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刑事と新聞記者
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八王子駅から程近い国道沿いの公団アパートに、亀岡の自宅はあった。
子供達はそれぞれ自立し家から出ており、看護師である妻は今夜は夜勤の為、亀岡は一人、冷蔵庫から出したキムチだけで缶ビールを飲み始めていた。
今まで調べあげた事を覚え書きした手帳を出して見直す。
津田武。郡司、とか最初に言って言い直したな、あのマスター。
郡司、武。郡司武……長崎。そこで亀岡はふと閃いた。
待てよ、まさか。
亀岡は立ち上がり隣の和室に行くと、本棚から使い古した手書きのアドレス帳を引っ張り出してきた。
確か、とペラペラと手帳を捲っていた亀岡はあるページを開き、止まった。開いたページを見ながら、電話を取った。
何回目かの呼び出し音で明るい男の声が電話の向こうから聞こえた。
「どうした、亀さん久しぶりだな。元気か?」
「ああ、元気だが、」
色々あってな、と言おうとして呑み込んだ。話し始めたら長くなりそうだ。
電話の相手は紺野という毎報新聞の記者だ。亀岡とは大学のサークル仲間で、社会に出た後も情報を交換し合う仲としてずっと交友を続けて来ていた。
しかし十年前、紺野はある事件のスクープネタを拾った事がきっかけで不本意な転勤を命ぜられ北の外れに飛ばされた。それからは、殆ど交流がなかった。
「お前、この番号が変わらないという事は、今も変わらず北海道の最果ての地にいるという事か」
冗談混じりの亀岡の言葉にちょっと投げやりな返答が返ってくる。
「そうさ、飼い殺しさ」
「なんだ、まさか本当にあれから一度も異動なしか?」
「そうだ。俺はもう恐らくダメだな。このままだ」
有能な記者だった彼がこんな状態に追いやられたきっかけとなったスクープというのは、一九七一年の年明け、九州地方であった山火事を追った記事だ。
山間を焼いたその火事は人里までの延焼は免れ、甚大な被害をもたらす事にはならなかったとして、今は殆ど人々の記憶には残っていない。
しかし、その実は違う。火事は山間にあった小さな集落を巻き込んでいたのだ。
火事発祥直後の新聞記事にはそう載っていた筈なのに、いつの間にか〝人的被害は無し〟という報道に差し替えられていた。明らかに何処かで、情報操作が為されていたのだ。
忘れ去られたその山火事を、紺野が掘り起こしたのが十年前。当時長崎支社にいた彼は、ある河川の水質汚染の取材をしている時、その上流にある化学工場に目を付けたのだ。
あの工場はいつからあった?
一つの疑問から始まった彼の調査からは思わぬものが掘り出されて来た。
工場用地の買収時点から既に、当時の通商産業省の役人が絡んでいた。その役人というのが、郡司武だったのだ。
工場の操業開始と時期を同じくして、局長クラスにまで上り詰めたその男の名はいつしか表舞台から消えていた。
新聞記者の血を騒がせるには充分すぎるスクープネタの匂い。
中央に戻る為のいい土産になるかもしれない! と紺野が深く敢行した取材は、思わぬ巨大権力との対峙となってしまったのだ。
上層部からそれ以上の取材の中止を勧告され、紺野は中央に戻るどころか、関東を飛び越え北の果てに飛ばされた。
知りすぎた。それが理由だったのだ、と後になって知った。命の危機を感じた時もあった事を、紺野は北海道に立つ直前、亀岡にだけ話していた。
家族のいた彼は、自分が守るべきものの為に、この最果ての地で、もう這い上がる為に足掻く事はやめたのだ。
「紺野、昔の嫌な事を蒸し返して悪いんだが」
亀岡は、言いにくそうに切り出した。
「郡司武、覚えてるか?」
一瞬の間があった。
「忘れたくても忘れられない名前だな」
抑えきれない感情を必死に堪える低い声だった。
「俺はその、姿の見えない名前だけの男に潰されたんだからな」
亀岡は、目を閉じた。
そうなのだ。紺野が辿り着いた時には既に、通産省に〝郡司武〟という男はいなかったのだ。
名がどこにも見つからなかったのは当然なのだ。通産省を去った〝郡司武〟は〝津田武〟になっていたのだから。
「お前はあれからもうあの取材は」
「していないし、思い出したくもない」
亀岡の言葉に覆い被せるように答えた紺野は、命は惜しいんでね、と結んだ。
命は惜しい、か。
紺野の言葉は、それだけ危ない目に遭った、という事を如実に語っていた。
そうだな、家族もいるんだからな。
「じゃあ、その取材メモやなんかは廃棄しちまったか?」
紺野は直ぐには答えなかった。ため息をつく気配があり、ゆっくりと低いトーンで答えた。
「棄てきれなかったな。あのスクープネタを見つけた時の武者震いみたいな感覚は今でも忘れられないからな」
棄てていない――!
