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商店街が賑やかな喧騒に包まれる夕方。喫茶ローザの入口であるレトロなデザインのドアには準備中の札が掲げられていた。
客はいなくとも有線の静かなジャズが流れる店内は、重苦しい空気に満ちていた。
「星児、本気で言ってるのか」
カウンターの中に立つマスターは棚に寄りかかり腕を組んだまま動かなかった。星児の前に置かれたコーヒーは、もうすっかり冷めているが口をつけた様子はない。
「こんな事、冗談で言うわけねーだろ」
椅子に座り、腕を組む星児は無表情のままマスターと真っ直ぐ見合っていた。
「慎ちゃんの競馬で作った借金がどこまで膨らんでるかは知らねぇよ。でもこの店を抵当に入れる寸前なのは知ってるぜ。もし抵当にでも入れて、いや、その前に競売にでも掛けられてみろよ。この大事な財産、二束三文になっちまうよ?」
星児の言葉に動じる事なくマスターは黙って聞いていた。
「そうなる前に、俺がここを正当な値で買ってやるって言ってんだよ」
「人の大事な思い出、財産まで吸い上げた上に、僕に詐欺師紛いの事をさせる意味は何だ?」
星児はククと笑った。
「勿論、リスクだけ押し付けたりしねーよ。慎ちゃんが今抱える負債、俺が全て丸ごと引き受ける。その後の仕事も保証する。慎ちゃんさ、このまま放っとくと首くくることになるぜ?」
マスターの顔色が一瞬変わった。
「これは慎ちゃんにしか出来ねー事なんだよ。
東京の下町の人間なんてのは田舎の生活に窮するような老人達とは訳が違う。簡単に流される訳がねぇ。でもよ、慎ちゃんなら二十数年かけてここで築き上げてきた信頼関係みてーなもんがあるだろ」
「それをタテにして彼等を出し抜けっていうのか。二十数年かけて築き上げてきたものを一気に総崩しにしろっていうのか」
星児は失笑する。
「慎ちゃんさ、今更〝綺麗な生き方〟貫こうとしても無駄じゃね?」
マスターの顔が、苦痛にも似た歪みを見せた。
「星児、お前ってやつは……!」
拳を握り締めて身を起こした時、カランカランと入口ドアにかかる呼鈴が鳴った。
マスターは瞬時に表情を変え、「すみません、準備中で」と反応した。入って来た男は申し訳なさそうに頭を下げた。
「あ、いやすみません。客ではなくて、ちょっと話を聞きに来たんです」
入って来たのは、ガタイの良い厳しい目付きをした五十代くらいの男だ。困ったような愛想笑いを浮かべた。
彼を見た星児は直ぐにピンと来る。
「じゃ、マスター考えといてな」
椅子から立ち上がった星児に、マスターが低く静かな声で囁いた。
「星児、お前は今、郡司と大差ない事をしようとしてるんだって事、肝に銘じておくんだな」
星児は一瞬だけマスターに視線を送り「ごっそーさん」と千円札をカウンターに置いて席を立った。
「剣崎か?」
ドア付近に立っていた男が、星児とすれ違った時、肩を掴み言った。星児は顔を上げた。
不敵な笑みは、何をも恐れない異彩を放つ。
「誰だ、オッサン?」
星児は肩に置かれた手を払いのけた。
「俺、頭わりぃから、顔と名前覚えんの苦手なんだ」
ヒラヒラと手を振った星児はドアを開け出ていった――。
「貴方は? 星児の事、ご存知なんですか」
静まり返った店内に、マスターの声が響いた。マスターはカウンターの中から男の様子を伺っていた。
「ああ、すみません、私、実は警察官なんですが、今は職務ではないので手帳は出さずに名刺を」
言いながらマスターに歩み寄った男は名刺を差し出した。
警視庁のイメージキャラクター、ピーポくんが描かれたそれには
〝地域三係・警部 亀岡和夫〟
と書かれていた。
「亀岡」
マスターが名刺と亀岡を見比べながら記憶を辿るように呟いた。
「確か、亀岡さん、星児が世話になった刑事さんじゃ?」
亀岡はその言葉に目を丸くした。
「何故それを?」
そして、何故、剣崎がここに?
