東京的非日常

月森文

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映画に恋する男

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「ねえ、豊さん。もう、私たち別れましょうか」


彼女がふわりと笑いながら言った。懐かしい笑顔だった。

いや、そんなことより何故だ。
何故別れを切り出される。

しかも、笑いながら言うことではないだろうに。


「豊さんは私のこと、もう好きじゃないでしょう?豊さんの頭の中に、私なんてこれっぽっちも、……いたとしても、ほんの少し、でしょう?」




出会ったのはいつだったか、彼女は俺より6歳年下で、年のわりに幼い顔つきの彼女は、その年に30代後半の壁をぶち破る俺に不釣り合いなほど、可愛らしかった。


確か出会った場所は、単館の映画館だったか。

そこの常連の俺は、いつものように映画を見終えて帰ろうとしていた。
が、映画館を出た俺を待ち受けていたのは、地面を勢いよくたたき付ける雨。

止みそうにない雨にもう一本観るか、と思った時、一人の女性が俺の隣に並んだ。


「止みそうにないですね」
「……え?」
「雨、土砂降り」
「あぁ。……そうですね」


綺麗な声だった。
透き通るような、優しい声。

雨で沈んだ俺の心を掬い上げるようで気持ちがいい、そんな柄にもないことを考えていると、彼女に顔を覗き込まれた。

真正面から見る彼女に心拍が乱れたのは、当然だった。
声だけでなく彼女自身が、透き通るように美しかったのだ。

彼女は俺に傘を押し付け言った。

「傘、使ってください。ちょっと、恥ずかしいかもしれませんけど、無いよりましですから」

俺の手元にすとんと降りてきた傘は、白地に花柄の刺繍の可愛らしいものだった。

幼くも綺麗な顔つきの彼女に目を奪われて黙ったままの俺を、彼女は戸惑っていると感じたのか、私は折りたたみ傘が、と言ってふわりと笑った。


「では、私はこれで」


折りたたみ傘をぱっと開き、早足で歩きだした彼女の背中に、俺は無意識に声を投げた。


「あの!……またここに来られますか?」


緊張に強張った声だった。
きっと今までで一番格好悪い俺だったろう。

彼女は足を止めて振り向き、あの声で、はい、と言った。


「俺、よくここ来ますから、この傘、次お会いした時に」


返します、そう言った俺に彼女はふわりと笑ってお辞儀をし、帰っていった。




それからしばらく俺は、映画館に傘を持って通った。
無論、彼女に傘を返すためだ。初めはかなり恥ずかしかった。
いかにも女物の傘を、しかもどんな晴天でも持って映画を見に来る、三十路前の男。
気持ち悪くないはずがない。

これがあとどのくらいつづくのだろう、とげんなりしたところに、彼女はやってきた。


あ、と声がした方を振り向けば、彼女があの笑顔で立っていた。
彼女は軽くお辞儀をして、それからどちらからともなく歩み寄った。


「傘、ありがとうございました。助かりました」
「いいえ。わざわざ返してくださって、ありがとうございます」


花柄なんて恥ずかしかったでしょう、と申し訳なさそうに微笑む彼女は、返ってきた傘に上品に手を添えていた。


「浅井さんが、あなたが私の傘を持って、毎日来てらっしゃるのを教えて下さったんです」
「浅井さん、……ああ、館長が」
「今週は彼が好きな監督の映画を公開するから、きっと通い詰めるだろうって」
「……はぁ、まったく館長は何を」


そういうと、彼女はくすくすと笑った。
そしてもう少し彼女と話していたかたかった俺の、昼飯でも行きませんかという誘いに快く頷いてくれた。




「あの人、どこまで言ってましたか?」
「……あ、浅井さん?」
「えぇ。どうせろくなこと言ってないんじゃないですか?」

小洒落たパスタ屋に入った。
何か食べたいものは、と聞くと遠慮がちに、パスタが好きなんですと彼女は答えた。


「いいえ、私が聞いたのは、あなたが常連さんでほぼ毎日通っていることと、最近の恋愛映画が苦手だってことだけです。恋愛映画、ご覧にならないんですか?」
「館長……。苦手というかなんというか、その、身体中が甘くなりそうなあの感覚が、どうも。まあ、苦手、ってことですかね」
「ふふ、でもなんとなくわかります。身体中が甘くなる感覚。私は苦手じゃないですけど、なかなか落ち着けません。そういえば、今週はたしか、溝口健二監督の映画が……」
「そうなんです。俺あの監督の作品好きなんですよね。何でって言われても、わからないんですけど。気づいたら好きで。今回のも、実は俺が館長に無理言ってやってもらったんです。単館って案外、そういうとこ融通ききますから。最近はなかなか上手いこといかない単館もあるみたいですけど、あそこはいいですね。…あ、すみません、俺ばっかり」