座って話しをしていた亀岡は、思わず立ち上がる。
「その取材記録、ちょっと俺に預けてくれないか!」
†
数日後、小包として亀岡の元に送られてきた紺野からの荷物は、ノート二十冊以上分に録音記録も加えられていた。
これだけやったものをお蔵入りしなければいけなかった彼の悔しさは計り知れないな。
丁寧に箱から取材資料を出していた亀岡は、便箋一枚の手紙を見つけた。
『俺は昔みたいに役には立てないがーー』
詫びにも似た言葉で始まった短い手紙は、
『これだけは言っておく。気をつけろよ』
という言葉で結んであった。
亀岡は、自分が今何を調べようとしているのかは、紺野を巻き込みたくなかった為に言わなかった。彼も聞かなかった。
しかし彼は〝何か〟勘づいたのだろう。
記録類に目を通し、全てが良い状態で残されていたのを見た亀岡は、いつか陽の目を見る日を夢見たのかもしれないな、とチラリと思う。
ありがとうな、紺野。お前の血の滲むような努力、無駄にはしないからな。
心の中で呟きながら亀岡は一冊のノートを読み始めていた。
彼をこんな事態に陥れる発端となった例の化学工場と、山火事との因果関係がどこかに残してある筈だった。
あった――!
そのページを開いた亀岡は手を伸ばし、付近に置いてあった老眼鏡を取り、かけた。
〝化学工場は焼けた山の頂。着工は火事の1年後。集落があったと思われる場所は、工場へと続く道路となり綺麗に整備されーー〟
〝山全体の所有者は、郡司武。それ以前の所有者は、不明――〟
かくして、工場は堂々と汚染物質を垂れ流し続けた、という訳か。
工場は津田グループ傘下の津田化学工業のもの。
きな臭いな、と亀岡は思う。工場誘致にも相当な闇が潜んでいるのだろう。
郡司武という不気味な男の経歴は〝東大卒の通産省官僚〟としか残っていない。
待てよ。亀岡は自らが調べたものを書き留めた手帳を開き、目を見開いた。
津田みちるの父、津田恵太の経歴だ。彼は郡司武と東大の同期生で、同じ通商産業省の官僚だった。
亀岡はゴクリと生唾を呑み込んだ。
繋がった――。
亀岡は眼鏡を外し、眉間を押さえ天井を仰ぎ、頭の中を整理した。
TUD総合警備社長・津田武は、津田グループの総裁・津田恵三の娘婿だ。その津田武という男の経歴は全く明るみになっていない。
謎に包まれていたその男の正体は、津田家の本家婿養子となった〝郡司武〟だった。
見え隠れする、巨大財閥一家の中に渦巻く欲望、野望、そして陰謀。
恐らく、津田恵太と郡司武、いや津田武の間に、何かがあったのだ。
あの転落事故に繋がる何かがーー。
子供達はそれぞれ自立し家から出ており、看護師である妻は今夜は夜勤の為、亀岡は一人、冷蔵庫から出したキムチだけで缶ビールを飲み始めていた。
今まで調べあげた事を覚え書きした手帳を出して見直す。
津田武。郡司、とか最初に言って言い直したな、あのマスター。
郡司、武。郡司武……長崎。そこで亀岡はふと閃いた。
待てよ、まさか。
亀岡は立ち上がり隣の和室に行くと、本棚から使い古した手書きのアドレス帳を引っ張り出してきた。
確か、とペラペラと手帳を捲っていた亀岡はあるページを開き、止まった。開いたページを見ながら、電話を取った。
何回目かの呼び出し音で明るい男の声が電話の向こうから聞こえた。
「どうした、亀さん久しぶりだな。元気か?」
「ああ、元気だが、」
色々あってな、と言おうとして呑み込んだ。話し始めたら長くなりそうだ。
電話の相手は紺野という毎報新聞の記者だ。亀岡とは大学のサークル仲間で、社会に出た後も情報を交換し合う仲としてずっと交友を続けて来ていた。
しかし十年前、紺野はある事件のスクープネタを拾った事がきっかけで不本意な転勤を命ぜられ北の外れに飛ばされた。それからは、殆ど交流がなかった。
「お前、この番号が変わらないという事は、今も変わらず北海道の最果ての地にいるという事か」
冗談混じりの亀岡の言葉にちょっと投げやりな返答が返ってくる。
「そうさ、飼い殺しさ」
「なんだ、まさか本当にあれから一度も異動なしか?」
「そうだ。俺はもう恐らくダメだな。このままだ」
有能な記者だった彼がこんな状態に追いやられたきっかけとなったスクープというのは、一九七一年の年明け、九州地方であった山火事を追った記事だ。
山間を焼いたその火事は人里までの延焼は免れ、甚大な被害をもたらす事にはならなかったとして、今は殆ど人々の記憶には残っていない。
しかし、その実は違う。火事は山間にあった小さな集落を巻き込んでいたのだ。
火事発祥直後の新聞記事にはそう載っていた筈なのに、いつの間にか〝人的被害は無し〟という報道に差し替えられていた。明らかに何処かで、情報操作が為されていたのだ。
忘れ去られたその山火事を、紺野が掘り起こしたのが十年前。当時長崎支社にいた彼は、ある河川の水質汚染の取材をしている時、その上流にある化学工場に目を付けたのだ。
あの工場はいつからあった?