亀岡の目が、如実に語っていた。
マスターは笑みを溢し「まあどうぞ……」とカウンターの席を勧めた。亀岡が座ると彼はコーヒーを出した。
「私は、彼の身元保証人、みたいなものであの頃何度も警察署に面会に行ってました」
「ああ、そういえば……」
亀岡はマスターの言葉に星児が暴行事件を起こした頃の記憶を辿り、足繁く面会に通っていた男がいた事を思い出した。
「『剣崎には身寄りがいないから僕が』と来ていたのが、貴方でしたか」
「はい。あの時はホントに亀岡さんに世話になって」
「いや……」
照れ隠しに頭を掻く亀岡に、マスターがポツポツと話しを続ける。
「僕は、星児と同郷でしてね。彼が東京に出て来て暫くは面倒をみていたんですよ」
「じゃあ、やんちゃだった剣崎をよく知ってるんですね」
コーヒーカップを手に取った亀岡が快活に笑い、マスターは寂しそうに肩を竦めた。
「今でも充分やんちゃですよ。その、やんちゃの質が、随分と変わってしまいましたが」
やんちゃの質? 亀岡はカップに口を付けながら真剣な眼差しをマスターに送った。
マスターはスッと視線を外し微笑んだ。
「それより、亀岡さんは星児の話を聞きに来たわけではなさそうですが」
ああ、そうだった、と亀岡は徐に切り出した。
「アルバイトの、女の子の事なんですが」
「アルバイト? ああ、みちるちゃんの事ですか?」
亀岡は、そうです、と言い、話を切り出す。
「この間、その彼女が襲われた事件、私は担当ではなかったんですが、彼女にはちょっと縁みたいのがありましてね。ここで働いている、と調書で知って、話が聞けるかな、と」
マスターはすまなそうな表情を見せた。
「御足労頂いたところ申し訳ないのですが、みちるちゃんは、あの事件の後ここは辞めてしまったんですよ」
辞めた……。亀岡の中にガックリと落胆する感情が流れた。
ここで途切れてしまったか。亀岡はコーヒーに口を付けたが、それなら、と閃いた。
剣崎と同郷なら兵藤とも親しい筈だな。
「すみません、じゃあ、ちょっと剣崎と、その相棒……」
「ああ保っちゃん、兵藤ですね」
亀岡に光が射した。
「同郷、ってのはどこなんです?」
「長崎ですよ、長崎県」
「長崎県……」
そんな遠くから、と亀岡は彼等に思いを巡らせた。
「でも」
「え?」
マスターを見ると、寂し気な笑みを見せていた。
「もうありません」
ない?
「ありません、というのは?」
亀岡は何の事か分からず聞き返してしまう。
故郷が、ない、というのは?
「焼失したんですよ。山間にあった、限界集落だったんですよ」
「限界、集落」
「冬の日に起きた山火事で、全て。
その時の生き残りは星児と保だけ。
僕はもう随分前に故郷を捨てて上京していたから、その時そこにはいなかった。
でも、親兄弟は失いましたよ。
あの火事であの村は地図から、いえ、存在していた事すら〝消された〟んです」
消された村? 亀岡はおずおずとマスターに伺う。
「じゃあ、その集落の生き残りは、貴方と、剣崎と兵藤だけ、ですか?」
マスターは温かいコーヒーを入れたカップを、亀岡の前に置かれたそれと取り替えながら言う。
「いえ、兵藤の姉が。当時中学生だった彼女は集落から出、寮生活か何かしていたらしいので」
ああそういや、と亀岡は、星児の起こした暴行事件は、一人の女性の為に起こした事件だった事を思い出した。
その女性というのが、兵藤の姉だった。
記憶を手繰り寄せる彼に、マスターが、それから、と言う。
「もう一人いました」
マスターは、噛み締めるようにゆっくりと続けた。
「TUD総合警備の社長、郡司……いや、津田武がそうです。もっとも、彼は出身地詐称してるようですから、その集落出身ではない事になってますが。これはここだけの話ですけど」
マスターは首を竦めた。
亀岡が追う、みちるの両親が命を落とした転落事故。その影にTUD総合警備がちらついている事が、亀岡に見えてきていた。
津田家の何か?