好きな映画の話になって自然と興奮していた俺は、あろうことかべらべらとまくし立てていた。
彼女はそんな俺に、本当に映画がお好きなんですね、といって笑った。



連絡先を交換し頻繁に連絡していた俺達は、連絡頻度に比例してどんどん互いに惹かれていった。
そうして知り合ってから一年経って、映画を見に行く約束をした日に、晴れて俺達は、いわゆる恋人という間柄になった。


恋人になるまでの一年間、互いに好意を寄せながらすごしてきた俺達は、それまでの雰囲気とあまり変わることはなかったがそれでもやはり、俺は彼女を愛していた。




なのに、何故。



「ねえ、豊さん。豊さんは、映画が好きですか?」
「映画は好きだけど……」
「じゃあ、私を、好きですか?」
「当たり前だ。それが」
「好き、ですか?映画は好きって言ってもらえるのに、私は、言ってはもらえませんか?」
「……、好きだ。好きだよ。でもなんで、別れることになるんだよ」


彼女は辛く悲しい笑顔だった。
もう、彼女の優しい、ふわりとした笑顔は見れないのだろうか。


「なんで、別れることになるんだ」
「……私、豊さんといると、大好きな映画を大嫌いになっちゃいそうなんです。自分勝手な思いだとは思います。でも、仕方ないんです。豊さんが、映画大好きだから。豊さんは、映画を嫌いになれますか?豊さんに大好きと言われる映画に嫉妬した私が、もし、私のために映画を嫌いになれといったら、嫌いになれますか?」

彼女の言っている意味がわからない。わけがわからない。
彼女は映画に嫉妬したと言った。
確かに俺は映画は好きだが、映画と彼女はまた別ものだ。
同じ土俵にあげるのが間違っている。

「ちょっと待てよ。俺はそんなに愛せてなかったか?俺がそんなに軽い気持ちで付き合っていたと思うのか?」


すると彼女は違うんですと言って、俯いていた顔を上げた。


「違うん、です…。私がただ単に、つまらない、やちもちを妬いただけなんです。でも、だからこそ、不安、だったんです」

何も言えない、何と言っていいかわからない俺に彼女は続けた。

「豊さんは私が映画のDVDをプレゼントしたら、喜びますか?」
「ああ、嬉しい」
「それは、私からの贈り物だから、ですか?それとも、好きな映画だから、ですか?」
「俺はお前がくれたものなら、何でも嬉しい。今までも、これからも。」
「これから、はありません。私は心の狭い女なんです。だからもう限界なんです。あなたと素直に、真正面から向き合える映画達をみると、劣等感を感じるんです。羨ましくて仕方ないんです。私はわがままな女なんです。豊さんのお気に入りの映画達よりも、豊さんに、好きと、言ってもらいたい。もっと真正面から、素直に、向き合いたい。でも、もう無理なんです」


彼女はそう言いながら、一筋涙を流した。

俺は自分が情けなかった。

彼女のことは心の底から愛している。
どんなお気に入りの映画にも負けないくらい、いや、比べるまでもない。

それほど愛しているのに、彼女をここまで追い詰めたのはきっと、伝わっていると安心して言葉にしてこなかったから。

なんで気づかなかったのか。

いや、彼女には言わなくとも伝わっていると思っていたのだ。


「私だって、まさか映画にやきもちを妬く人がいるなんて思ってもみませんでした。面倒な女はいやです。それに、身体中が甘くなりそうな恋愛をしてみたいんです。だから、別れましょう。ね」

そう言って彼女はローテーブルに合い鍵をことり、と置いて静かに出ていった。



なぜ俺は追い掛けないのだろう。
俺の愛は結局、その程度ということなのだろうか。



そういえば、記念日と気づかずに、名画座で一日を潰したことが何度もあった。
二年連続、クリスマスを単館で潰した。しかもプレゼントを渡したのは、一年目だけ。
彼女の誕生日だということを忘れて、いつもどおり映画に誘った。
途中で思い出したが、その時彼女はもう帰っていて、一緒に祝うことはなかった。


彼女は俺に何も言わなかった。願望も不平も、何も。

彼女はどれほど我慢していたのだろう。
どれだけ独りで泣いたのだろう。


俺はなんて情けないのだろう。
きっともう、俺は彼女を引き止めることはできない。

彼女を幸せに出来る自信はない。

それならいっそ、潔く身を引いて、大好きだった彼女の幸せを願おう。
それが、今の俺があげられる最大限の愛だ。




時刻は午後9時。いつもの場所で、もうすぐ黒澤映画が上映される。

「行くか」

返事がないことで独り言と化したそれに少しの淋しさを感じながら、俺は映画館へ向かった。



 
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