一つの疑問から始まった彼の調査からは思わぬものが掘り出されて来た。
工場用地の買収時点から既に、当時の通商産業省の役人が絡んでいた。その役人というのが、郡司武だったのだ。
工場の操業開始と時期を同じくして、局長クラスにまで上り詰めたその男の名はいつしか表舞台から消えていた。
新聞記者の血を騒がせるには充分すぎるスクープネタの匂い。
中央に戻る為のいい土産になるかもしれない! と紺野が深く敢行した取材は、思わぬ巨大権力との対峙となってしまったのだ。
上層部からそれ以上の取材の中止を勧告され、紺野は中央に戻るどころか、関東を飛び越え北の果てに飛ばされた。
知りすぎた。それが理由だったのだ、と後になって知った。命の危機を感じた時もあった事を、紺野は北海道に立つ直前、亀岡にだけ話していた。
家族のいた彼は、自分が守るべきものの為に、この最果ての地で、もう這い上がる為に足掻く事はやめたのだ。
「紺野、昔の嫌な事を蒸し返して悪いんだが」
亀岡は、言いにくそうに切り出した。
「郡司武、覚えてるか?」
一瞬の間があった。
「忘れたくても忘れられない名前だな」
抑えきれない感情を必死に堪える低い声だった。
「俺はその、姿の見えない名前だけの男に潰されたんだからな」
亀岡は、目を閉じた。
そうなのだ。紺野が辿り着いた時には既に、通産省に〝郡司武〟という男はいなかったのだ。
名がどこにも見つからなかったのは当然なのだ。通産省を去った〝郡司武〟は〝津田武〟になっていたのだから。
「お前はあれからもうあの取材は」
「していないし、思い出したくもない」
亀岡の言葉に覆い被せるように答えた紺野は、命は惜しいんでね、と結んだ。
命は惜しい、か。
紺野の言葉は、それだけ危ない目に遭った、という事を如実に語っていた。
そうだな、家族もいるんだからな。
「じゃあ、その取材メモやなんかは廃棄しちまったか?」
紺野は直ぐには答えなかった。ため息をつく気配があり、ゆっくりと低いトーンで答えた。
「棄てきれなかったな。あのスクープネタを見つけた時の武者震いみたいな感覚は今でも忘れられないからな」
棄てていない――!
座って話しをしていた亀岡は、思わず立ち上がる。
「その取材記録、ちょっと俺に預けてくれないか!」
†
数日後、小包として亀岡の元に送られてきた紺野からの荷物は、ノート二十冊以上分に録音記録も加えられていた。
これだけやったものをお蔵入りしなければいけなかった彼の悔しさは計り知れないな。
丁寧に箱から取材資料を出していた亀岡は、便箋一枚の手紙を見つけた。
『俺は昔みたいに役には立てないがーー』
詫びにも似た言葉で始まった短い手紙は、
『これだけは言っておく。気をつけろよ』
という言葉で結んであった。
亀岡は、自分が今何を調べようとしているのかは、紺野を巻き込みたくなかった為に言わなかった。彼も聞かなかった。
しかし彼は〝何か〟勘づいたのだろう。
記録類に目を通し、全てが良い状態で残されていたのを見た亀岡は、いつか陽の目を見る日を夢見たのかもしれないな、とチラリと思う。
ありがとうな、紺野。お前の血の滲むような努力、無駄にはしないからな。
心の中で呟きながら亀岡は一冊のノートを読み始めていた。
彼をこんな事態に陥れる発端となった例の化学工場と、山火事との因果関係がどこかに残してある筈だった。
あった――!
そのページを開いた亀岡は手を伸ばし、付近に置いてあった老眼鏡を取り、かけた。
〝化学工場は焼けた山の頂。着工は火事の1年後。集落があったと思われる場所は、工場へと続く道路となり綺麗に整備されーー〟
〝山全体の所有者は、郡司武。それ以前の所有者は、不明――〟
かくして、工場は堂々と汚染物質を垂れ流し続けた、という訳か。
工場は津田グループ傘下の津田化学工業のもの。
きな臭いな、と亀岡は思う。工場誘致にも相当な闇が潜んでいるのだろう。
郡司武という不気味な男の経歴は〝東大卒の通産省官僚〟としか残っていない。
待てよ。亀岡は自らが調べたものを書き留めた手帳を開き、目を見開いた。
津田みちるの父、津田恵太の経歴だ。彼は郡司武と東大の同期生で、同じ通商産業省の官僚だった。
亀岡はゴクリと生唾を呑み込んだ。
繋がった――。
亀岡は眼鏡を外し、眉間を押さえ天井を仰ぎ、頭の中を整理した。
TUD総合警備社長・津田武は、津田グループの総裁・津田恵三の娘婿だ。その津田武という男の経歴は全く明るみになっていない。
謎に包まれていたその男の正体は、津田家の本家婿養子となった〝郡司武〟だった。
見え隠れする、巨大財閥一家の中に渦巻く欲望、野望、そして陰謀。
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