亀岡の中で何かが繋がった気がしたが、それが何かはまだ靄に包まれたように曖昧なままだった。
ただ、剣崎、兵藤、みちるの三人どこかで繋ぐ何かが存在しているように思えた。
「じゃあ、剣崎は出所後も貴方のところへ?」
「ええ、でも実際には僕の死んだ妻が彼の保護観察を」
「奥さん?」
「内縁でしたが。妻は保護司だったんですよ」
意外な話に亀岡は目を丸くしたが、にこやかなマスターの次の言葉に彼は二の句が告げなくなる。
「僕には前科があるんですよ。だから僕だけでは彼の身元引受する事は出来なかったんです。でも、彼女がいてくれたから――」
人の過去、歩んで来た人生には計り知れないものが詰まっている。
†††
客はいなくとも有線の静かなジャズが流れる店内は、重苦しい空気に満ちていた。
「星児、本気で言ってるのか」
カウンターの中に立つマスターは棚に寄りかかり腕を組んだまま動かなかった。星児の前に置かれたコーヒーは、もうすっかり冷めているが口をつけた様子はない。
「こんな事、冗談で言うわけねーだろ」
椅子に座り、腕を組む星児は無表情のままマスターと真っ直ぐ見合っていた。
「慎ちゃんの競馬で作った借金がどこまで膨らんでるかは知らねぇよ。でもこの店を抵当に入れる寸前なのは知ってるぜ。もし抵当にでも入れて、いや、その前に競売にでも掛けられてみろよ。この大事な財産、二束三文になっちまうよ?」
星児の言葉に動じる事なくマスターは黙って聞いていた。
「そうなる前に、俺がここを正当な値で買ってやるって言ってんだよ」
「人の大事な思い出、財産まで吸い上げた上に、僕に詐欺師紛いの事をさせる意味は何だ?」
星児はククと笑った。
「勿論、リスクだけ押し付けたりしねーよ。慎ちゃんが今抱える負債、俺が全て丸ごと引き受ける。その後の仕事も保証する。慎ちゃんさ、このまま放っとくと首くくることになるぜ?」
マスターの顔色が一瞬変わった。
「これは慎ちゃんにしか出来ねー事なんだよ。
東京の下町の人間なんてのは田舎の生活に窮するような老人達とは訳が違う。簡単に流される訳がねぇ。でもよ、慎ちゃんなら二十数年かけてここで築き上げてきた信頼関係みてーなもんがあるだろ」
「それをタテにして彼等を出し抜けっていうのか。二十数年かけて築き上げてきたものを一気に総崩しにしろっていうのか」
星児は失笑する。
「慎ちゃんさ、今更〝綺麗な生き方〟貫こうとしても無駄じゃね?」
マスターの顔が、苦痛にも似た歪みを見せた。
「星児、お前ってやつは……!」
拳を握り締めて身を起こした時、カランカランと入口ドアにかかる呼鈴が鳴った。
マスターは瞬時に表情を変え、「すみません、準備中で」と反応した。入って来た男は申し訳なさそうに頭を下げた。
「あ、いやすみません。客ではなくて、ちょっと話を聞きに来たんです」
入って来たのは、ガタイの良い厳しい目付きをした五十代くらいの男だ。困ったような愛想笑いを浮かべた。
彼を見た星児は直ぐにピンと来る。
「じゃ、マスター考えといてな」
椅子から立ち上がった星児に、マスターが低く静かな声で囁いた。
「星児、お前は今、郡司と大差ない事をしようとしてるんだって事、肝に銘じておくんだな」
星児は一瞬だけマスターに視線を送り「ごっそーさん」と千円札をカウンターに置いて席を立った。
「剣崎か?」
ドア付近に立っていた男が、星児とすれ違った時、肩を掴み言った。星児は顔を上げた。
不敵な笑みは、何をも恐れない異彩を放つ。
「誰だ、オッサン?」
星児は肩に置かれた手を払いのけた。
「俺、頭わりぃから、顔と名前覚えんの苦手なんだ」
ヒラヒラと手を振った星児はドアを開け出ていった――。
「貴方は? 星児の事、ご存知なんですか」
静まり返った店内に、マスターの声が響いた。マスターはカウンターの中から男の様子を伺っていた。
「ああ、すみません、私、実は警察官なんですが、今は職務ではないので手帳は出さずに名刺を」
言いながらマスターに歩み寄った男は名刺を差し出した。
警視庁のイメージキャラクター、ピーポくんが描かれたそれには
〝地域三係・警部 亀岡和夫〟
と書かれていた。
「亀岡」
マスターが名刺と亀岡を見比べながら記憶を辿るように呟いた。
「確か、亀岡さん、星児が世話になった刑事さんじゃ?」
亀岡はその言葉に目を丸くした。
「何故それを?」
そして、何故、剣崎がここに?
