん。私には、初めてで。

「泣くなって」

 見上げるみちるの目から涙が溢れた時初めて、ほんの少し、星児の目に困ったような色が挿したように見えた。

 だが、直ぐにその色は消える。星児は指で優しくみちるの頬に伝う涙を拭い、手をそのままそこに添えた。

 頬に触れている手からつい数分前の記憶がみちるの中に蘇り、胸にきゅぅ、と締め付けるような痛みが走った。

 星児は身体を屈ませ、みちると目線を合わせた。あまりに近いその距離感にみちるは固くなり、再びギュッと目を閉じた。

「今はもうしない」

 耳元で囁く、意識をとろけさせるような星児の声に小さく震えたみちるはそっと目を開けた。

 真剣な瞳がみちるを捉えていた。

「みちる、いいか」

 素直に「はい」と返事をしたみちるの頬から、星児の手がゆっくり離れた。

 見つめるみちるの唇を、星児は優しくなぞりながら諭すように言った。

「キス1つで、男を堕とせるようになるんだ」
「キス1つで、男の人を?」

 頷く星児の瞳が一瞬見せた、危険な光にみちるの鼓動が大きく脈打つ。

「女が1人で生きていく為の手段の一つだ」

 ますます分からない。首を傾げたみちるに星児は続ける。

「言ったろ、前に」

 厳しい響きを持った言葉にみちるは現実に引き戻された。拾われたあの日、星児が言った言葉を思い出す。

『自分の足で生き抜く力を身につけろ』

 私に待っている未来は? みちるの中に過去が廻る。けれど、一定の場所に辿り着くと行き詰まる。

 思い出せないのはきっと、帰りたくないという暗示だ。

 胸に押し寄せる悩み、迷い。苦しさに目を閉じうつ向いき胸元をギュッと握った。

「みちる」

 柔らかな声と頭を撫でる優しい手にみちるはハッと顔を上げた。みちるの視線が星児の穏やかな瞳とぶつかる。

「お前がちゃんと生きていけるようになるまで絶対に放り出したりはしねーから」
「星児さん」

 みちるの頭を撫でていた手が黒く艶やかな長い髪をゆっくりとすく。

 厳しさと、優しさと。みちるの〝心〟が抱きすくめられる。

 私、星児さんに触れたい。

 一瞬自分の中を過った想いにみちる地震驚かされた。

 私?

 けれども、直ぐに必死にその〝想い〟を打ち消した。

 直感。

 これ以上傷つき、苦しまない為、この先は決して踏み込んではいけない、というシグナル。

 目を閉じ、湧いた想いを否定するように微かに首を振ったみちるの耳元に星児が囁く。

「俺が、教えてやるから」

 次の瞬間、ほんのコンマ1秒程、唇が触れた。

 もう既に、抜けられないところにハマっているのかもしれない。



 みちるが顔を上げると、星児はもうキッチンにはいなかった。

「パチンコ行ってくる」

 手を挙げた星児がリビングのドアを開け出ていくところだった。

「行って、らっしゃい……」

 みちるもキッチンから小さく手を振った。


 これは、〝一瞬〟であり、〝一生〟。
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