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姫花ははっきりとその男の名を口にした訳ではない。御幸は姫花の言葉の中からキーワードを拾い合わせ、あの男に辿り着いた。
「うちの愛した男はんは、うちの腹違いの妹の恋人はんと古いお知り合いどした。舞花の事も、よう知ってはったんどす」
繋ぎ合わせた推測から生まれた一つの確証。
姫花の愛した男は、津田武!
言葉を失い黙って見つめる御幸の前で姫花はその双眸から涙を溢し、続けた。
「うちの愛した男んは、うちを愛してくれはったんやのうて、うちは、舞花の変わりやったとーー」
琵琶湖畔の老舗料亭の離れとなっている個室の静寂の中で、姫花の嗚咽が御幸の胸を締め付ける。
「姫扇、その男とは?」
冷静に、穏やかに御幸は聞いた。目を伏せた姫花は、力無く笑い、答える。
「捨てられました。右京はんだけを一途に想わんと、他の男はんに走って捨てられて。自業自得どすな」
顔を上げた彼女は健気にも作り笑いを浮かべて明るく言ってみせた。次の瞬間。
「右京はん?」
姫花は御幸の腕の中にいた。温かい感触が心の澱を洗い流し、強張り張り詰めていた全身を融解する。
やっといるべき場所を見つけたような感覚に心が解ける。
「もう、その男の事は忘れなさい」
僅かに荒い語気だった。感情をストレートに表す物言いなどした事の無かった御幸が、初めて吐露した激情だった。
泣きじゃくる姫花に、それが伝わっていたのかは分からなかったが、御幸は腕に力を込めて、ずっと姫花を抱いていた。
†
「右京はん! 彼から連絡があったんどす!」
姫花が御幸に全てを話した日からひと月程が経っていた。姫花を受け入れる準備を始めようとしていた。まだ伝えていなかった、はっきりとした心積もりも添えて。
姫花からの電話は、御幸が自宅の書斎で本を読んでいた静かな夜に鳴った。時計は、もう深夜を指そうという頃合い。
自分を捨てた男からたった今連絡があり、これから彼に会うと言う。
「姫扇⁉︎」
御幸は時計を見た。
こんな時間に⁉︎
不穏な予兆が貫く。
彼は、危険だ!
「やめなさい、姫扇!」
生まれて初めてと言っても良い程に声を荒げた御幸の切実な訴えが込められた言葉は、姫花にはもう届かない。
「右京はん、うちはやっぱり、あの人を忘れられへんのどす。愛しとるんどす!」
姫花が何を想い、何を求めていたのか。御幸にはもう知る術は無かった。
†††
人通りの少ない夜半に起きた、轢き逃げ事故だった。
偶然にも倒れていた姫花は早くに発見され、一命を取り留めるも、脳にも内蔵にも大きな損傷は無かったのに意識不明の重体。
奇跡的に助かった臨月間近の胎児の為だった。母体が必要とする筈の酸素を全て胎児に送る、という事態が姫花の体内で起きていたという。
彼女の停止した心臓の鼓動は戻って来たが、長時間酸素が送り込まれなかった脳の損傷は大きくほぼ脳死に近い状態となる。
駆け付けた救急隊員が、瀕死の姫花が絞り出すような刹那の、最期の言葉を聞いていた。
『……お腹の……赤ちゃんは……絶対に……助けてください……!』
御幸が駆け付けた時は既に、柔らかな声で話す事も、美しい笑顔を見ることも叶わない姿となっていた。
最期の最期まで、男の名前を口にはしなかった姫花。
事故が作為的であろう事は分かっているのに、事実を証明するものは何一つ無かった。
ピクリとも反応しない眠る姫花の手を握り締める御幸の中に込み上げるのは〝常に紳士であれ〟と育てられた者にとって恥ずべき感情だった。
噴き出しそうになる憤怒の感情を、御幸は必死に堪えていた。
「うちの愛した男はんは、うちの腹違いの妹の恋人はんと古いお知り合いどした。舞花の事も、よう知ってはったんどす」
繋ぎ合わせた推測から生まれた一つの確証。
姫花の愛した男は、津田武!
言葉を失い黙って見つめる御幸の前で姫花はその双眸から涙を溢し、続けた。
「うちの愛した男んは、うちを愛してくれはったんやのうて、うちは、舞花の変わりやったとーー」
琵琶湖畔の老舗料亭の離れとなっている個室の静寂の中で、姫花の嗚咽が御幸の胸を締め付ける。
「姫扇、その男とは?」
冷静に、穏やかに御幸は聞いた。目を伏せた姫花は、力無く笑い、答える。
「捨てられました。右京はんだけを一途に想わんと、他の男はんに走って捨てられて。自業自得どすな」
顔を上げた彼女は健気にも作り笑いを浮かべて明るく言ってみせた。次の瞬間。
「右京はん?」
姫花は御幸の腕の中にいた。温かい感触が心の澱を洗い流し、強張り張り詰めていた全身を融解する。
やっといるべき場所を見つけたような感覚に心が解ける。
「もう、その男の事は忘れなさい」
僅かに荒い語気だった。感情をストレートに表す物言いなどした事の無かった御幸が、初めて吐露した激情だった。
泣きじゃくる姫花に、それが伝わっていたのかは分からなかったが、御幸は腕に力を込めて、ずっと姫花を抱いていた。
†
「右京はん! 彼から連絡があったんどす!」
姫花が御幸に全てを話した日からひと月程が経っていた。姫花を受け入れる準備を始めようとしていた。まだ伝えていなかった、はっきりとした心積もりも添えて。
姫花からの電話は、御幸が自宅の書斎で本を読んでいた静かな夜に鳴った。時計は、もう深夜を指そうという頃合い。
自分を捨てた男からたった今連絡があり、これから彼に会うと言う。
「姫扇⁉︎」
御幸は時計を見た。
こんな時間に⁉︎
不穏な予兆が貫く。
彼は、危険だ!
「やめなさい、姫扇!」
生まれて初めてと言っても良い程に声を荒げた御幸の切実な訴えが込められた言葉は、姫花にはもう届かない。
「右京はん、うちはやっぱり、あの人を忘れられへんのどす。愛しとるんどす!」
姫花が何を想い、何を求めていたのか。御幸にはもう知る術は無かった。
†††
人通りの少ない夜半に起きた、轢き逃げ事故だった。
偶然にも倒れていた姫花は早くに発見され、一命を取り留めるも、脳にも内蔵にも大きな損傷は無かったのに意識不明の重体。
奇跡的に助かった臨月間近の胎児の為だった。母体が必要とする筈の酸素を全て胎児に送る、という事態が姫花の体内で起きていたという。
彼女の停止した心臓の鼓動は戻って来たが、長時間酸素が送り込まれなかった脳の損傷は大きくほぼ脳死に近い状態となる。
駆け付けた救急隊員が、瀕死の姫花が絞り出すような刹那の、最期の言葉を聞いていた。
『……お腹の……赤ちゃんは……絶対に……助けてください……!』
御幸が駆け付けた時は既に、柔らかな声で話す事も、美しい笑顔を見ることも叶わない姿となっていた。
最期の最期まで、男の名前を口にはしなかった姫花。
事故が作為的であろう事は分かっているのに、事実を証明するものは何一つ無かった。
ピクリとも反応しない眠る姫花の手を握り締める御幸の中に込み上げるのは〝常に紳士であれ〟と育てられた者にとって恥ずべき感情だった。
噴き出しそうになる憤怒の感情を、御幸は必死に堪えていた。
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