亀岡の目が、如実に語っていた。
マスターは笑みを溢し「まあどうぞ……」とカウンターの席を勧めた。亀岡が座ると彼はコーヒーを出した。
「私は、彼の身元保証人、みたいなものであの頃何度も警察署に面会に行ってました」
「ああ、そういえば……」
亀岡はマスターの言葉に星児が暴行事件を起こした頃の記憶を辿り、足繁く面会に通っていた男がいた事を思い出した。
「『剣崎には身寄りがいないから僕が』と来ていたのが、貴方でしたか」
「はい。あの時はホントに亀岡さんに世話になって」
「いや……」
照れ隠しに頭を掻く亀岡に、マスターがポツポツと話しを続ける。
「僕は、星児と同郷でしてね。彼が東京に出て来て暫くは面倒をみていたんですよ」
「じゃあ、やんちゃだった剣崎をよく知ってるんですね」
コーヒーカップを手に取った亀岡が快活に笑い、マスターは寂しそうに肩を竦めた。
「今でも充分やんちゃですよ。その、やんちゃの質が、随分と変わってしまいましたが」
やんちゃの質? 亀岡はカップに口を付けながら真剣な眼差しをマスターに送った。
マスターはスッと視線を外し微笑んだ。
「それより、亀岡さんは星児の話を聞きに来たわけではなさそうですが」
ああ、そうだった、と亀岡は徐に切り出した。
「アルバイトの、女の子の事なんですが」
「アルバイト? ああ、みちるちゃんの事ですか?」
亀岡は、そうです、と言い、話を切り出す。
「この間、その彼女が襲われた事件、私は担当ではなかったんですが、彼女にはちょっと縁みたいのがありましてね。ここで働いている、と調書で知って、話が聞けるかな、と」
マスターはすまなそうな表情を見せた。
「御足労頂いたところ申し訳ないのですが、みちるちゃんは、あの事件の後ここは辞めてしまったんですよ」
辞めた……。亀岡の中にガックリと落胆する感情が流れた。
ここで途切れてしまったか。亀岡はコーヒーに口を付けたが、それなら、と閃いた。
剣崎と同郷なら兵藤とも親しい筈だな。
「すみません、じゃあ、ちょっと剣崎と、その相棒……」
「ああ保っちゃん、兵藤ですね」
亀岡に光が射した。
「同郷、ってのはどこなんです?」
「長崎ですよ、長崎県」
「長崎県……」
そんな遠くから、と亀岡は彼等に思いを巡らせた。
「でも」
「え?」
マスターを見ると、寂し気な笑みを見せていた。
「もうありません」
ない?
「ありません、というのは?」
亀岡は何の事か分からず聞き返してしまう。
故郷が、ない、というのは?
「焼失したんですよ。山間にあった、限界集落だったんですよ」
「限界、集落」
「冬の日に起きた山火事で、全て。
その時の生き残りは星児と保だけ。
僕はもう随分前に故郷を捨てて上京していたから、その時そこにはいなかった。
でも、親兄弟は失いましたよ。
あの火事であの村は地図から、いえ、存在していた事すら〝消された〟んです」
消された村? 亀岡はおずおずとマスターに伺う。
「じゃあ、その集落の生き残りは、貴方と、剣崎と兵藤だけ、ですか?」
マスターは温かいコーヒーを入れたカップを、亀岡の前に置かれたそれと取り替えながら言う。
「いえ、兵藤の姉が。当時中学生だった彼女は集落から出、寮生活か何かしていたらしいので」
ああそういや、と亀岡は、星児の起こした暴行事件は、一人の女性の為に起こした事件だった事を思い出した。
その女性というのが、兵藤の姉だった。
記憶を手繰り寄せる彼に、マスターが、それから、と言う。
「もう一人いました」
マスターは、噛み締めるようにゆっくりと続けた。
「TUD総合警備の社長、郡司……いや、津田武がそうです。もっとも、彼は出身地詐称してるようですから、その集落出身ではない事になってますが。これはここだけの話ですけど」
マスターは首を竦めた。
亀岡が追う、みちるの両親が命を落とした転落事故。その影にTUD総合警備がちらついている事が、亀岡に見えてきていた。
津田家の何か?
亀岡の中で何かが繋がった気がしたが、それが何かはまだ靄に包まれたように曖昧なままだった。
ただ、剣崎、兵藤、みちるの三人どこかで繋ぐ何かが存在しているように思えた。
「じゃあ、剣崎は出所後も貴方のところへ?」
「ええ、でも実際には僕の死んだ妻が彼の保護観察を」
「奥さん?」
「内縁でしたが。妻は保護司だったんですよ」
意外な話に亀岡は目を丸くしたが、にこやかなマスターの次の言葉に彼は二の句が告げなくなる。
「僕には前科があるんですよ。だから僕だけでは彼の身元引受する事は出来なかったんです。でも、彼女がいてくれたから――」
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